第2話
かつてない規模の戦争が始まろうとしていた。
その足音は確かなものであったが、未だルテティアの街には平和の灯が点っていた。
戦争前夜のひとときが、そこにあった。
少女が祈りを捧げている。
ルテティアの宮殿内にある大聖堂は装飾は控えめなれど、質実剛健な創りが見て取れる。華美で優雅な造りが特徴の宮殿の中では一風変わった場所だ。
色とりどりのステンドグラスを通して注ぐ陽光は、荘厳な聖堂の中に柔らかな明かりを灯しているかのようだった。
しんと静まり返った聖堂だったが、しばらくして入り口の重く大きなドアを閉会する音が響き、ついで石床をブーツが鳴らす音が少女の耳に届いた。
しばらくして少女――レルシェル・デ・リュセフィーヌは金の髪を揺らして立ち上がり、ここに現れた者を出迎えた。
「すまないな、マリア。こんなところに呼び出して」
「いえ、大丈夫ですよ。王宮はいまや家のようなものですし。いえ、もう『王宮』ではないですが」
現れたのは錬金術師のマリア・ベネットだった。
彼女もセリオスによって選ばれた聖杯の騎士の一人で、魔物に対抗できる力を持つ者である。王国時代には『宮廷錬金術師』の称号を持ち、このルテティアの宮殿内に私室を持って錬金術の研究を行っていたが、革命後も宮殿内に居座り仕事を続けている。
「しかし意外ですね。レルシェルが神に祈りを捧げているなんて」
マリアは聖堂の置く中央にある『神の子』の姿を見つめて言った。
貼り付けにされた、やせ細った男の像。それはこの宗教の歴史と信仰を知らぬものであれば、犯罪者が処刑される前の姿にしか見えないだろう。
「待ってくれ。私は『異端』ではないぞ。たしかにこのところ忙しくて休日の礼拝すらさぼりがちではあったし、敬虔な……とは言えないかもしれないが」
レルシェルは苦笑いをしながら反論した。
「それで、御用とは?」
「うん、今後のことだ」
レルシェルは頷いて言った。
彼女の顔は微笑んでいたが、マリアは緊張を感じた。
レルシェルは首都総監の立場にあってルテティアの治安維持と警備の職務の最高責任者である。同時に聖杯の騎士を指揮し、ルテティアに現れる魔物への対処もその任の中にあった。その彼女が首都総監を更迭されることはマリアの耳にも届いていた。
「聖杯の騎士の指揮権をマリアに託したい」
「は?」
思わず素の声が出てしまったのはマリアである。
聡明で頭の回転が早い彼女であるが、あまりのことに二の句が継げず酸欠の魚のように口を開閉させてレルシェルを見つめていた。
「な、な、何を言うんですか。何で私が!」
「知っていると思うが、私は第十八師団の司令官に任命されることになった。まあ左遷だな。それはともかく、この任はルテティアを離れることもあるだろう。代役が必要だ。マリアは嫌か? 私はぴったりだと思ったんだけどな」
「嫌とかそう言うことじゃなくて。ぴったりとか服じゃないんですから。何故私なんですか」
珍しく動揺するマリアを見て、レルシェルは肩を竦めた。
マリアが動揺する理由もわかる。マリアは魔物の気配を感じる感覚の持ち主でもあり、錬金術を使って魔物と直接戦うこともあるが、魔物の研究や対抗する武器を練成したりする後方支援が本来の役割である。
「私は騎士でも軍人でもありません。指揮など採ったことないのですよ?」
「ふむ。それはそうだが」
レルシェルは腕を組み、もっともらしく頷いた。
「しかし現実的には個人の能力が頼みの聖杯の騎士だ。それほど気負う必要もないと思うぞ。特にフェデルタなんかは勝手に動いて私の指示なんかほとんど聞いてくれないし」
レルシェルが呆れたように言ったが、マリアは納得が行かないと言う顔でレルシェルを見つめ続けた。
「実戦の指揮についてはトルベック卿あたりに執ってもらおう。私もそのあたりを期待してマリアに言っているわけではないよ」
レルシェルは笑って言った。
トルベック卿は聖杯の騎士の一人であるが、騎士であり士官として従軍経験もある男だ。能力と経験において不足はなく、むしろ年齢や落ち着きのある振る舞いは指揮官として問題があるとは思えなかった。
「マリアにはそう言う現場とは違う領域での指揮をお願いしたい」
「しかし何故私なんですか」
