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─第一話─ 沙羅双樹の約束

──それは、ひと皿の料理から始まった。

戦火が息をし始める時代、同じ艦に乗り合わせた二人の下士官。

やがて、火の粉は舞い狂う。

一人は波間に散る紅が絶えない海へ。

一人は命の花弁が散る陸へ。

それでも、交わした約束だけは、

何人であろうとも、

神であろうとも、

奪うことはできなかった──

艦内の朝は、いつも腹の音から始まる。

それを一番に聞くのは、決まって主計室だった。


「はいはい、今やってるって」


鍋の中をかき混ぜながら、自分は誰に向けるでもなく言う。

鉄の床は冷たく、天井は低い。波の音は遠く、代わりに蒸気の匂いがこもっている。

ここが戦艦の中だということを、忘れることはない。

今日の献立はけんちん汁だ。

さじを口に運び、顔がほころぶ。


「……うん、おいしい」


自分の料理を評価するのは、いつも他人の役目だと思っているが、たまには自画自賛してもいいだろう。


配膳の時間が近づくと、厨房の外が騒がしくなる。

金属が擦れる音、軍靴の足音、無駄話、上官の愚痴。

その中に、ひときわ静かな気配があった。

自分は顔を上げた。

入り口に立っていたのは、"あいつ"だった。

背筋がやけにまっすぐで、帽子の位置も正確だ。

食事を取りに来たにしては、他の人と少しだけ様子が違う。

──いつもどおりだな。


「……なあ、まだか?」


「ん? ああ、もうすぐ。座って待ってなよ」


自分は軽く笑って、鍋に蓋をした。

あいつは一言「了解」とだけ言って、近くの椅子に座って待っていた。

やがて配膳が始まり、列ができる。

あいつは最後まで並ばず、流れが落ち着いてから、静かに皿を差し出した。

人混みが苦手だということがよく分かる。

あいつには皆より少しだけ、汁を多くすくった。

理由はもちろん...なんとなくだ。


「はい」


皿を受け取ったあいつは、一瞬だけこちらを見た。


「ありがとな」


その言葉を聞きながら、あいつはもう次の皿に手を伸ばしていた。


この朝が、最後になるとは思っていなかった。

二度と同じ場所で食べられなくなることを。

自分の料理が、自分たちの運命を変えることを。

ただ、いつも通りの朝だった。

それだけだった。


──────────


配膳が終わっても、厨房は騒がしいままだった。

鍋が叩かれ、皿が積まれ、誰かが怒鳴る。

いつもの音が、いつもの速さで流れていく。


「おい、湯足りねえぞ」


「後でいい、今はこっち優先」


自分は返事をして、笑って、手を動かし続けた。

肩がぶつかり、湯気で眼鏡が曇る。

その中で、さっきの兵の姿だけが、もう見えなかった。

探したわけじゃない。

名前を呼ぼうとしたわけでもない。

ただ、次に来るはずの順番に、自然と目が行って、そこに誰も立っていないことに気づいただけだ。


「……次」


声に出して、はっとする。

返事はなかった。


「なんだ、もう終わりか」


誰かがそう言って、鍋を引き上げる。

自分は「そうだな」と答えた。

それで済むことだった。


ただの日常が過ぎてゆく。



今日の朝も、艦内はいつも通りの音に満ちていた。

金属が擦れる音。蒸気の匂い。階級呼びの声。

厨房の匂いは、ここまで届いている。

あいつは、もう朝食を配り終えただろうか。

しかし、いつもとは少し違う空気が漂っていた。

廊下の端で、上官たちがひそひそと話している。

耳を澄ませても、内容は聞こえない。

だが、嫌な予感がした。


昼の点呼で、呼び出された。

声のトーンは普段通りだが、言い渡される内容に、心臓が小さく跳ねる。


「──半月後、陸軍へ転属せよ」


その一言が、周囲の空気を一変させた。

同僚の視線が鋭く、冷たく、壁越しに刺さる。


だが、昼飯のとき、いつも通りの声が聞こえた。


「お、今日の昼はカレーだよ」


厨房から漂う匂いと一緒に、声は届く。

あいつは、何も変わらずに笑っている。


昼食の時間。

俺は列に並ぶことをためらった。

冷たい視線を思い出す。

だが、目の端で、あいつが鍋をかき混ぜる姿が見える。

いつも通り、淡々と、楽しそうに。

