第六十八話
捜査会議の熱気が残る京都府警の廊下を、吉川は足早に歩いた。
想子の財布は無事に見つかった。能楽堂の清掃員が届けたという報せに、吉川は安堵すると同時に、彼女を待たせている喫茶店へと急いだ。夜8時を過ぎた古びた喫茶店「純」の奥で、想子は参考書を広げ、熱心にシャーペンを動かしていた。
「……遅いわよ、刑事さん。課題が終わっちゃうところだったわ」
想子が顔を上げ、不敵に微笑む。その大きな瞳には、15歳の少女らしからぬ深い知性の光が宿っていた。吉川は向かい合わせに座り、周囲に客がいないことを確認してから、声を潜めて話し始めた。
吉川は想子との戦国時代の思い出に浸りながら、手帳を広げた。
”非公式だが……想子と事情聴取の情報を共有しよう。今回の事件、関係者の顔ぶれがあまりに不自然だ。想子とのあの戦国時代の記憶が今回の事件の鍵かもしれないから”
大野春長(49): 市会議員。地盤はまさに現場の能楽堂周辺。「態度は尊大で威張り散らしていた。加納月との接点は否定しているが、あの顔……」 「大野修理にそっくりね」 想子が短く断じた。
日海与三郎(50): 囲碁棋士。ひげを蓄えた白髪の男。「パーティ会場で加納と会ったことはあるが、事件当日に彼女が来ていたとは知らなかったと供述している」 「本因坊算砂の法名が日海よ。……あの、偽算砂にそっくりなわけね」
安宅来電(38): 新進気鋭の能楽師。伝統を壊すフュージョン能で話題。「野性的な色気のある男だ。俺とは肌が合わなそうだが……。彼は開演前から着席していたと言っている」 「顔は、あの来電そのものね」
堀尾羅美亜(35): 将棋の女流真名人。弓形の眉に切れ長の瞳。「一見、悪役令嬢のような冷徹な美貌だ。加納については『催しで見かけた程度』と一蹴している。死体を発見し、通報を促したのも彼女だ」 「小那姫……」 想子の唇が微かに震える。
その他、立会人の石川安生、記録係の望月貞子。それぞれの容姿とアリバイを聞くたび、想子は確信を深めるようにうなずいた。
「石山安兵衛に、絵師の貞さん……。面々は揃ったわね。でも、吉川さん。加納月の遺体、お腹に赤ちゃんがいたんでしょう?」
吉川は沈痛な面持ちでうなずいた。「ああ、司法解剖で判明した。現在はDNA鑑定中だ」
想子は溜息をつき、スマホの画面を見せた。そこには、彼女が独自に調べたという歴史検索のページが表示されていた。
「これを見て。歴史が……少しだけ歪んでいるの。家康公や大橋家の功績は正しい歴史通り。
でも、囲碁の初代権威者の名前が『本因坊算砂』ではなく『大野春氏』になっている。
算砂が歴史から消され、大野の名が囲碁の開祖に差し替えられている……。
この事件を解明すれば、すべてが本来の形に戻るはずよ」
想子は席を立ち、吉川を真っ直ぐに見つめた。
「年内は真女流名人戦の続きで関西にいるわ。タイトルを守りきって……何かがわかったら連絡するわね。……未来の旦那さん」
大晦日、伏見の千本鳥居にて
それから数日。吉川のSNSに想子から一通のメッセージが届いた。
「犯人がわかったと思う。大晦日の夜、伏見稲荷大社で待つ。調べてほしいこと、教えてほしいこともあるから」
2025年12月31日。吉川は冷え込む夜の空気を吸い込み、伏見稲荷の巨大な大鳥居を見上げた。
参拝客の喧騒を離れ、朱色のトンネルが続く千本鳥居へと歩みを進める。一段と冷え込む夜気の中。鳥居の影から、不意に白銀の光が漏れ出した。
吉川はゆっくりと、想子が待つ「境界線」へと向かった。あの戦国時代、レベル10のスマホが輝いたときと同じ、運命の鼓動が激しく高鳴っていた。




