第一章 四つ首様
四つ首様を知っているだろうか。
それは山に棲んでいる。それは願いを叶える生き物である。姿は大きく、人の数倍もあり、毛むくじゃらの脚を持ち、そして、首がない。四つ首様は願いを叶える代わりに、首を要求するのだ。何の首でも、誰の首でも、首を捧げなければ──その後を、知る者はいない。
佐伯慎は鬱々としていた。
花の十代、遊び盛りの高校生であるが、友人と街に繰り出すこともなく付き合ったばかりの恋人とデートに行くこともなく滅多に行かない図書館に向かい、オカルト関連の本や怪談話を読み漁っている。めぼしい情報が見つからず、郷土史にまで手を伸ばし始めたあたりで、大きなため息をついた。どこにも、解決方法がない。
慎の頭を悩ませている原因は、四つ首様だ。いつから、どこまで広まっているかわからない噂話。聞いたことはあれどよもや鵜呑みにするほど子供でもなく、怖がるほど臆病でもない。だが、己の身に降りかかれば話は別だ。それが現実に存在するものだと知ってしまった。
四つ首様は、慎の願いを叶えた。そうして、毎晩耳元で囁くのだ。首を捧げよ、と。初めは幻聴を疑った。しかし朧げだった声は日に日に明瞭になり、三日目の晩、つまりは昨日に音をあげた。この三日はよく眠れなかった。夢にまで四つ首様が出て、慎に警告する。噂通りの姿をして、迫る。首を捧げよ、首を捧げよ。さもなくば、と、その続きは誰も知らない。四つ首様の噂は、行末だけが不明だった。皆好きずきに語り、まとまりがない。生贄にされる、神隠しに遭う、とバリエーションが豊富だ。どれにせよ、良いものではない。
手詰まりだった。そもそも、最悪の事態を回避するためとしても、首を捧げる方法がわからない。山というのはどの山なのか。何をもってして捧げたと認められるのか。
机に突っ伏した慎の上に、不意に影が落ちた。顔を上げると、背の高い青年がこちらを見ている。色素の薄い、榛色の瞳が印象的だった。長い睫毛は垂れた眦までを縁取っている。凹凸のしっかりした眼窩をしており、その上に整った眉があった。完璧に美形と言える目鼻立ちをしており、思わずまじまじと見入ってしまった。
惚けた慎に怪訝そうな顔をし、青年は周りに散乱させた本たちを指さして、困ったように言った。
「あの、その本を借りてもいいですか」
どうやら本を独占してしまったようだ。そう察して、慌てて本を掻き集める。どうせ、読んだところで何もわからない。譲らない理由はなかった。どの本を譲ってほしいのか、と聞こうとすると、青年は柳眉を更に下げて、少しばかり迷ってから慎の対面に座った。
不思議と、元より静かだった図書館内には無人のようにしんと静まり返っている。その違和感が育ちきる前に、青年は本の表紙に掌を乗せた。
「全部、見せてください。あなたが見たものを」
そして、続けた。
「四つ首様のことでお困りでしょう?」
怪しい者ではない、と前置きをして、咳払いを一つ。青年はこちらを見透かすような瞳で、慎を見た。そのとき気がついた。青年の他に、誰かがいる。その存在を見ようとして、できなかった。靄がかかって、視認できないのだ。ただ、そこに何かがいることだけはわかる。ぞくり、と背筋が震えた。慎は既に四つ首様を知っている。確実にあるものだと、理解している。だからこそ、そこにいる何かが人間ではないと即座に認識できた。
伸びた影を思わせるシルエット。かろうじて人の形をして、細く、煙じみて揺れている。口、であろう部分がゆったりと開き、声を発した。
「我々にお任せを。この奇譚師が、全てを解決してみせましょう」
シルエットがかくりと折れる。優雅に一礼をして、人ならざる者は愉快そうに笑った。冷や汗が頬を伝う。この青年すらも人間ではないのでは、と疑い始める。逃げ出すことはできた。だが、そうしなかった。どの道、慎が助かる術が見つからなかったからかもしれない。三日眠れず、精神が参っていたのかもしれない。
