第9話 黒い世界
黒々とした空の下、わたしは『あし』を引きずりながら前へと進んでいました。
どれだけの時間、どれだけの距離を進んだのかはわかりません。
ただ、あの家から少しでも離れたくて、心のない機械のようにただ腕を動かし続けていました。
けれど、闇雲に進んでいるわけではありません。
…………森?
ふと顔を上げてみれば、どこか見覚えのある景色が広がっていました。
グネグネと同じ方向に曲がった、一見すると木のように見える謎の植物たち。
その根っこはまるで足のように海底へと刺さっていました。
身を震わせる嫌な風が吹き抜け、ざわざわと不気味な音を奏でています。
海の中で森を見つけても驚きはしませんでした。
こういう世界なのだと、無意識のうちに割り切ってしまったからでしょうか。
……この先だと思うんですけど。
イリスに抱えられて移動しているときに、通ったような気がします。
確信を持てずにいるのは、あのときは物思いに耽っていて、周りに目を向けられずにいたからです。
もっと周りを見て目印になるものを覚えていれば、こんなにも不安にならずに済んだでしょう。
わたしは、イリスと出会ったあの場所――『最初の場所』を目指していました。
……イリスはどうしているでしょうか。
ふと、一人の人魚の笑顔が脳裏を過りました。
幼さを残した柔らかい声が、耳の奥で木霊します。
事あるごとにアトリ、アトリ、と名前を呼び。
心配性で、よく笑って、少し頑固なところがあって、からかうのが好きで――
――溢れんばかりの愛情を注いでくれる人。
――そして、私から去っていった人。
わたしが悪いということは分かっています。
迷惑や心配ばかり掛けてしまったのですから、愛想を尽かされて当然でしょう。
……もう、イリスのことは忘れましょう。
これ以上胸の痛みがひどくなっては、先に進めなくなってしまいそうです。
心のどこかに未練が残っている気がして、深呼吸で気持ちを切り替えます。
……人間に戻ってみせると、決めたんです。
イリスが出て行き一人取り残された後、わたしの中にある感情が芽生えました。
それは、諦めと嫌悪。
わたしはアトリのふりを止めることにしました。
イリスを悲しませたくないという想いから始めたことでしたが、今となってはどうでもいいことです。
イリスと会うことはもうないのですから。
そして何より、この人魚の体が、この世界が嫌になったのです。
泳ぐことも、この脚を自由に動かすことさえもできないのに、人魚の世界で生きていけるわけがありません。
言うことを聞かない銀の脚を見ているだけで、胸の奥がむかむかとしてきます。
「…………」
だから。
こう思うようになったのは、ごく自然なことなのでしょう。
――人間に戻りたい。元のわたしに戻って、お母様のいる家に帰りたい、と。
人間から人魚になれたのですから、逆もできるはずです。
わたしとアトリの中身が入れ替わったのなら、もう一度入れ替われば元に戻れるはずなのです。
……どうすれば元に戻れるのかは分からないですけど。
わたしが人魚になった『最初の場所』に行けば、何かが分かる気がしました。
少しでも手掛かりが見つかれば、このもやもやとした心も晴れるはずです。
「……この辺りで休みましょうか」
森を進んでいるうちに腕の疲労が限界に達したわたしは、木の根に寄り掛かって休むことにしました。
ふと自分の体に目をやり、思わず「うわぁ……」と声が漏れます。
白のワンピースが穴だらけになっていたのです。
青の刺繍が施されていた裾の部分が、特に無残な状態になっています。
……たぶん、あのときにやったんですよね。
それは、家から海底へと降りるときのこと。
二つの大岩に挟まれた貝の家から降りるのは、カナヅチのわたしにとっては至難の業でした。
暗くて海底もよく見えない中、玄関から飛び降りるわけにもいかず、わたしは大岩にしがみつきながら決死の想いで降りていったのです。
命優先でしたから服のことなど頭になく、岩の角に引っ掛けたまま降りてしまったのでしょう。
……それに、ここに来るまでずっと引きずっていましたし。
