第十四話
徳川家康の屋敷を後にした俺と宗古は、夕闇に包まれ始めた伏見稲荷大社へと足を運んでいた。
朱塗りの鳥居が延々と続く千本鳥居の入り口で、宗古が不意に足を止め、周囲を警戒するように見回してから俺に滲り寄った。
「あの文書を見たとき、心臓が止まるかと思ったわ……。家康様が話している隙に、こっそりスマホで撮っておいたの。これ、見て」
宗古が懐から取り出したスマホの画面には、あの不可解な古文書の文字が鮮明に浮かび上がっていた。
『江戸城大火で失われた月の能面は神の使いが導く。伏見と王子を結ぶ真ん中に月が現れる。
伏見と王子の真ん中は遠江。
月を持つ伏見の女と王子の男が合わさるとき、大晦日の夜に伏見から王子への扉が開かれる。
そして新たな王が誕生する』
「……未来の京都で、刺された加納月さんの自宅にあった断片と同じだ」
「ええ。でも、三行目以降に答えがあったわ。『伏見と王子の真ん中は遠江』……地図で見れば、伏見稲荷と江戸の王子稲荷を線で結んだ中間地点は、ちょうど浜松のあたり。つまり、本物の月の小面は、先日行った遠江分器稲荷神社のどこかに隠されているのよ」
宗古が俺の腕に自分の体を密着させてくる。
男装の袴越しに伝わる彼女の体温と、夕闇のなかで一段と輝きを増す瞳に、俺の胸は激しく高鳴った。
「『伏見の女』は宗古、君だ。そして『王子の男』は……この時代の設定では、俺ということになる。
俺は王子稲荷の宮司の息子らしいからな。
未来の俺も、実家は伏見だが、東京では北区の王子の近くに住んでいた」
「私は、未来では孤児だったから。自分のルーツなんて分からない。でも、この時代では伏見の宗桂の娘……。刑事さん、私……」
宗古の瞳が潤み、心細げに俺の袖を掴んだ。その折れそうなほど細い指先を見て、俺はこの少女を何としても守り抜き、元の世界へ連れて帰るという決意を新たにした。
「一人じゃない。俺が意気地なしかもしれないが、君の夫としてここにいる」
「ふふ。そうね。文書にある『合わさるとき』っていうのは、きっと夫婦として一つに溶け合うとき、という意味よね? 意気地なしのままだと、扉は開かないってことだわ」
宗古がいたずらっぽく、しかし情熱を孕んだ視線を俺に向けた。彼女の吐息が俺の耳たぶをかすめ、甘い残り香が理性を揺さぶる。
「刑事さん、私の『明晰夢』の話、覚えてる?」
急に宗古のトーンが落ち、ミステリアスな響きを帯びた。
「未来の私が何度も見た夢……。そこでは徳川家康じゃなく、豊臣秀頼の天下が続いているの。本当の大橋宗古は男で、父を名人にするために必死に戦っているけれど、歴史が狂っていて報われない。……そして、夢の中の宗古の母親が、スマホを持って『狐のアプリ』を作っていたの」
「宗古の母親が?」
「ええ。文書も、アプリも、あの母親が私たちを導くために仕組んだのかもしれない。
夢の中で、あなたは『さつき』という名の私の許嫁として、私を狂おしいほど愛してくれていたわ。
今とは性別が逆転しているけれど、あの異常なまでの情熱は……現実のあなたにも眠っているはずよ」
宗古は俺の胸板にその小さな手のひらを当て、ドクドクと波打つ心音を確かめるように押し付けた。
「家康様を利用しましょう。本物の小面を手に入れ、おっさんを一世名人にすることを条件に、名護屋まで同行するのよ」
その瞬間、伏見稲荷を包む空気が一変した。
風が唸りを上げ、雲が渦を巻きながら空を覆い尽くす。轟音と共に、巨大な紫色の稲妻が本殿の真上に突き刺さった。
「来たわ!」
宗古の手にあるスマホが、これまでにないほど激しく明滅を始めた。
画面には、血のように赤い狐の眼が浮かび上がり、氷の張るような音を立てて『雪月花』のアプリが強制起動する。
「あ、あああぁっ!」
宗古の体が、スマホから溢れ出す青白い光に包まれ、その衝撃で俺の胸に強く押し付けられた。
さらしで抑え込まれた双丘が、暴力的なまでの質量をもって俺の体にめり込む。彼女の肌から、火傷しそうなほどの熱気が立ち昇った。
画面の数値が狂ったように回転し、不気味な狐の遠吠えがスピーカーから鳴り響く。
LEVEL UP 3 / 10
LEVEL 3:[因縁の解読者]
「数値が上がった。あの文書を解き明かしたから、私たちの『因縁』が深まったんだわ」
光が収まったあと、宗古は荒い息をつきながら、蕩けたような瞳で俺を見上げた。彼女の頬は朱に染まり、全身から発せられる官能的な芳香が、稲荷の境内に満ちていた。
「刑事さん、聞こえる? 狐が笑ってる。名護屋で待ってるって」
雷鳴の余韻が響くなか、俺たちは闇に沈む千本鳥居の奥を見つめた。
そこには、歴史という名の巨大な怪物が、口を開けて待っているようだった。




