第1巻:魔王編 〜誰もが平等に死にゆく世界で〜 第2話:過酷な代償
第二章:「八葉の鍵の杖」と「魔法陣」と「贄」
バルタザールが広げた古びた羊皮紙には、異世界から勇者を呼び出すための術式と、それに要する「三つの素材」が血のような文字で克明に記されていた。円卓を囲む長たちの視線が、その紙面に集まる。静まり返った室内で、バルタザールは淡々と、しかしよく通る声で記述を読み上げ始めた。
「いにしえの書によれば、勇者召喚に必要なのは、空間を固定する魔法具『八葉の鍵の杖』、儀式を執り行う『八葉の魔法陣』、放置された異界の門を安定させるための『贄』。……問題は、その素材でございます」
バルタザールは一度言葉を区切り、円卓の長たちを見渡した。「まず、魔法陣の基礎となるのは『清き乙女の血』。これについてはすでに『白羽の矢』の選定方法を用いました。城の最上層から四方八方へ射かけた白い尾羽の矢。それが屋根に刺さった家の乙女、計八名が魔族の未来のために血を捧げることを承諾しております」
そこまではいい。問題は、残る二つだった。バルタザールが羊皮紙を指でなぞる。
「次に『八葉の鍵の杖』。その鍵となるのは、八人の『高位の魔法師の命』。……それも、ただの術者では足りません。召喚の膨大なエネルギーを制御し、空間を繋ぎ止めるだけの、一国に数人もいないような最高位の魔力を備えた者が、自らの意志で命を捧げねば術式は霧散します」
場に、凍りつくような沈黙が降りた。高位の魔法師。それは魔族にとって、五族の脅威から身を守るための貴重な最高戦力だ。それを一度に八人も、しかも命ごと消費するという。白羽の矢で無作為に選べるほど、そんな存在がこの貧しい魔王領に多くいるはずがなかった。
「……私が、最初の鍵となりましょう」
沈黙を破ったのは、先ほどまで計画に色を成して反対していた、人間族出身のマリーンだった。彼女は首元の漆黒の鱗を愛おしそうになぞりながら、どこか吹っ切れたような笑みを浮かべた。
「星の巡りは不穏を告げていました。ですが、座して死を待つよりはマシです。人間族出身の長として、またこの会議で決定に携わった責任から、我が身を捧げる覚悟はできています」
「マリーン、お前が行くなら、俺も行く」
円卓の間の重い扉が開き、一人の男が足音を響かせて入ってきた。マリーンの夫であり、同じく人間族出身の高位魔法使い、ボルトだった。
「ボルト!? なぜここに……お前は城下で待てと言ったはずよ!」
「妻を一人で逝かせる夫がどこにいる」
ボルトは駆け寄るマリーンの手を強く握り締め、我を見据えた。「魔王様。妻のいない世界で生きることを、俺の魂は拒絶している。この命、妻と共に魔族の未来の礎にしていただきたい」
二人は互いの体温を確かめ合うように固く手を結んでいた。大義のためとはいえ、そのあまりにも深い絆の尊さに、我が胸は引き裂かれるように痛んだ。
「エルフ族からは、私の家族を差し出しましょう」
元エルフのコナンの背後から、静かに、しかしリズミカルな足取りで進み出たのは、彼の妻であり、魔法に長けるエルフ族を指導する立場にあった長、メーデイアだった。彼女の両脇には、まだ十代半ばに見える二人の娘――ヴァレリアとナタラが寄り添っている。
「コナン……あなた、よくぞ賛成してくれました。魔力のないあなたを『肉の塊』と罵った同胞たちを見返してやりたいのでしょう?」
「メーデイア……お前たちまで、何を言って……」
コナンの丸太のような太い腕が、小刻みに震え始める。エルフの誇りである魔力を持たずに生まれた彼を、誰よりも愛し、支え続けたのがメーデイアだった。
「本当は魔王様の補助魔法師として、生きて儀式を手伝いたかったのですが。この子たちの強い意志もあり、我が身と、我が子らの命を『魔族』のために捧げます」
メーデイアの言葉に、娘のヴァレリアが涙を堪えながら頷いた。「お父様を、魔族を笑った五族を、私たちは許さない。お母様と一緒に、私たちが新しい世界の扉を開きます」
出来損ないと罵られた夫を、そしてその夫が命を懸けて守ろうとした魔族の国を救うため、母娘三人がその命を差し出したのだ。コナンは大きな拳を血がにじむほど握り締め、ただ床を見つめて歯を食いしばっていた。
「ドワーフからは、アタシしかいないねえ」
メ・ルモが寂しげに、しかしドワーフ特有の頑固な誇りを込めてパイプを強く吸った。「アタシのような変わり者を、魔王様は『ドワーフ唯一の魔法使い』と誇りに思ってくれた。呪われたこの手が、同族のための最高の武器(勇者)を鍛える火床になるんだ。これ以上の花道はありゃしないよ」
「獣人族からは、私の息子を往かせます」
ウルリーケが、一人の青年を前に押し出した。彼女の最愛の息子、エンリケだ。「母様の決めた理想を実現するため、僕の魔力をすべて捧げます。獣人に魔法など必要ないと言った連中の鼻を明かしてやりますよ」
「最後は、巨人族の私です」
部屋の最も暗い影から、盲目の老魔女、カサンドラが静かに杖を突いて進み出た。「その優しき心と同族のため、また、高位の魔法師としての誇りにかけ、自らを魔族のために捧げましょう」
……こうして、八人の尊き魔法師が揃った。彼らの肉体と魔力は、バルタザールとメ・ルモの手によって、空間の次元を固定する魔法具『八葉の鍵の杖』へと精錬されていった。杖の表面に埋め込まれた八つの宝石は、彼らの命の輝きそのものだった。
だが、過酷な代償はこれだけでは終わらない。最後に残されたのは、世界を繋ぐ門を完全なものにするための『贄』――「高貴な乙女の魂」である。魔族の領地における「高貴な血筋」など、ただ一つしか存在しない。
「ジェーン……」
我は会議の後、我が最愛の娘の部屋を訪れ、すべてを話した。我の娘を贄に捧げるということは、我が手で愛娘を殺すということに他ならない。我が心も、彼女の心も、ちぎれんばかりに苦しいものであった。我の巨躯は激しく震え、情けなくも涙が溢れて止まらなかった。
だが、ジェーンの小さな、温かい手が、そっと我が頬の涙を拭った。「お父様、泣かないで。私はとっても嬉しいのです。お父様の夢見る『誰もが平等に生きられる世界』。それが叶うなら、私の命なんて安いものです。私は、世界で一番強くて優しい、お父様の娘ですから」
「魔族に……栄光あれ!」
彼女の最期の笑顔が、我が脳裏に何度も何度も木霊していた。あまたの者たちの勇気ある決心と、身を切るような犠牲のもとに、すべての素材は揃った。時は満ち、物語は運命の五月一日――「魔女の日の夜」へと進む。




