6 獣と死二神
三人は歩き続けた。
彼等が目指すのは南西のクイン小国。共和国の正式名称はサルザド十三同盟共和国である。サルザド国を主権とし、十二の小国が連なる連邦国家。クイン小国とは国というよりも巨大な城郭都市のような場所であり、そこに彼女の叔父ミハエルが住んでいる。ラセツの仕事はふたりにクインの門を生きてくぐらせることである。
「村です」
アシュレイが前方を指差した。
遠方に村の輪郭が浮かび上がった。
「今日はベッドで寝れるといいですね」
「そうですね。さすがに少し疲れました」
リリィは脚をさすった。
この三日間、彼等は歩きづめだった。川縁を進み、平原を歩き、山を越えた。上流階級の少女には辛い旅路だろうが、それでもリリィは弱音ひとつ見せなかった。
「どう思います、キダカさん」アシュレイは振り返り、後方を歩くラセツを見た。「あの村に滞在しても大丈夫でしょうか」
ラセツは周囲を見回した。薄曇りの空、暗い山陵、そしてどこまでも広がる畑。見えるのはそれだけだった。ラセツの五感の網には何ひとつ引っ掛からなかった。相手が何であろうと、尾行に気付かぬラセツではない。それが名高いヴェルカの猟犬ともなれば、その殺気や気配は常人とはかけ離れているだろう。
「問題ないだろ」ラセツはアシュレイに向き直った。「退屈なほど安全だ」
三人が訪れたのは農耕の盛んな村だった。だが農村にしては珍しく村の中心には家屋が集まり、ちょっとした街のような様相をていしていた。土仕事に薄汚れた男女や、たまたま通りかかったというような冒険者の集団が三人を見つめた。特に黒髪のラセツはこういう小さな村では目立つ。
「宿屋は無さそうですが、飯屋くらいはありそうですね。何か食べていきましょう」
「そうですね、私、お腹がペコペコです」
「お前等はゆっくりしてろ。俺は念のため少しこの村を見回ってくる」
そう言うとラセツは歩き出した。
「わかりました」
アシュレイが彼の背にそう答えた時、鈍い音が聞こえた。
村外れの小高い丘の上に、尖搭を持つ建物が見えた。古い教会だ。風にでも揺れたのだろう、釣鐘は数回その錆びついた音を響かせた。
いつの間にかラセツは消えていた。
「おっそいな。何やってんだよあの木偶の坊は」
女は悪態と共に唾を吐き、傍らに控える男を睨んだ。
「イシドロスさぁ、アンタの情報間違ってるんじゃない?」
「俺の情報はいつも確かです。それにたとえ間違っていたとしても、クイン小国への最短ルートはこの街道以外ありえません。ゲオルグ様は必ずこの村に立ち寄るはずです」
「確かとか必ずとかさぁ、そういう言葉が一番アテになんないんだよ。もう一日無駄にしてるじゃん。アタシは別に暇人じゃないんだよね。こんなボロ村の教会で時間を潰してるアタシの気持ちがアンタにわかる? なんでゲオルグの野郎は共和国で仕事なんか受けるかね。あの筋肉達磨、ブチ殺されたいのかな」
「団員同士の殺し合いは原則禁じられています。それに個々の仕事に干渉することも。もし干渉するのであれば、団員同士が直接顔を合わせ、両者の合意のもと話し合うのが猟犬の掟のはずです。ルールを破れば懲罰がかせられる。たとえそれが無頼の傭兵集団だとしても、いやだからこそ規律は大切なのです」
「アンタのお利口な説教に興味はないんだよ」
女は教会の石段から立ち上がった。と同時に背後で鈍い鐘の音が鳴り響いた。