差し伸べられた手に、抗いがたい魅力を感じた。神々しく光り輝いて見えた。青年は穏やかに微笑んでいる。害意なく、悪意なく。
慎は、さながら導かれるようにその手を取った。
全ては人工物なのですよ、と影は語った。青年──小泉と名乗った彼は、慎が読み漁っていた本を真剣にパラパラと捲っている。その横で人ならざる者が朗々と演説をしていた。慎はぽかんとして聞いている。半分ほど頭の中に入っていない。それもそうだ。こんな非日常的空間で冷静でいられるはずもない。
「人が語ることで、それらは生まれる。定義される。そういった存在として。そして生まれた怪異を再定義するのが我々、奇譚師というわけです」
「はあ……」
「おっと、申し遅れました。私のことは万物を識る者とでも呼んでください」
またも、優雅に一礼。仕草がどうにも役者じみている。本から顔を上げた小泉が鬱陶しそうに影を叩いた。叩けたんだ、と、妙な感想を抱いた。
「見栄っ張りが。格好つけやがって」
「痛いではないか、小泉くん。それに、何も嘘は言っていないだろう」
「本当のことも言ってないけどな」
軽快なやり取りに目を丸くした。先程まで彼らを恐ろしく思っていたのに、ただの友人同士にも感じられた。小泉は温厚そうな態度を変えているし、影はまるで人間のようにぶつくさと文句を言っている。話に置き去りにされた慎を気遣ってか、小泉がこちらに向き直った。
「……失礼しました。こいつの名前はシャドウです。万物を識る、というのはあながち間違ってもいませんが、それは怪異に限ったものだ」
そのように定義された怪異である、と小泉は言った。改めて、本物の怪異であると説明されるも第一印象と今の印象は真逆であった。単に恐ろしく得体の知れないものとは思えなくなっている。
小泉は開いていた本を閉じて、さて、と切り出した。あれほどあった本の山をもう読み切ったらしい。驚くべきスピードだ。唖然としている慎の眼前に、ぴん、と人差し指が立てられる。その指先を目線で追った。
「四つ首様の噂。結末が曖昧なのはまだ定義されていないからです。それを、納得するように話を組み立て、シャドウが認知する。そうして再定義すれば、あなたは守られます」
「納得、というのは……?」
「四つ首様本人に、です」
──元々、噂話は噂話に過ぎないと言うのだ。四つ首様がいて、それが語られたのではなく、語られたことで四つ首様が生まれた。
四つ首様の物語。その物語を自分のことだ、と思い込む者がいる。名もなき人外。語られぬ怪異。力のないそれらは、人々の中にある想像上の怪物をアイデンティティにして顕現する。自分を、恐ろしく、強く、圧倒的な力を持つ怪異だと思い込む。核は無名の怪異であれ、想像力の鎧を着て、名前を得る。それが四つ首様の正体。
思いもよらない種明かしだった。飲み込めないでいる慎に、シャドウが大仰にわざとらしく両手を広げた。
「四つ首とやらがなりたがる姿に塗り替えればいいのです。都合のいいように、ね。彼にはその力がある」
「まあ……そういう血筋なもので」
謙遜か否か、小泉は頬を掻きながら肯定した。はぐらかしたような気配を感じたので、慎は深入りしないことにした。
「でも、どうやって?」
「例えば、弱点を付け加える、などは効果的に思えますが恐らく本人が納得しません。なので、別の方向から考えようと思います」
そこで、と小泉は連なった本の山を示した。慎が掻き集め、小泉が目を通した文献だ。これは何の役にも立たなかったはずだが、どうするというのだろう。
「あなたから見て、有益な情報がなかった、という点が収穫です。即ち、現状対処法がないということですから」
「でも、それって絶望的なんじゃ……」
「時に、あなたは四つ首様のことを俺が知っているのはおかしいとは思いませんでしたか?」
「え? ああ、はい。どうして事情を知っているんだろう、って」
「四つ首様が言いふらしているんですよ。人間の願いを叶えてやった、と。それはもう事細かに。だからあなたに辿り着くことができたんです」