俺はそっと、皿を受け取った。


匂いをかぎ、スプーンを口に運ぶ。

一口、二口……

そして、思わず小さな声が出た。

「……美味しい」

誰にも届かない声だったが、胸の奥で確かに灯がついた。


この一瞬が、俺にとって初めての"帰る理由"になった。

あいつはそれを知らない。

あいつは鍋をかき混ぜながら、ただ次の皿に手を伸ばしていた。


だが、理由があってももう帰れないと思うと、やるせない気持ちになる。


「最後の上陸日に、あいつを誘ってどっかに行こうかな」


なんでそう思ったかは、よく分からなかった。



「なあ、どこいいくつもりなんだよ?」


来たる上陸日。主計室で最後の片付けをしながら、あいつに誘われたことを思い出していた。


「なあ、俺について来てくれよ」


そう言われたことを。

今日はあいつの最後の上陸日だ。

明後日にはもう、この艦にはいない。

だから今日は、あいつが行きたいところに付き合うつもりだった。

そうこうしているうちに、片付けが終わった。

あいつのところへ向かう。

──いた。

壁にもたれかけながら腕を組んで待っている。あいつだ。


「あ、やっと来たか。遅かったじゃないか」


「こっちは上官の分まで片付けしてたんだよ。少しは労れ」


「アータイヘンダッタネーヨクガンバリマシター」


「もうお前についていくのやめるぞ」


「すいませんでした許してください」


90度に近いお辞儀でそんなん言われたら、なんだか罪悪感が湧いてきた。


「...わかったよ。自分も言い過ぎた。それで、どこ行くんだよ」


「うーん、特に決めてない」


「はっ倒すぞ」


前言撤回。なんなんだよこいつ、明後日にはいなくなるくせに。

というか、なんで誘った側が何も考えてないんだよ、おかしいだろ。


「え、じゃあさ、お前ん家でカレー食わせてよ。その後に決めようぜ」


「...っは? いつも食べてるじゃん。なんで最後の上陸日に食べるんだよ」


「だって、これが最後かもしれないだろ?お前のカレーを食べるの。お前のは美味しいから、陸軍に入って食べられなくなると思うと、どうしても食べたくって」


「そこまで食べたいのならそれでいいけど...」


最後の上陸日だっていうのに、願いがそれでいいのか? とは思ったが、そこまで言われるなら作るしかない。別に断る理由もないし。


「じゃあ早く食材買いに行くぞ。カレーだけ食べて一日終わるとか、最悪だろ?」


「えー、それでもいいけどな。最後の上陸日がそれって、インパクトあるし」


「えぇ...」


価値観って人によって違うんだなって、改めて思った。


──────────


自分たちは食材を買ってきて、今からカレーを作るところだ。


「今回は戦艦でいつも食べてるカレーをアレンジした、特別なカレーを作るぞ」


「ん?カレーをアレンジしただけで特別になるのか?」


「このカレー、カレー屋を出したいっていう親戚のために、一緒にレシピを作ったカレーなんだよ。絶対美味しいから、お前に食べてほしいって思って」


「お、そんなに言うなら絶対美味しいんだな。お前が言うカレーにハズレはない」


「あ、じゃあ良かったじゃないか。親戚が店出したら自分がいなくてもいくらでも食えるぞ」


「お前のがいい。気持ちの問題」


完全に言い方が子供なのだが、その気持ちを否定することはできなかった。こんなにも自分が作る...もちろん、戦艦では他の人も関わってはいるが、そんなカレーをここまで美味しいと言ってくれるのは素直に嬉しい。


カレーを作っている途中に、あいつが一言。


「なあ、レシピ気になる。教えてくれよ」


自分は返答する。


「だーめ。絶対に秘密、墓場まで持ってくから。というか、お前がレシピを知ったところで作れないだろ、料理下手なんだし」


「それもそうだけど、気になるもんは気になるだろ」


どうやら諦める気はないらしい。自分は少し諦めた。


「じゃあ、教えてもらうとしたら店出す親戚に聞きな。もしかしたら教えてくれるかもよ」


「焦らしやがって...じゃあ、その親戚に教えてもらうから、そのお店の名前教ろよ。」


ここで残念なお知らせ。


「まだ決まってないらしい」


「なんだよそれ...」


すごい残念そうにしてる。少し可哀想だな...


