第二十一話
大野修理の私室に足を踏み入れた瞬間、ねっとりとした熱気が肌にまとわりついた。
正面に座る大野修理をまじまじと見ると、その顔は異様に上気している。
瞳はどこか虚ろで、全身から抗いようのない気だるい色香が漏れ出ていた。
経験こそないが、俺にはピンときた。
この男、今の今まで誰かと「秘め事」に耽っていたに違いない。残り香のように漂う妖しい香り。それは、広間で感じたあの淀君の香りに酷似していた。
大野修理が重い口を開いた。その声は低く、満足感のあとの余韻と、それを打ち消そうとする苛立ちが混じり合っている。
「家康殿と最近仲がいいらしいが、どういう関係なのだ」
宗古は男装の胸を張り、背筋を凛と伸ばして大野の目を鋭く射抜いた。
「父が家康様に将棋を指南しており、私もその供をしております。それ以上のことはございません」
「家康殿は豊臣の身内ではない。忠誠が揺らがぬか、我らは絶えず注視せねばならぬ。……貴殿らは、豊臣家に命を捧げられるのか?」
「太閤殿下には、父にさえ勝てる『太閤将棋』を献上いたしました。
殿下はそれをお気に召してくださっております。これこそが揺るぎのない忠誠心そのものだと存じます」
言葉の礫を投げ合うような、息詰まる腹の探り合い。大野修理はさらに畳み掛ける。
「月の小面について妙な噂を聞く。……宗古殿、貴殿が不思議なガラス細工の道具を操り、そこには本物と見紛うばかりの月の小面が映し出されていたとな。あれは家康殿が殿下より拝領したもののはず。単刀直入に聞く。貴殿らはあの宝を盗み出したか、あるいは偽物を捏造したのではないか?」
「滅相もございません!」
「ならば、もう一つの噂はどうだ。江戸城が大火に包まれた折、月の小面は失われ、神の使いがそれを再び現出させたという判じ物。……江戸の城が焼けたなどという話は聞かぬ。
『大火』とは夏至の隠語でもある。
おぬしたち、神の使いを装って太閤殿下を誑かそうとしているのではないか?
夏至の夜に面を盗み、すり替えたのではないかと聞いているのだ!」
(明暦の大火ではなく、夏至を指すのか……!)
思わぬ解釈に俺が戦慄していると、宗古は平然と誰かを待っているかのように大野の前で鎮座している。
大野の追及は止まらない。
豊臣の繁栄を脅かす者は、どんなに小さな火種でも踏み潰すという狂気が、その上気した顔に滲んでいる。
その時だ。
「御免。失礼いたしますぞ」
部屋の入り口から、朗々たる声が響いた。そこに立っていたのは、金剛太夫。先ほど『花の小面』で見事な舞を披露した、稀代の人気能楽師だ。
「呼んではいないが、何用か」
大野が不機嫌そうに声を荒げる。だが金剛太夫は、どこか超然とした笑みを浮かべて室内へと踏み込んできた。
「いやはや。宗桂殿の跡継ぎ、宗古殿の能楽の師を務めておりますのはこの私、金剛太夫。道具である能面について、私が今まさに教えている最中なのですが……。先ほど勝吉が秀吉様の前で演じた『月の小面』、あれは間違いなく本物。この金剛太夫が保証いたしましょう」
太夫の声には、有無を言わせぬ凄みがあった。
「私が太閤殿下に奉じた能に疑義を挟むとは、それこそ殿下への不敬ではござりませぬか?」
「貴殿がそこまで言うのならば、私の情報網の誤りであったか」
大野修理は苦々しく顔を歪めたが、太閤お気に入りの太夫を無下にはできない。
金剛太夫は追い打ちをかけるように付け加えた。
「それから件のガラス細工。あれは私が、異国の秘技を用いた『雪月花』の写しを精巧に描かせたお守りとして、彼女に授けたものです」
「分かった。金剛太夫殿の言葉に嘘はなかろう。
宗古殿、一旦は引き下がろう。
だが、もし今後『二つ目の月の小面』が現れるようなことがあれば、その時は覚悟しておくことだ。……戻って良い」
部屋を出たあと、宗古は金剛太夫に深く頭を下げた。
「助けていただき、ありがとうございます。家康様が、先ほど誰か助太刀を考えるとおっしゃておりましたが貴方様でしたか。なぜ、私たちを……」
「先ほど、家康殿と勝吉に頼まれましてな。
彼が大切に思っている若い者が難癖をつけられている、
月の小面で言いがかりをつけっれそうだから能の第一人者であるあなたから助太刀してほしいと。
勝吉はいずれ新しい流派を立てるべき男。家康殿と彼の頼みは断れぬ。……先ほどの話は咄嗟の嘘よ」
金剛太夫は豪快に笑ったが、その瞳がふいに真剣な色を帯びた。
「それに。貴殿の母上を思い出したのだ。
昔、母上から一振りの扇子をもらった。この時代にはない不思議な素材でできた、
『オーパーツ』とかいう名の扇子だ。
それを持っていると、不思議と心が落ち着いてな。
その時、母上から頼まれたのだ。
『いずれ私の子供が能のことで困っていたら、助けてやってほしい』と。
母上は美しい方だった。まるで、未来のことがすべて分かっているような話し方をされていたな」
宗古は衝撃に目を見開いた。母が、戦国時代の人間に「オーパーツ」という単語を教えていた?