ええ、と驚くと同時に随分と口の軽い怪異だな、と思った。個人情報も何もあったものではない。シャドウも同じ感想を抱いたのか、「自己顕示欲の塊だな、やれやれ」と首を振っている。もっとも、首らしき場所であるというだけで実際そうしているかどうかはわからないが。
「彼は自分の存在を誇示したいんです。自分こそが四つ首様なのだ、と。その中で重要視している部分はきっと、願いを叶えるという人智を超えた力。首を要求するという残虐さ。つまり彼は、自分を、人間より優れた力のある存在だと思いたいんでしょう。ならば、そこを利用します」
小泉はノートを取り出した。どこにでも売っている普通のノートだ。ページを捲って、そこに四つ首様、と書き込む。次いで、願いを叶える、首を要求する、と。
「確認しておきたいんですが、あなたは自ら願い事をしましたか?」
「……いいえ、になるんだと思います。願いはしました。けど、それは誰だってやる普通のことで……四つ首様に願った訳ではありません」
「押し売りのようですなあ。理不尽なところも怪異らしいと言えばそうですが、美学に反する」
シャドウは呆れた声を出した。理不尽。そう、理不尽なのだ。勝手に願いを叶えて、勝手に首を要求する。普通、順序が逆なのではないかと思う。首を捧げられてから願いを叶えるものではないのだろうか。
滅茶苦茶な怪異だ。結局のところ、首をどう捧げたらいいのかもまだわかっていない。
「そう、道理に則っていないのですよ。ですから、まず道理に則らせます」
「願いを叶える手順だな。そこを脚色するのがいい」
そこは慎も気になっていた部分だ。願いを叶える怪異の言い伝えは数多くあるが、その大半にまず手順というものがある。山に棲むというのならば、山に参るなり何なりと方法があってもおかしくはない。
「これは別に、どうとでもできる。山に登り、四つ首様、四つ首様、願いを叶えてください……と唱える、であるとか。そうして、四つ首様を呼び出すための方法を確立させます」
小泉はさらさらとノートに書き記した。
いつの間にか張り詰めていた息を細く吐き出した。呼び出す、ときた。こうして机で向かい合いノートに書き込むだけで終わらせられないものかと考えていたが、やはり四つ首様と相対しなければならないのだろうか。そう思うと気が重い。何せ、相手は本物の怪異だ。それに、姿は大きく毛むくじゃらの化け物。好き好んで会いたいものでもない。
とは言え、張本人に会う手段が得られることは良いことである。本来ならば文句の一つや二つ言ってやりたいところだが、生憎と慎にそのような度胸はない。
「次に、首を捧げなかった者がどうなるかを決めます」
「四つ首に食われる、なんてどうだろうか。あやつが好みそうだ」
「えっ、でも、そうしたら……」
「なあに、対処法がないのなら、作ればいいのです。それらしく、合理的に、ね」
シャドウはけたけたと笑った。慎としては笑い事ではない。そういうものとして定義されてしまえば慎は四つ首様に食われてしまうからだ。引っ込みかけていた恐怖心が顔を出す。そうだ、シャドウは人間ではない。人間の道理では考えられない。慎がどうなるかは、この二人に懸かっているのだ。
体温が下がり、青ざめていくのを自覚する。小泉が好青年らしい振る舞いに見合わず舌打ちをし、シャドウを強く叩いた。叩かれた箇所の揺蕩っていた影が霧散し、元に戻っていく。シャドウは「痛い!」と叫んだ。痛覚があるらしい。
「無闇に怖がらせることを言うな。俺たちがすべきことはそうじゃないだろ」
「ジョークだよ、ジョーク」
「全く面白くない。だが、対処法がないのなら作ればいいという点には賛成だ」
やれやれと小泉が頭を振る。シャドウはジョークだと言ったが、慎には嘘のようには聞こえなかった。しかし本気であるようにも聞こえなかったため、やはり人ではない者の感覚を読み取るなど無理な話なのだろう。そう自分を落ち着かせ、小泉の言葉を待った。
