第二十話
勝吉が部屋を辞去し、バタバタと足音が遠ざかっていく。船の手配に向かったのだろう。その慌ただしさと入れ替わるように、室内には冷たい緊張が降りてきた。
大野修理の待つ部屋へ向かう直前、宗古が早口で家康に詰め寄った。
「家康様、一点だけ。あの遠江分器稲荷神社で見つかった文書……あれは神社のどのような場所に隠されていたのですか?」
「それは私が……」
家康が答えるより早く、隣で青ざめていた小那姫が遮るように声を挙げた。
「あれは、神社に奉納されていた古びた囲碁盤の裏に、紙が直接貼り付けられていたのです。確か……『江戸城大火で失われた月の能面は神の使いが導く。伏見と王子を結ぶ真ん中に月が現れる』と。
今年、私が算砂様をご案内して本殿裏の倉庫に入った際、偶然見つけたものですわ」
「算砂様、それは間違いありませんか? そして……そのことを、どなたかに話しましたか?」
宗古の鋭い視線に、算砂はばつが悪そうに鼻をこすった。
「あ、ああ、確かに私が見つけた。倉庫の隅に、古いが妙に風格のある盤があるなと調べてみたら、裏に手紙のようなものが……。
まるで、盤に興味を持つ誰かが発見するのを待っているかのような代物だった。
それで……例によって月に按摩をしてもらって、気持ちよくなってきた時に、つい話してしまったのだよ。判じ物のような内容だったから、二人で首をかしげたものだが……」
(こいつか……!)
俺は内心で毒づいた。このスケベ親父の口から忍びの月に情報が漏れ、家康様以外の陣営にもあの文書の内容が筒抜けになったわけだ。
そしてあの文面……令和の事件で刺された加納月のパソコンにあったものと酷似している。だが、パソコンの記録には続きがあったはずだ。
俺は隣に座る宗古の横顔を盗み見た。
彼女もまた、言いようのない不安と疑念を瞳の奥に沈め、思案に暮れているようだった。
「宗古様、さつき様(吉川の偽名)。大野様がお待ちです」
家来の声に促され、宗古が静かに立ち上がる。俺もそれに続こうとしたその時――。
家康様が不意に立ち上がり、宗古の耳元に唇を寄せて囁いた。
宗古は驚いたように目を見開いたが、すぐに深くうなずくと、案内役の背を追って部屋を出た。
俺も慌てて、彼女の細い背中を追うように廊下を急いだ。
大野修理の部屋は、灯明の火が小さく揺れ、重苦しい静寂が支配していた。
宗古と俺は、豊臣家の重臣である彼に対し、形ばかりの平伏をして座した。
目の前の大野修理は、彫りの深い顔を険しく歪ませて座っている。
俺は現代で学んだ歴史の知識を総動員して、この男の横顔を観察した。
”今は1592年……だが史実では、この男は1599年に家康暗殺未遂の疑いで捕らえられ、流罪になるはずだ。その後、家康に許されて豊臣家に戻るが、最終的には大坂夏の陣で淀君と共に自害する不遇の智将。そして――淀君と密通し、秀頼の真の父親ではないかと囁かれた男”
大野修理がゆっくりと口を開いた。その声は低く、地を這うような威圧感を孕んでいる。
「楽にしてくれ」
彼は鋭い眼光を俺たちに向けたまま、隠そうともしない「忠義」という名の狂気を言葉に乗せた。
「私は太閤殿下、そして淀君様をはじめとする豊臣家の永遠の繁栄を心から、誰よりも強く願っている。
そのためには、如何なる非情な手段を採ることも厭わぬ。我らの安寧を脅かす芽は、どんなに小さくとも摘み取らねばならんのだ。さて、貴殿らに聞きたいことがある」
大野修理の指先が、膝の上でぴくりと動く。
その視線は、俺を通り越して宗古……いや、宗古がさらしの下に隠し持っている「何か」を射抜こうとしているかのようだった。
「お主らが探っている『月の小面』……あれが豊臣の未来に牙を剥く呪物であるならば、私はここで、お主らごと葬り去らねばならんのでな」
部屋の四隅に、気配が走った。隠密が潜んでいる。
俺は腰の短筒に手をかけたい衝動を必死に抑え、宗古の出方を待った。