「それはマリアが一番聖杯の騎士について知っているからだ」
レルシェルは即答した。
「マリアは聖杯の騎士のほとんどに武具を供給している。ここが重要だ。つまり個々の能力ついて一番良く知っているのがマリアだと言うことにならないか?」
レルシェルの考えにマリアは自分でも気づいていなかったことに気付かされてはっとなった。
「それに魔物や聖剣についてもおそらく聖杯の騎士の中で一番詳しいし」
「それは本職ですから……」
それでもマリアは迷っているようだった。
「マリアなら色々対外的にもうまくやってくれそうだし、なにより私はマリアを信頼している」
レルシェルの言葉はいつも明確で明瞭だ。それが心地よく心に刺さる。いつもこれに皆がやられているんだろうとマリアは思った。
「レルシェルにそう言われては仕方ありません。私があなたの期待通りできるかどうかわかりませんが、お引き受けしようと思います」
マリアは吹っ切れたように言った。
その返答にレルシェルは見るものを心地よくさせる笑顔で頷いた。
「大丈夫、マリアならうまくやれる。腹黒いから」
「待って。ちょっと待って……今なんて言いました?」
「いやあ、初めて会ったとき、私達をだましていただろう? あれを思い出すといろいろうまく立ち回ってくれそうだなあ……と」
じっとりとした視線で睨みつけるマリアからレルシェルは視線を逸らして答えた。
ユリアンが魔物化したときだ。その時マリアは聖杯の騎士であることを隠してレルシェルたちに接していた。
マリアはしばらく無言で抗議を続けたが、不意に小さく噴出した。
レルシェルもそれに苦笑いで応えた。
「まあ……とにかく頼むよ」
「しょうがないですね。頼まれました」
二人はお互いに視線を合わせて頷いた。
マリアは少しだけ表情に不安を浮かばせた。
「しかし……戦争が始まると言うこの時期に師団の司令官ですか」
「ああ。今回は国を上げての戦いになるだろう。まだどこと決まったわけではないが、私も前線に向かわねばならない。でもそれは私は幸運なことだと思っているんだ」
レルシェルは明るい表情で言った。マリアは不思議そうに首をかしげた。
「幸運?」
「いや、幸運と考えるようにした、と言うほうが正しいな。私の力がこの国を守ることができるのなら、私は存分に戦いたい。もちろん私一人の力で全部を守ることが出来るとは思えないが、守る力のひとつにはなれる」
レルシェルの声は力強かった。マリアはレルシェルの意思に感服して頷く。
「それにだ」
レルシェルは少し間をおくと肩を竦めた。
「負け戦が決まってから登場させられるのはもう嫌だ。登場する役者の身になって欲しい。勝つにせよ負けるにせよ、戦うなら最初からがいい」
レルシェルは鼻息荒く言った。
それが王国の建て直しのことなのか、革命戦争のことなのか。マリアには分からなかったが、彼女の言わんとしていることは理解できて苦笑いをした。とにかく彼女は最悪の場面で登場し、どうしようもない手札を駆使して抗ったが結果は悲惨なことになっていた。
「そうですね……しかしあなたは相変わらず勇者のようです」
「勇者?」
マリアの表現にレルシェルは小首をかしげた。そんなことを言われたことは今まで無かったように思う。
「あなたは自分のことを自分で決める勇気を持っている。そう言う人のことを勇者と呼ぶのですよ」
人生のすべてを自分で決断できるわけではない。しかし自分で決断すべきとき、自分で決断を下せる人間は実はそう多くない。自分のことを他者や既存の価値観に頼らずに決めると言うことは存外勇気が要るものだ。
「あなたには神など必要としていないのかもしれませんね」
マリアは『神の子』の像を見上げて言った。
「だから私は……」
「いえ、そう言う意味ではなく」
マリアの目はずっと『神の子』の像を見つめている。
神は見ることができない。神は精神に在るものとされているから、それを描くことも造り出すことも禁じられている。だから実在した『神の子』を像として祭る。
「あなたは『神の子』とその弟子達が神の教えを民衆に説いたことをどう思いますか?」
マリアの質問の意味をレルシェルはしばらく理解が出来ずに答えられなかった。
マリアはじっとレルシェルの解答を待った。