「首を捧げなかった場合は、願いが叶わなかったことになる。こうすれば、叶った願いを諦める代わりに何もしないでいるという選択肢が現れる。これならダメージが少ない」
「つまらんなあ、小泉くん。それに、君もせっかく成就したものを諦めたくはないだろう?」
こちらに話を振られ、びくりと固まった。慎の願いは、到底叶うはずもなかったものだった。それこそ、神の如き力を借りなければならないものだった。小泉の言うことはわかる。慎がただ諦めさえすれば、何も起きなかったことになる。慎の身にも、災厄は降りかからない。それが最善策だ。
けれど、と悩む胸中を見透かすように、シャドウが囁いた。
「一度得たものを手放すのは惜しい、そうだろう?」
「……っ」
「では、これはどうだ? 代償に、二番目に大事な者の首が奪われる。誰かに負債を押し付けられるだけでなく願いも叶ったまま。完璧だ」
それは、悪魔の誘惑に近かった。肯定も否定もできないでいる慎を小泉がちらりと見遣り、一言口を挟んだ。
「何故、二番目なんだ?」
「そりゃあ、人間ならば誰しも自分が一番だからね。自分の首が奪われては意味がない」
あっさりと話してみせるシャドウの言葉が、胸に刺さった。そうだ、慎は我が身が一番可愛い。だからこそ、必死になって対処法を探しては怪しい二人組の話に乗っている。そうであるならば、二番目は。考えて、行き着いて、がたりと椅子から立ち上がった。
「それは、だめです! そうしたら、あの子が……!」
「おや、思い当たる人物がいるのかい? ならば丁度いい。その子には悪いが君の願いのために首を切られてもらおうではないか」
「嫌、嫌です、あの子を失ってしまったら」
パニック状態に陥る慎を鎮めたのは小泉だった。小泉は無言であったが、真っ直ぐに慎を見据えていた。優しげな、誠実な眼差しだった。その視線に、不安も、焦燥も、怯えも、包み込まれていく。この人の前では隠し立てはできないと思った。誠実な相手には、誠実な対応を。健やかに育てられた慎は小泉を信じることにした。
そして、懺悔をするように、言った。
「私は、あの子……瑞穂と結ばれることを、願ってしまったんです」
佐伯慎は少女であった。どこにだっている、普通の少女。少しだけ違うのは、幼馴染の瑞穂という少女を好きになってしまったこと。誰にも言えず、告白などできるはずもなく、燻らせていた恋心。それでも、願わずにはいられなかった。どうか、彼女と結ばれたい、と。
瑞穂は幼稚園の頃からの幼馴染だった。ずっと同じクラスで、どこにいても二人。周りからは仲のいい友人同士に見えただろう。
慎が彼女のことを好きだと気が付いたのは中学に上がってからだ。友愛と恋愛の区別がなかなかつかず、また、区別することを恐れていた。昨今、価値観の遷移により同性愛が以前より珍しく思われなくなったが、それでもこの思いが異端であるという認識は薄れなかった。友人を好きなのは普通。友人に恋をするのは普通ではない。そういった雰囲気を過敏に感じ取ってしまうのは思春期によるところもあった。
慎が同性愛者なのかどうかは未だに判別がついていない。好きになったのは瑞穂だけだからだ。
友人としての好意なのだと自己暗示した。それは失敗に終わった。瑞穂と過ごす時間が増えれば増えるほど好きになっていった。
彼女の細く長い黒髪が好きだ。いつだってしゃんと伸びた背筋が好きだ。楚々とした雰囲気とは裏腹に勝気な性格が好きだ。慎にだけ甘えた仕草をするところが好きだ。
思いは膨れ上がり、瑞穂と結ばれることを夢想した。都合のいい妄想だとわかっていた。同じほどの愛を、熱量を向けられることなど到底あり得ないのだと理解している。だから、慎は願うばかりで思いを伝えることはなかった。
しかし、叶って、しまったのだ。瑞穂から、あなたのことが好きなのだと告白された。強気な彼女らしくなく緊張した面持ちで、手を握られた。熱く脈打つ体温が伝わってきた。重ねた掌同士が同じ温度になる頃、ようやっと告白の言葉を飲み込めた。
断る余地もなかった。世界が開けて花が咲く心地だった。四つ首様の声を、聞くまでは。
