1話『スラム街の若者』
――きっと大丈夫よ。マイルズと一緒ならお母さん何だって頑張れるんだから。
懐かしく暖かい光景。
この街に着いてからの母の一言に、子供ながらにしっかりしようと、母を支えたいと、そう思った。
――この街から出ていけっ!
――お前らのせいなんだぞ。俺たちがこんな目に遭ってるのは!
母と自分を大勢の人間が見ている。
その全ての視線が敵意と恐怖にまみれていて、母の手の温もりだけを頼りに心の平静を保っていた。
――気にしすぎよ! ちょっと派手に転んじゃっただけだから。それよりほら、今日はちょっとだけ奮発したから、一緒に食べよ。
どうして母さんはそんなに全身汚れているのか。顔にはうっすらとした痣。
今朝は元気だったのに、なぜ今はそんなにやつれているのか。
母は息子の心配の眼差しを見ないふりして、食事の支度をする。
――ごめん、ごめん、ごめんね、マイルズ……。マイルズばっかり苦労かけちゃって、ごめんね……。
日に日に衰弱していく母の姿。
一日でも長く一緒にいられるように、働かなければ。しかし、本当なら一分一秒でも母を見守っていたい。
少年は重苦しい葛藤を抱えつつも、母のいる小屋を出ていく。
仕事を終えて小屋に帰ってきた少年は、血の気の失せた母の姿を見つけた。そして――
◇
「おい、待て!うちの商品を返しやがれ」
スラム街のある通りを二人の男が走り抜ける。追いかけているのは前掛けをつけた中年男性で、露店で商売でもしていそうな格好だ。
追われている若者はあと3年もすれば成人といった見た目だが、その鋭い三白眼はどこか冷めた印象を与える。
薄汚れたシャツに麻作りの簡素なズボンは全体的に小汚く、髪もボサボサに伸びていて清潔感の欠片もない。
その手には数個の果物が抱えられており、中年のセリフと状況からその果物が真っ当な手段で手に入れたものでないことは明らかだ。
「(くそっ、ドジった。いつもならバレずに盗めるのにっ)」
息を荒げながら内心で舌打ちをする若者だが、スラムの構造に慣れているのだろう。十字路に差し掛かり右へ、そこから連続して何度も角を曲がり、ついには中年を巻くことに成功した。
息を整えたあと抱えていた果物の内の一つを口にした。
シャリッっとした気持ちの良い音と食感に舌鼓を打ちつつしばらくの間食事にありつく。
一人で食べるには多い量だったが、若者は何とか食べきったという表情でげっぷをする。
「さすがに多いな、でも食える時に食っとかないと盗られるし」
少し休んだ後、さてアジトに帰るかと若者は歩き出すが、しばらく歩いていると背後から声をかけられた。
「おいマイルズ、ちょっと止まれよ。今朝仕事に行くって言ってたよな、成果は上がったのか?」
声をかけてきたのはマイルズと呼ばれた若者よりもいくらか年上の背の高い男だった。
マイルズと同じように全身は小汚く、どこかにやついた表情を浮かべている。
その後ろには取り巻きが2人、同じようにマイルズの事をニヤついた目で見ている。
はぁ、またこいつらかよ……と、若者――マイルズは内心とは正反対の笑顔を貼り付けて振り向いた。
「ハンスのアニキ、お疲れ様です。いや〜散々でしたよ。果物屋の店主がいつも以上に警戒してて、盗んでる最中に気づかれちまいました」
「ったく、ホントお前はいっつもドジだな。今度俺らが仕事のテクを教えてやろうか~」
そう言ってハンスと呼ばれた男がマイルズの肩に腕を回す。
汗臭さが至近距離で漂ってくるが、マイルズは表情を少しも歪めない。
「ぜひお願いしますよ。俺ももっと仕事できるようになって、アニキたちみたいに早くファミリーの一員になりたいんで!」
「そうかそうか、じゃこれまで以上に働かないとな。成果上がったらきっちり報告しろよ、お前もファミリーに正式に入りたいなら成果は分かち合うって事を学んどかないとな!」
「はい、これからも色んな事勉強させてください!」
「励めよ、そんじゃあな。お使いが必要な時はまた呼ぶからよ」
そう言って男たちは下品に笑いながら去っていく。
マイルズは男たちの姿が見えなくなるまで深くお辞儀をしていたが、元の姿勢に戻るころには冷めきった三白眼の無表情に戻っていた。
「てめぇらから教わることなんて一つもねぇよマヌケ」
その小さな呟きは誰もいない路地にしんと吸い込まれていった――。