海底には小さな石が無数に転がっていて、体を引きずりながらその上を進んできたのです。
服がボロボロになるのも無理はないでしょう。
……そういえばこの服、イリスとお揃いでしたっけ。
サイズと刺繍の色が違っていましたが――と、そんなことはもうどうでもいいんです。
イリスのことは、いい加減忘れましょう。
「それにしても、お腹が空きましたね」
気持ちを切り替えようとした隙をついたのか、空腹感が襲ってきました。
空腹に気づくと同時に、「ぐぅ~」と鈍い音が辺りに響きます。
最後に食べたのは、いつのことだったでしょうか。
……何か食べられるものを探した方がいいかもしれないですね。
元のわたしに戻るまでは、不本意ながらこの体で過ごすことになります。
当然生き物ですので、食料は必要不可欠。
何も食べなかったら餓死してしまうに違いありません。
きょろきょろと森の中を見回してみますが、すぐに食べ物と分かるものは見当たりませんでした。
あるのは木々の枝についた硬そうな葉と、岩を覆うコケ草、それから海底から生える雑草ばかり。
要は、草しかないのです。
そこら辺に生えている草が、もしかしたら食べられる海藻かもしれないとは考えました。
けれど、この世界の知識がないため迂闊に手を出せません。
食べてみたら実は毒だった、なんてことは避けたいのです。
……食べられそうなものを探しながら、先に進みましょうか。
海藻の生い茂る海底に手を突き――ふと、そのままの姿勢で首を傾げます。
「……どっちから来たんでしたっけ」
首筋を冷たいものが伝ったような気がしました。
どこを見ても似たような景色。
闇雲に進んでいないとはいえ、直感を頼りに来てしまったのは確か。
今のわたしに進むべき道を知る術はありません。
……あ、木の曲がっている方向を見れば。
森の入り口で見た、同じ向きにグネグネと曲がっている木々を思い出し、わたしは周囲の木々を睨むようにして見比べます。
けれど、なぜかこの辺りの木々は皆揃ってほぼ真っすぐでした。
「え、嘘でしょ……」
どうしてこう、うまく事が進まないんでしょうか。
この世界はやはり、わたしに優しくないようです。
*
……怖くない。怖くない。
鬱蒼とした、海中の森。
道を見失ったわたしは、木の根にしがみつきながら震えていました。
ここまで『あし』の代わりを務めてきた手も、今はもう使い物になりません。
……怖く、ない。怖く……。怖、い……。
夜目が効くといっても、周囲が闇に包まれていることに変わりはありません。
常に側に灯りがあった人間のわたしにとって、この状況は非常に心細くて仕方ありませんでした。
なぜ、こんなにも怯えているのか。
それはきっと、先ほど休憩を挟んだことで緊張感が薄れ、忘れていた恐怖が今になって波のごとく押し寄せて来たからでしょう。
耐えがたい孤独感と恐怖で、わたしはすっかり憔悴していました。
……帰りたい。
お母様のいる、わたしの家に。
いなくなったわたしのことを、探しているでしょうか。
帰ったら、笑顔で抱きしめてくれるでしょうか。
……笑ってはくれないでしょうね。
きっと、「心配を掛けるものではありません」と怒られるだけです。
そして何事もなかったように、いつもの日々に戻るだけ。
無暗に努力し続ける、灰色の日々に。
……今と、さほど変わりませんね。
黒色が灰色になるだけです。
多少は明るくなりそうですが、心が浮き立つほどではありません。
もし、何かがわたしの世界に色を添えてくれるとしたら。
きっとわたしは、それを心から欲してしまうのでしょう。
お母様の笑顔に固執する理由が、そこにあるのかもしれません。
笑顔というのはわたしにとって、それほどまでに鮮やかで眩しいものですから。
「もう一度……笑ってほしかったな」
小さな心の声は微かに響いた後、空しくも木々の間に溶けていきました。
消えていった声の寂しさに、自然と目元が熱を帯び始めます。
溢れ出そうになった涙を堪えようと慌てて顔を上げ――
「…………」
暗闇の向こうに、輝く翠を見つけたのです。