願いは叶えたぞ。さあ、首を寄越せ。
その時悟った。あれは、運命を捻じ曲げて作られた幸福だった。瑞穂の意思ではなく、四つ首様の意思で叶えられた。それでも、慎は瑞穂を失いたくなかった。それでいて、自分の首を捧げることもしたくなかった。強欲だ。結局のところ、シャドウの言う通り慎は自分が一番大事なのだ。瑞穂の本来の意思を無視してまで手放し難く、首を切られたくないくせに願いが消えることを拒んでいる。
ぽつりぽつりと語る真の話を聞いて、小泉はううん、と首を傾げた。何かおかしなところでもあっただろうか。いいや、ある。同性が、同性に恋をするなど。世間では声高にジェンダー論が叫ばれていたとして、こうしてカミングアウトすること自体躊躇うべきだった。誠実な相手への誠実な対応として、慎にとって秘匿したいものを白状するという方法をとった。それが間違っていたとしたら。深く俯いて、顔を隠す。
「だとしたら、やはり、妙ですね。他人を操るなど、四つ首様にそのような力はありません」
「えっ?」
小泉は慎が気がかりだったことなど気にも留めていない様子で、不可思議そうに呟いた。安堵すると同時に、疑問が浮かび上がる。現に四つ首様は慎の願いを叶えたのだ。不可能なはずがない。それに、どうしてそう言い切れるのだろう。言葉にせずとも視線が語っていたのか、小泉は淡々と説明をした。
「あなたが調べた結果、何も対処法がなかった。それは、まだ四つ首様が語り尽くされていないことを意味します。噂が立ったのはそう昔のことでもないでしょう。生まれたての怪異は人間の感情を操るような高度な技は持ちません」
「では、何故……」
「そもそも、あなたは四つ首様に願ってなどいなかった。最初から間違っていたんです」
悩んだ様子から、うん、と一人頷き結論を出した風の小泉はにこりとこちらに笑いかけた。セールスマンのような、中身の伴わない営業スマイルだ。
「あとは、我々が話をつけます。もう心配はいりませんよ。安心してお帰りください」
「ま、待ってください。私には、何が何だか……」
「説明不足にも程があるのではないか。このお嬢さんには、真相を聞く権利があるだろう」
シャドウの台詞に同意した。訳もわからず帰らされたところで安心などできない。シャドウと慎にせっつかれ、小泉は困った顔をした。何故シャドウが味方についてくれるのかはわからないが、二対一では数の少ない方が分が悪い。小泉はやれやれと肩をすくめた。
「あまり、怪異に深く関わってほしくないんですよ。知ることはその存在を認めることになりますから。特に、あなたのような怪異の声を聞いただけの方には」
はて、と首を傾げた。慎の体験したことは、それだけではない。そう、思っていたが。続く小泉の話で、声を失った。
「あなたは、四つ首様に願いを叶えられていない」
告げられた事実を咀嚼して飲み込むまでに時間がかかった。それでは、前提がひっくり返る。慎の葛藤も、恐怖も、全てが作り変えられる。瑞穂の言葉は彼女自身の思いだったのか、慎が聞いた四つ首様の声は何だったのか、と心が嵐を起こす。
混乱している慎が落ち着くのを待ってから、小泉がこほんと咳払いをした。兎にも角にも話を聞かないことには何もわからない。じっと待って、説明がなされるのを待つ。
「初めから違和感はありました。人の願いを叶えるなどという人智を超えた力が必要である存在が、ここ最近になって現れたこと。怪異は、語られるほどに強くなります。噂が囁かれたばかりの怪異は然程脅威ではありません。では何故、このような事態になったのか」
一つ区切り、小泉は重々しげに息を吐いた。どことなく徒労感を抱かせる。そして退屈そうに浮かんでいるシャドウの方を見遣り、眉根を寄せた。シャドウは自然に気がつくが、何も言わない。
「四つ首様は既に叶った願いを乗っ取ったのです。自分が叶えたものだと喧伝して、あなたに首を捧げさせることで、それを事実にしようとした」