レルシェルはやや自信なく視線を逸らして口を開いた。
「彼らが神の存在や神の教えを民衆に、特に貧しい人々に分かりやすく説いたのは尊敬に値すると思う。おそらくあの時代は今よりもずっと貧しい。人々は日々の生活に絶望していただろう。そこへ一定の希望の光を与えたのだ。神を信じ、神の教えに従っていれば救われる。貧しく辛い毎日を過ごしていた人々には大きな希望になったに違いない。そう言う意味では彼らは多くの人に希望と倫理と秩序を与えたのだ」
レルシェルの言葉にマリアは深く頷いた。
レルシェルは続けた。
「だがそれと同時に彼らは大量の悲劇を生んだ。彼らの信仰はあの時代では『異端』だった。新しい価値観の誕生は旧い価値観との激しい軋轢を生んだだろう。軋轢は争いに発展し、はじめ少数派であった彼らは時の権力者達と大勢の民衆に弾圧と迫害を受けた。それでも人々は希望を求めた」
これは歴史が語るところでアーシェルの時代よりもさらに遡ることになるが、少しでも歴史を学んだ人間は理解できる話であった。
「……今のこの国と似ているかもしれません」
マリアは静かに言った。
レルシェルはマリアが言わんとしていることを理解したような気がした。
「弾圧と迫害を受けながらも彼らの信仰は民衆に広がり、いつかは国家の脅威となるほどの広がりました。大多数の民衆の前に権力者達も彼らの信仰を認めざるを得なくなりました。そうでなければ、国家が成り立たないほどに成長していたからです」
「新しい価値観が、旧い価値観を打ち破った」
マリアの言葉にレルシェルはやや目を細め頷いて言った。
しかしそれが正しい選択だったかどうか。賛否は分かれるのではないかとレルシェルなどは思う。
現在ではフェルナーデはもちろんのこと、周辺国家も含めて住まう人間の九割以上がこの神と神の子を崇拝している。そしてこの宗教は唯一神信仰であり、他の神と宗教を認めていない。
やがて権力者と民衆の精神を支配した信仰は、他の価値観を認めなくなった。
彼らの価値観こそが絶対であり、他を『異端』として弾圧し迫害した。かつて彼らがされたことを彼らが繰り返したことに、彼らにどれだけの自覚があっただろうか。
「他の国にとっては共和政治とは異端も異端だ。この国は、この国の民は選んだ道を、彼らのように選んだものを信じ続けることが出来るだろうか。そしてこれまで流れた血、これから流す血に値するものだろうか」
レルシェルはマリアが求めた問いの解にたどり着き、自問するような声で言った。
彼女は首をゆっくりと横に振った。
「私には分からない。私は専制国家の貴族の娘として生まれた。共和政治にとっては親の敵のような存在だろうし、私はまだ共和政治というものを良く理解していない」
「それでもあなたは共和政治のために戦うのですか?」
マリアの質問にレルシェルは雷に打たれたかのように身体をこわばらせた。
だが――。
「違う。私は私の守りたいもののために戦う。私が守りたいと言うのは私の周りにいる人だ。リュセフィーヌ家に関わりあるもの、下町のみんな、民衆……私を信じてくれた生死を分かち合った部下達。私が戦って守りたいものは、共和政治でも王政でもない。国家ですらないかもしれない。いや、国家と言うものは守るべきものを守るための道具に過ぎない」
レルシェルの強い口調にマリアは目を細めて微笑んだ。
そしてこれだからこそ、皆がこの二十歳に満たない少女についていくのだと確信した。
それはある意味信仰に近いものかもしれない。
「レルシェル、それはとてもあなたらしい。安心しました」
マリアが言うと、レルシェルは嬉しそうに表情を崩してマリアの両手を取った。
「ありがとう、マリア。私は大切なことに気付いたかもしれない」
マリアは柔らかに微笑んで、頷いた。
――あなたはすでに知っていたはずです。でも言葉にしたのはあなたの中でぼんやりとしたものをはっきりとさせたはずです。それが出来る人間は神の存在を、神による価値観を必要としないのかもしれません。他者や既存の価値観にとらわれない判断。果たしてこの国は、この国の人々は彼女のように勇者になれるでしょうか
マリアは再び『神の子』の像を見上げ、心の中でつぶやいた。