女の乱雑な銀鼠色の髪が風に揺れた。前髪から覗く双眸は虎や豹の、ネコ科を思わせる残忍さを秘めていた。薄茶色の虹彩に縁取られた瞳は曇り空の下で赤く見えた。女は教会の壁に立て掛けられた戦鎌を手にすると、肩に担いだ。女性が持つにはあまりに不釣り合いな巨大な鎌だが、灰色の髪の女にはひどく似合っていた。
「アタシ帰るわ。ゲオルグにはアンタから伝えて」
「シシリカ様、先ほども言ったようにルールが」
「よく考えたらさ、別にゲオルグの仕事に干渉しようってわけじゃない。仕事仲間として少し忠告しとこうと思っただけ。だいたい猟犬同士が顔合わするのなんてデカい仕事の時だけで十分。アタシ等は馴れ合う為に傭兵団を作ったんじゃないんだよ」
女は相手が底冷えするような視線をイシドロスに向けた。
「ね、だからアンタが伝えておいて。アタシの部下でしょ?」
「わかりました」イシドロスは命の危険を感じ、すぐに同意した。「俺が言付けを預かります。それで何と言えば」
「クインはアタシの故郷だ。アタシは故郷が好きだ。共和国のどこで暴れたってかまわない、何人殺そうがどうでもいい、クイン以外でならね。ゲオルグの野郎の仕事が何であれ、アタシの故郷で暴れたら猟犬の掟など関係なく殺す。殺してその首を法王騎士団の神殿に放り込む。そしてその大剣を叩き割ってルドルフの墓前に突き刺す。そう忠告しといて」
「わかりました。しかしそんなことをいって大丈夫ですか? ゲオルグ様は寡黙に見えて血の気の多い方ですが」
「なに、アタシがあの木偶の坊に殺されるとでも?」
「いえ、俺が殺されませんかね」
「あー、そういうこと」シシリカはゲラゲラ嗤いながらイシドロスの肩を叩き「安心しなよ。そうなったら盛大に葬式あげてやるし、アンタの家族にも大金払ってやるから」
じゃあよろしく、と最後にもう一度イシドロスの肩を叩くとシシリカは背を向けた。
風で捲れ上がった服の下の後腹にそれが刻まれていた。
悪魔の角を持つ猟犬の刺青。
はた目から見れば氷のような美女だ。
だが彼女を知っているイシドロスの目には、シシリカは獰猛な肉食獣に思えた。
ヴェルカの猟犬。『死二神』の異名を持つ女傭兵。
シシリカ・トート・レリギオギー。
ラセツは村を見て回ったが、これといって目を引くものはなかった。危険な人物もいなければ、退路に困るような地形でもなかった。広々とした、長閑なことだけが取り柄のような村だ。
あと見ていないのは村外れの教会だけだった。
ラセツはそうは見えないが、仕事に忠実な男だ。アシュレイとリリィが彼を雇う際に提示した金額は破格といってもよかった。それは二人がラセツに最大限の価値と敬意を向けていると彼には思えた。仕事を受けるにたいして、ラセツの中でその二つは非常に重要な位置を占めていた。敬意も払わず金も払わないような人間は人間ではなく、家畜や豚でしかない。そういう存在は唾棄すべきものであり、殺す価値すらない。
教会は小高い丘の上にあった。
ラセツが教会への道を進んでいると、前方から女が歩いてきた。
銀鼠色の髪の、大鎌を担いだ女だった。
ラセツは女を視た。
女もラセツを視ていた。
薄赤い瞳と、剃刀のような視線が交差した。
ふたりは無言ですれ違い、
「オマエ誰だ」
ラセツの歩みを、女の声が引き留めた。
「俺に言っているのか?」
ラセツが振り返ると、女は肉食獣の眼でラセツを睨めていた。
「そう、アンタに聞いてるんだ」そう言うとシシリカは頭を掻いた。「おかしいな、大陸の危ない奴等の顔と名前はだいたい頭に叩き込んであるはずなんだけど。アタシってこれでも記憶力には自信があってさ、共和国ギルドの黒金級からグラントン盗賊団の末端構成員まで全員覚えてるんだよね。それなのにさ、アンタの顔と名前が出てこない。アンタみたいな眼をした野郎を忘れるはずがないんだけど」