小泉はシャドウを睨んだ。その目には疑念が込められていた。
「……お前、わかっていたな?」
「さて、ね」
短くはぐらかしたが、その態度は肯定しているようなものだ。シャドウの存在には謎が多い。初対面の慎は知らないことの方が多いが、何故だろうか、悪意でもってそうしていたとは考えられなかった。
「四つ首様にはこちらから話をつけておきます。今後あなたに危害を加えさせないことを約束しましょう」
小泉はこちらを安心させるようににこりと微笑んだ。しかしそれは断絶にも感じられた。一線を引いて、断ち切ろうとしている。関わらせたくない、というのは本音なのだろう。呆気なく感じたが、慎が日常に戻るには必要なことだ。小泉の話の通りだと、慎は本来怪異に関わるはずもなかったのだから。
これにて一件落着、ということでいいのだろうか。まさか図書館内で完結するとは思ってもみなかった。語り一つで事を収束へと導いた小泉は人間でありながら人間離れしていた。
奇譚師。語ることで、怪異を定義する者。数奇な体験だったが、慎の安全は約束された。二度は会わないことを願おう。
人気のなかったのが幻のように、図書館内は人々が行き交い出した。瞬きをした間にシャドウの姿はなくなり、小泉だけがそこにいる。本を棚に戻す作業を手伝ってくれた後、小泉は深々と頭を下げた。そのようにされる覚えはないので面食らう。
「この度はご迷惑をおかけしました。あなたに接触したのは早計だった。どうか、夢でも見たと思ってお忘れください」
そう言われても、無理があった。確かに現実ではありえない光景を目の当たりにしたが、白昼夢と思うには記憶がはっきりしている。しかしながら慎の不安は丸ごと解消されたため、黙って受け入れることにした。
首を奪われることもなければ、瑞穂も失わずに済む。それさえあればどうだっていい、と考えるあたりシャドウの言うように慎は自分が一番大事な人間なのだろう。
それでは、と小泉と別れ、せっかく図書館に寄ったのだから、と面白いと話題の小説を一冊借りて帰ることにした。小泉の姿もまた、瞬きのうちに見えなくなり、図書館はいつも通りの風景に戻る。
今夜は、ゆっくりと眠れそうだ。
*
怪異を呼び出す儀式があるのは、必要だからだ。普通の人間には視認されない存在の姿形を表すには、それ相応の段階を踏まねばならない。場所を指定し、名前を指定し、顕現する意義を指定し、呼び出す。そうすることでそれらはそこに現れるのだ。
逆に言えば、そうでもしない限りは怪異は人の目に映ることはない。だから声だけだった。
夜、人目のつかない時間帯に小泉はシャドウを引き連れて山に登った。山、と言えど標高の高いものでなくて構わない。近くの山であればどこでもよかった。そうして、四つ首様、四つ首様、と自分が決めた台詞を唱える。
風が一陣吹いた。
おどろしげに、毛むくじゃらの脚が、山の地を踏んだ。四つの太い足先には鉤爪がついており、先を血で汚している。獣臭さと混じって、死臭がした。すえた匂いだ。首のない体を大きく揺らして、さも恐ろしい怪物かのように四つ首様が姿を見せる。しかし、小泉たちの前に立った途端、ぎょっとした仕草をした。顔もないのに器用なことだ。
「何故、あなた様が」
「どうも、四つ首くん。私が流した噂はどうだった? 呪文を唱えると現れ、その者の願いを聞き、首を捧げなければ願いは消える……君好みのストーリーだっただろう?」
シャドウが四つ首様に迫って両手を広げた。小泉の案にけちをつけたくせに、こうして相手を煽るには使ってみせる。この性格は昔から変わらずわかっているものだが、気に食わない。だが今回の場合はシャドウのさせるままにした。小泉は、四つ首様に忠告をしに来たのである。
「お前、少女の願いを叶えたと言っていただろう。あれは、嘘だな?」
「ええ、いや、何のことやら……」