「それから。さっき月の小面は本物と言ったが、勝吉が使ったのは『本物の写し』だ。写しもまた、本物の一部ゆえ嘘はついておらん。だが、大野修理の手元に『もう一つの本物』が渡る前に、早めに手に入れることだ」
金剛太夫は風のように去っていった。
宗古は呆然と立ち尽くしている。俺は彼女の震える手を取り、宗桂のおっさんの部屋へと促した。
「ありがとう。……手を繋いでくれて」
宗古が弱々しく微笑む。ふと振り返ると、俺たちがいた大野修理の部屋へ、能楽師の来電が吸い込まれるように入っていくのが見えた。
「部屋に戻る前に、抱きしめて!」
襖を目前にして、宗古が消え入りそうな、それでいて切実な甘い声で呟いた。
母の秘密に触れ、自分の存在そのものが歴史の激流に呑み込まれていくような不安に耐えかねたのだろう。
俺は無言で彼女の細い肩を引き寄せ、力強く抱き寄せた。
男装の小袖と、胸をきつく締め上げる「さらし」の感触。その硬い布地のすぐ裏側で、処女特有の、激しくもどこか無垢な鼓動がトクトクと俺の胸板に伝わってくる。
彼女の身体からは、淀君のような熟れきった果実の芳香ではなく、春の陽だまりに咲く蕾のような、瑞々しくも清らかな香りが熱を帯びて立ち昇っていた。
抱きしめる腕の中で、宗古は「はうっ」と小さな吐息を漏らし、俺の胸に顔を埋める。さらしで抑えられているとはいえ、その下に秘められた柔らかな膨らみの弾力が、密着した拍子に俺の身体を柔らかく押し返した。
指先でなぞれば壊れてしまいそうな華奢な背中。
しかし、その肌からは火傷しそうなほどの情熱が、少女から女へと脱皮しようとする危うい色香となって溢れ出していた。
「刑事さん……もっと、強く……」
彼女の熱い吐息が首筋をくすぐり、俺の理性が音を立てて崩れていく。
俺は彼女の顎を指先でそっと持ち上げた。涙に濡れた長い睫毛が震え、潤んだ瞳が、初めて触れられる接吻を待つかのように微かに閉じられる。
月の光を吸い込んだような白い肌が、期待と羞恥で薄桃色に上気し、震える唇がすぐ目の前で小さく開いた。 甘い蜜のような、混じりけのない純真な誘惑。あと数ミリ。互いの熱気が混じり合い、唇が重なり合おうとした、その瞬間――。
「宗古か。戻ったのか?」
襖の向こうから、野太く、およそ空気を読まないおっさんの声が響いた。
二人は弾かれたように離れた。宗古は顔を真っ赤にし、はだけかかった襟元を慌てて整え、不機嫌を絵に描いたような顔で勢いよく戸を開けた。
「お父さん、起きてたのね」
声のトーンは低く、怒りで微かに震えている。肥前の夜は、まだ明ける気配を見せない。