「単純な話だ。初対面なんだ」
「なるほどね」
シシリカは愉しそうに嗤った。
「確かにそうだね。その黒髪と顔立ち、大陸の人間じゃない。ということは、海の向こうから来たわけだ」
「ああ」
「その腰の奇妙な剣、見たことある」シシリカはラセツの刀を指差した。「極東の蛮族が使う刃物だ。アア、ということはアンタ皇国の人間か。イカれた国の蛮族だ。どうりで血生臭いわけだ」
「あまり自分を棚にあげて人を侮辱しないことだ。お前の臭いも相当なものだ。俺の心が踊るほどに」
ラセツは狂暴な笑顔を浮かべた。
「アレ、もしかしてアタシ口説かれてる?」
「どうかな。だがお前が口説くに値する女か今ここで見極めるというのも悪くない」
「偉そうな野郎だ。そういことを言う奴を、アタシはさんざん血祭りに上げてきた」
「なら試してみるか? 俺を血祭りにできるか」
凄まじい殺気の応酬に空気が凍りついた。しばし沈黙がふたりの間を漂った。
「いや、やめとくわ」
殺気を解き、シシリカは首を振った。
「アタシは傭兵でね、金もかかってないのにアンタみたいなのと戦うのは割りに合わない」
「そいつは残念だ。まあ、仕方ない。俺にも先約があるしな」
「へぇ、以外と紳士だね。有無をいわさず斬りかかって来そうな気配だけどさ」
「確かに辻斬りのような殺しをすることはあるが、相手がお前のような獣の場合」ラセツはシシリカの眼を深く覗き込んだ。「ああ、獣とは俺の最大限の敬称だ。その血の匂いと殺気、その眼とその鎌に染み付いた死の気配、お前は間違いなく『獣』だ。俺にとって獣との殺し合いは何よりも重要であり、ゆえに形式を重んじる。俺は獣と完全な同意のもとに命をかけ、死力を尽くし、何物も介在することのできない想像を絶する殺し合いを演じたいんだ。凄絶で眼を覆いたくなるような血で血を洗う共食いこそ俺に完璧な瞬間を約束してくれる。開闢すらこの殺戮の為の通過点に過ぎず、天を見上げれば鷲が舞い地を見下ろせば蛇が這う、その両者を喰い殺せるのが獣であり、獣は永遠や輪廻を体現するが如く躍り狂う舞踏者であり、その舞踏者こそが俺なのだと実感することのできる殺し合いの為の、すべては布石でしかない。だからお前にその気がないなら仕方ない。無理強いしたところで虚しいだけだ」
「意味がわからねぇな。だがアンタがどういうタイプかわかったわ。戦場で会うと一番厄介な手合いだ。殺しの狂気に執り憑かれてんだ。血に酔ってる。酔いすぎてるぜ」
「俺が思うに狂気とは異常性じゃない。狂気とは決して折れぬ意思のことだ。俺の定義が正しければお前の中にも俺と同質の物があるはずだ」
「さあな、どっちにしてもその答え合わせをするのは今じゃない」
「ああ、そうだな」
「アンタとはまたどっかで会うだろうな」
「女の勘か?」
「猟犬の勘だ」
その言葉を最後に、ふたりは別れた。
去り際、シシリカはラセツに中指を突き立て「あばよ気狂い」と吐き捨てた。
ラセツはしばらくシシリカの背を眺め、やがて歩き始めた。
「俺が思っていたよりもこの大陸は」ラセツは教会を見た。錆びついた釣鐘がまた大きな音をたてた。雲間から鈍い陽光が射し込んだ。遠くの山並みから鳥影の群れが飛び立った。ラセツは嗤った。
「キドウの爺の言った通りだ。この大陸はなかなか面白い場所になりそうだ」