「誤魔化すな。俺にはわかっている。既に叶った願いに飛び付いて、己の功績にし、首を強請った。その理由も明白だ。成果を上げ力を得たかったんだろ。所詮お前は、生まれたばかりの怪異。本来ならば、願いを叶える力も持っていない。だが四つ首様の噂でそのように定義された。身の丈に合わない力を持った。欲張ったお前は、更に強大な力を欲した。違うか?」
大きな毛むくじゃらの体を情けなく縮こまらせ、錆色の毛を弱々しく靡かせ、四つ首様は小さく首肯した。噂に語られる巨体も形無しだ。
図書館で声をかけた彼女は、純然たる被害者だった。怪異に自ら関わったのではなく、ただ、怪異側から擦り寄ってきた。彼女の告白を思い出し、後悔をする。もっと早く真相を掴めていれば、あのように話したくないことを初対面の小泉に話させてしまうこともなかった。もっと言えば、四つ首様が余計なことをしなければ、彼女は付き合いたての恋人を疑うこともなく幸せに暮らせていたはずだ。
それは、小泉にとって見過ごせないことだった。怪異は、自ら人間と関わることはあってはならない。日常を脅かしてはいけない。奇譚師と名付けたのはシャドウだが、奇譚師として線を一つ引かねばならないところだろう。
生まれた怪異は、小泉が責任を持って再定義しなくてはならない。それは小泉の魂に刻み込まれた咎であり、贖罪でもあった。
「四つ首様の物語に、結末を加えよう。これはお前のための再定義ではない。人間に我欲で害を与えたことへの罰だ」
「そんな、勘弁してくだせえ!」
「無駄な抵抗だよ。彼が語れば、私が聞く。全ての怪異を識る私が」
シャドウが言わんとすることは、四つ首様にも伝わっていたようだ。足掻こうと、抵抗しようと、定義されてしまえばそれまでだ。既に四つ首様は「四つ首様」として顕現している。曖昧だったディティールはこちらが補完した。そこに、一つ書き加えるだけだ。制御できない怪異に成り果てぬよう、制約を。
「四つ首様は山に棲み、首と引き換えに願いを叶える。人は山に登り、文言を唱え、懇願する。首を捧げなければ、叶った願いは消え失せる。首を捧げれば……首を得た四つ首様は、願いを叶える力を失う。これが、再定義だ」
「一度しか力を発揮できないということだね。いいんじゃないか、そんな使い捨ての怪異がいても」
またシャドウの悪い癖が出た。必要以上に相手を追い詰めるのだ。小泉は、何も断罪がしたいわけではない。そのような権利はない。ただ、数多蔓延る怪異たちの行く末を見守る責務がある。
がくりと首もないのに項垂れた四つ首様の元へ寄り、膝をついた。おお、おお、と獣の咆哮じみた声をあげ嘆いている。
「そのときが来るかもしれないし、来ないかもしれない。四つ首様としての存在は守られる。お前が、お前の望む首を得たとき。それが結末だと知れ」
そう声をかける小泉に、シャドウは呆れたように肩を下げた。
「あーあ、昔から小泉くんは甘いなあ。人間にもそれ以外にも」
こう言われることも初めてではない。小泉としては甘くしたつもりはない。そのときが来る、ということは誰かしら、何かしらの首が捧げられるということだ。小泉が善良で人道的な人間ならばそれすらも良しとしないだろう。
シャドウがつまらなさそうに浮いて揺蕩っている。反対にこれが面白がるときは大抵ろくでもない事態が起きているので、望ましい結果になったと言えよう。
シャドウは人でないものらしく、享楽主義な面がある。怪異による被害を最小限に収めようと動く小泉とは反りが合わない。であるにもかかわらず、こうして行動を共にしている。その真意を小泉は知らない。だが、知るべきなのだろう。
全ての怪異を識る怪異。シャドウをそのように定義し、名を付けたのは他でもない「小泉自身」だからだ。
例えそのことを小泉が覚えていなくとも、魂が記憶している。果たしてこうしていることが吉と出るか凶と出るか。それは、己にかかっている。悪意を持つ者であれど、そうでなくとも、道を踏み外さぬように。人は人の理に、怪異は怪異の理に。
語る者、奇譚師として、そうしなくてはならない。
それは、使命じみたものでもあったが、宿願、あるいは呪いのようなものでもあった。