「決まったら教えてやるから......お、もうすぐで出来るぞ、カレー」


「...ほんとだ。なんか、すごいいい匂いだな」


「そうだろ?味見するか?」


そう言って自分は銀色に光るスプーンを渡した。


「うわ、おいしい!なんかこう......とにかくおいしい!!」


「それじゃ分からんだろ」


あいつが破顔する。

──可愛らしい。

顔が可愛いのではない。雰囲気が可愛いのだ。

この笑顔を見て楽しいと思う自分がいる。

もっと見たいと思う自分がいる。


あいつの顔が見られなくなる。


別にこいつが死ぬわけじゃないのに、そう思ってしまう自分がいる。


──そんなことを考えている自分に、少しだけ違和感があった。戦時中なのに。軍人なのに。

それでも、こいつが死ぬところだけは、どうしても想像できなかった。


窓の外に、沙羅双樹が凛と咲いていた。



「はぁ、懐かしいな……」


あれから、どれほどの年月が流れたのだろうか。

一年、いや、半年か? むしろ、二年以上の可能性だってある。

──とにかく、あのことを“懐かしい”と思えるぐらいには、俺のなかで数多の月日が流れていた。

陸軍に転属されてすぐに、この南方へと送り込まれた。

数日前、敵の激しい砲撃にさらされた際、俺は部隊とはぐれた。

生い茂る原生林の中で方向を見失い、今ではもう、俺が島のどこにいるのかさえ分からない。

腕につけていた時計はとうの昔に泥と汗で壊れ、時間感覚なんてものはない。昼の灼熱と、夜の不気味な暗闇の区別しかできなかった。

まとわりつくような不快な湿気と、腐葉土の匂い。


「腹減ったな……」


独り言さえ、湿った空気に吸い込まれて消える。

鉄の床の冷たさも、あいつが作ってくれたカレーのスパイスの匂いも、まるで前世の記憶のように遠い。俺に残されているのは、空腹と、いつどこから撃たれるか分からない死の恐怖だけだった。


──その時。

空気を切り裂くような爆音と共に、頭上を敵機が通り過ぎていく。

反射的にシダの葉の影に身を潜めたが、降ってきたのは爆弾ではなく、無数の白い紙切れだった。

ヒラヒラと、雪のように舞い落ちてくる。

アメ公がよく撒いている降伏勧告のビラ──伝単だ。


「……またかよ」


力なく呟き、俺は気まぐれにその中の一枚を拾い上げた。

孤独に押しつぶされそうな今なら、例え敵が書いた文字でも読みたかったのかもしれない。


「──は?」


思考が完全に止まった。この戦果報告用の写真の意味を受け取れない。

──精一杯に言った言葉が、あいつの名前だった。


「嘘だろ、──」



艦内を揺るがす巨大な衝撃と共に、主計室の照明が弾け飛んだ。

非常用の赤暗い灯りが、もうもうと立ち込める蒸気を不気味に照らし出す。


「……っ、う、あ……」


床に叩きつけられた衝撃で、肩の骨が軋む。

立ち上がろうとしたが、足元がひどく熱い。割れた配管から熱湯のような蒸気が噴き出していた。

かつて兵士たちの空腹を満たす希望の場所だった厨房は、今や鉄が悲鳴を上げ、重油の臭いが充満する地獄へと変わっていた。


「……飯、まだ……っ……」


朦朧とする意識の中で、自分は無意識に転がったお玉に手を伸ばした。

艦が大きく傾く。

食器棚が崩れ落ち、何百という皿が砕け散る。金属が激しく擦れ合う音は、戦艦の断末魔のようだ。

浸水は予想よりも早かった。

ハッチの隙間から、冷たく濁った海水が猛烈な勢いで流れ込んでくる。


(ああ、もう、終わりか……)


