第四十四話
「風が出てきたわ。帆を張って! 一気に加速するわよ!」
安宅船の甲板に、宗古の凛とした声が響き渡った。
戦国時代の海において、彼女の操る「風神」はまさに無敵のチートスキルだ。 宗古は吉川から手渡された二台目のスマホをいじり、慣れた手つきで『雪月花』のアプリを起動させた。
「刑事さんのスマホにも同じ機能があったわ。……いっけぇぇぇ!!」
宗古が画面をスワイプした瞬間、巨大な安宅船の帆が爆発的な音を立てて膨らんだ。
目に見えぬ「神の息吹」が船体を押し上げ、弩級の質量を持つ巨船が、まるで水面を滑る矢のように猛烈な加速を開始する。 船底が波を切り裂く轟音が、腹の底まで響いてきた。
「十五分おきに再起動しなきゃいけないのが不便ね……。でも、この速度なら……!」
黒潮と偏西風、そして風神の三重奏によって、安宅船は限界速度を超えて江戸へと突き進んだ。
並走していた小さな関船を瞬く間に抜き去り、波しぶきの中に置き去りにしていく。
数日後。空の色が変わり、潮の香りが濃くなった。
「江戸湾が見えてきたぞぉっ!」 見張りの絶叫が轟く。
船室の城閣から、家康が悠然と甲板へ降りてきた。彼は船長の九鬼と並び、変わりゆく江戸の景色を眺めている。
「海賊の影もないか。昔はこの辺りも物騒だったものだがな」
「家康殿、この九鬼が操る安宅船に、命知らずの海賊など現れませぬよ」
勝吉が吉川たちの傍らに歩み寄り、西の空を指差した。 「もうすぐ江戸です。二年前から家康殿が心血を注いでおられる新しい江戸城……西の丸も、淀君をお迎えするに相応しい威容を整えておりますよ」
「ねえ、あれは何?」
宗古が前方の海面を指差した。そこには一隻の関船が、まるで幽霊のように停泊している。
進むでも退くでもなく、ただそこに「待っている」不気味な静止。
甲板には人影一つ見えない。
安宅船がその関船に並びかけようとした、その時だった。
突如、無人と思われた関船の甲板から、一人の女が弾かれたように飛び出した。
目元以外を布で覆った漆黒の装束。彼女は空中でしなやかに弓を引き絞り、一点の曇りもない狙いで強弓を放った。
「家康様っ!!」
勝吉の叫びが響くのと同時に、鈍い衝撃音がした。家康が呻き声を上げ、その右腕に深く矢が突き刺さる。鮮血が家康の絹の小袖にどろりと広がり、赤黒い輪を広げていく。
「早く、奥へっ!」
勝吉が家康の体を抱え込み、自身の背中を盾にして船室へとなだれ込む。
女は間髪容れず、二本目の矢を番えた。標的を仕留めるまで逃がさぬという、氷のような殺気が海風を凍らせる。
「させないわよっ!」
宗古が身を乗り出し、スマホのレンズを女へと向けた。 「電磁干渉、最大出力!!」
スマホから目に見えぬ高周波の波動が放たれた。女が矢を放とうとした瞬間、彼女の視界が歪んだのか、二の矢は勝吉のすぐ横を虚しく通り抜けていく。女の目元が激しい怒りと苦痛に歪んだ。
「これでも……食らいなさいっ!」
女は弓を捨てると、腰の帯から奇怪な手裏剣を引き抜き、全力でこちらへ投げ込んできた。
「宗古!!」
柔らかい何かに硬いものが突き刺さる、嫌な音がした。宗古が衝撃で仰向けに倒れ込んでいく。吉川は反射的に彼女を抱き寄せ、その体の上に覆いかぶさった。
――ザッ!!
吉川の耳元を、冷たい鉄の風が通り抜けた。
「野郎ども! 我が船を、そして家康様を傷つけた代償を教えてやれッ! 大砲準備! ぶち壊せ!!」
九鬼の怒号が爆発した。安宅船の舷側から、いくつもの砲門が火を吹いた。
腹に響く凄まじい砲撃が、関船を正面から捉えた。木っ端微塵に砕け散る船体。割れた船底から漕ぎ手たちが次々と海へ投げ出されていく。
甲板にいた女は、驚異的な身のこなしで海へと飛び込むと、魚のような横泳ぎを見せ、そのまま水中へと深く潜っていった。九鬼は容赦なく、彼女が消えた海域にも砲弾を叩き込んだ。海面が何度も爆ぜ、巨大な水柱が逆巻いた。
「宗古! 大丈夫か! 返事をしろ!」
吉川は腕の中の宗古に必死で声をかけた。 宗古の顔は真っ青だったが、その瞳には理性の光が残っている。
「スマホの電磁波、効いたみたいね。でも……壊れちゃったかも」
宗古は震える手で、はだけた胸元からスマホを取り出した。
その瞬間、はだけた小袖の隙間から、開放されたばかりの柔らかな双丘が、激しい呼吸に合わせて露わになった。
白く瑞々しいその膨らみに、スマホの破片がキラリと光りながら食い込んでいる。
画面のガラスは蜘蛛の巣状に割れ、液晶は真っ黒に沈黙していた。
「スマホなんてどうでもいい。……お前が、お前が無事ならそれで……」
吉川は言葉を詰まらせ、彼女を力いっぱい抱きしめた。
腕の中に伝わる、宗古のしなやかで弾力のある肉体の熱量。恐怖で強張った彼女の心臓の鼓動が、俺の胸に直接響いてくる。
ふと視線を落とすと、甲板には「九曜」の紋が刻まれた手裏剣が深々と突き刺さっていた。
吉川の耳のあたりの髪が、数房、鋭く切り落とされている。あと数ミリ逸れていたら、頭蓋を貫かれていたはずだった。
「家康様は? 刑事さん、早く……」
宗古が俺の胸の中で、潤んだ瞳で訴えてきた。 そうだ、家康だ。あの深手を負った家康が無事なのか。
俺たちは揺れる船体を支えながら、家康が運び込まれた船室の奥へと駆け出した。