首まで浸かった水の冷たさに、体温が急速に奪われていく。

逃げ惑う足音も、上官の怒鳴り声も、やがて遠い水音にかき消された。

暗い水底に沈みゆく中で、自分の脳裏に浮かんだのは、あいつの顔だった。


『お前のがいい。気持ちの問題』


そう言って、自分のカレーを誰よりも美味そうに食べてくれた、不器用な男。

あいつは今、どこにいるだろうか。

南方の泥の中で、腹を空かせてはいないだろうか。


(最後に、もう一回だけ……作ってやりたかったな……)


自分が伸ばした手は、誰の体温に触れることもなく、暗く深い海の底へと飲み込まれていく。

水圧で視界が真っ暗になる直前、最後に思い出したのは、あいつとの、最後の約束だった。

轟音と共に流れ込んでくる冷たい海水が、その記憶さえも塗りつぶそうとする。

もう、二度と火は灯せない。

鍋を振ることも、あいつの帰りを待つことも叶わない。


(ごめんな、約束、守れそうにないわ……)


自分の意識は、深い、深い、紺碧の闇へと溶けていった。



「嘘だろ、叶...」


息の仕方を忘れたように、喉がヒュッと鳴る。

粗い白黒写真。

そこに写っていたのは、激しい黒煙を上げ、無残に傾きながら海へと沈みゆく巨大な鉄の城だった。

──見間違えるはずがない。

俺が配属されていた、そして、あいつが今も乗っているはずの、あの戦艦だった。

心臓の奥が、冷たい氷を押し当てられたように冷えていく。

南方の熱気が、一瞬で消えた。

あいつはもういない。俺の「帰る理由」は、この粗い白黒写真の中に、永遠に沈んでしまったのだ。

こんなにも被害が大きいのなら、他の戦艦の救助は見込めない。

生温い雨が降り始め、ビラのインクを滲ませる。

俺はただ、泥の中に膝をつき、声を殺して慟哭(どうこく)した。


──────────


どれほど、そうしていたのだろうか。

不意に、目の前の茂みがガサリと揺れた。


「……!」


反射的に銃を構える。

数メートル先、泥にまみれた軍服を着た男と、目が合った。

若い、米兵だった。

相手も驚愕に目を見開き、銃口をこちらに向けている。


(撃て、今すぐ撃て! 殺さなきゃ殺される!)


脳が叫ぶ。汗で滑る指が引き金にかかる。

だが、その瞬間。

目の前の敵兵の震える瞳が、かつての厨房でカレーを頬張っていた仲間たちの瞳と重なった。

この男にも、帰りを待つ家族がいるのではないか。

この男が死んだら、海の向こうで誰かが、今の俺と同じような絶望を味わうのではないか。


──ほんの一瞬。


銃爪を引くことを躊躇った、その刹那。

乾いた銃声が、ジャングルの静寂を切り裂く。

衝撃と共に、胸の奥に熱い塊が撃ち込まれる。

遅れてやってきた激痛に、俺は仰向けに倒れ込む。

視界が急激に狭まり、空が遠くなる。


「……あ……」


最後の力を振り絞り、俺は引き金を引いた。

向こう側でも、短い叫びと共に、何かが崩れ落ちる音がした。

意識が遠のいていく。身体が急激に冷たくなっていくのが分かる。

その時、記憶の片隅にあったあいつの名前を、はっきりと思い出した。


──遠和 叶(とおわかなう)


あいつと一緒に入れてよかった。あいつのカレーが食べられてよかった。後は……


「約束、叶えたかったなぁ……」


それが、俺の最期の思考だった。

視界が、ゆっくりと閉じていく──


──────────


遠和 叶(とおわかなう)───享年23歳

切本 再希(きりもとさいき)──享年25歳


──────────


「ごちそうさま、めっっっちゃ美味しかった!」


「お粗末様でした。というか、めっちゃ食べたな。太るぞ」


「ひどくない?というか、これぐらいじゃ日々の運動で太らんだろ」


「それもそうだな」


「......なあ、叶。俺が、あっちから帰ってきたらさ、必ずまた、お前のカレーを食わせてくれよ。それが、俺の"帰る理由"だから」


「ああ、任せとけよ。最高のやつを作って待ってるから。絶対に生きて帰ってこいよ

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