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第10話 夜明け

 仄暗い木々の間に輝く、エメラルドの瞳。

 小さな肩は乱れた呼吸を整えるように上下に揺れています。


 木の陰から現れたのは、もう会うことはないと思っていた人魚の少女でした。


 ……どうして。


 目が合ったのは僅かな時間でした。

 けれどその一瞬が、まるで時が止まったように長く感じられます。


 ……どうして、イリスが?


『アトリ!』


 名前を呼ばれ、反射的に目を逸らしてしまいました。

 こちらへ泳ぎ寄ろうとしたイリスが、立ち止まった気配がします。


 わたしは愛想を尽かされ、見捨てられたはずです。

 それなのにどうして、イリスがここにいるのでしょう。


 まさか、わたしを探しにここまで来たとでも言うのでしょうか。


『…………アトリ、ごめんね』


 長い沈黙を破ったのは、イリスでした。


 閉ざした心を解すような声音で語り掛けてきます。


『あんなに強く言うつもりはなかったの』

『驚かせちゃったよね』

『アトリは何も悪くないよ』


 声の端々から滲み出る切実さ。


『無事でいてくれて、よかった』


 本心からの言葉だと、すぐに分かりました。


『……一緒に、おうち帰ってくれる?』


 心からの願いだと、すぐに分かりました。


 ふと、視界の端でイリスがわたしの正面に降りたのを捉えます。

 目を合わせたくなかったのか、それとも顔を見られたくなかったのか、わたしは俯いてしまいました。


「…………」


 目を向けずとも、イリスが今どんな顔をしているのか容易に想像がつきます。

 ひどく傷ついた寂しい顔をしているに違いありません。


 最後に見た顔が、そうでしたから。


 ……でもイリスは、わたしを見捨てたわけではなかったのですね。


 そう気づくと、冷え切っていた心に温もりが戻ってきたような気がします。


 イリスとはもう関わらないようにしようと思っていましたが、どうやらわたしは本人を目の前にすると放っておけなくなる性分のようです。


 様子を窺うようにそっと顔を上げます。

 傷心のイリスに、わたしは声を掛けたくなったのです。


 ――そんな顔しないで、と。


 けれど。


「…………」


 わたしの口から、その言葉が紡がれることはありませんでした。

 時間を奪われたように、半開きのまま固まってしまったのです。


 ――だって、イリスは優しく微笑んでいたのですから。


 エメラルドの瞳は、さっき見たときよりも一層キラキラと眩しくて。

 柔らかく上がった頬は、きれいな朱に染まっていて。

 薄桃の唇は緩やかに弧を描いていて、でも少し震えていて。


 それは、わたしの心を揺さぶる笑顔でした。


 ……そんな顔、しないで。


 そんな顔をされたら、帰りたくなっちゃうじゃないですか。

 わたしが帰りたい家は、あの家ではないのに。


『おうち、帰ろう?』


 イリスから白い手がそっと差し出されました。

 卑怯だと言いたくなるほどの笑顔を湛えたまま。


「…………」


 ――どうしてアトリは、無茶ばっかりするの……?


 ふと、悲痛な声が耳の奥に蘇りました。

 それはイリスが去る直前に零したもの。


 ――私の身にもなってよ……。

 ――どれだけ心配させれば気が済むの……?


 怒りか、それとも悲しみに潤み、こちらを見つめる二つの翠の瞳。


 その表情が脳裏に焼き付いて離れようとしないのです。


 今、目の前のイリスは笑っています。

 笑ってこちらに手を差し伸べています。


 でもその笑顔の裏では、その実わたしのことを煩わしく思っているのではないでしょうか。


 ……帰っては、ダメです。


 イリスと一緒に帰っても、悪いことしかないのです。

 わたしはお母様のいる家に戻れない、イリスはわたしのせいで迷惑を被る。


 だから、帰ってはダメなのです。


『…………いや』


 重い口を開き、苦い言葉を吐き出します。

 吐き捨てた途端チクリと胸に痛みが走りました。


 ――イリスは、わたし以上に傷ついたようでした。


 微笑みはその影を潜め、顔は血の気が引いて青白い。

 瞬きの度にエメラルドの瞳が寂し気に揺れ、突如堰を切ったようにぶわっと涙が溢れ出します。


 頬にいつの間にか戻っていた朱色は、目元まで広がっていました。

 やがて堪え切れなくなったのか、への字に曲がった口から嗚咽が漏れ出す始末。


『ううぅ、アトリ~、そんなこと言わないでよぉ~』

「ちょ、イ、イリス。あの。く、苦しい……」


 先ほどまであった絶妙な距離は瞬きのうちになくなり、わたしはいつの間にかイリスにしがみつかれていました。

 非力なこの体では、イリスの細い腕さえ引き剥がすことができません。


 翠を映す大粒の涙がいくつも宙に浮かび、わたしの顔さえも濡らします。


 ひどくしょっぱい涙でした。


『アトリと一緒じゃなきゃイヤなの! お願いだから、一緒に帰って!』

「あ、あのっ。その前に、離して、いただけませんかっ……」


 ……首が、もげそうなので!


 咄嗟に出た言葉はイリスには伝わらない方の言葉でした。

 首に回された腕が緩む気配はありません。


 幼子のように泣き喚くイリスの体温が、ボロボロの服越しに伝わってきます。


 ……ああ、もう。


『わ、わかったから。かえるからっ』

『ホントに!?』

『ほんと、だからっ、て、はなして……』

『あ、ごめんね……大丈夫?』


 首をさすりながら、イリスをジトっと睨みます。

 泣きじゃくっていた顔はもう、憎らしいことに晴れた笑顔に変わっていました。


 ……はぁ。なんか、ものすごく疲れました。


 今までの葛藤と戦ってきた時間が、全て水の泡になったような気分です。


 けれど不思議なことに、悪い気はしませんでした。


『あ、やっと笑ってくれた』

『わたし、わらってるの?』

『うん。とってもいい顔だよ』

『……そっか』


 ……これで、よかったのかもしれませんね。


 早朝の澄んだ空気のような、清々しい気持ちで心が満たされていきます。

 さっきまでは暗かった辺りの景色も、心なしか明るく鮮やかに見えました。


 ――いえ、いつの間にか、長い夜が明けていただけのようです。


 柔らかな朝の木漏れ日が、わたしの目に光を添えます。

 ここが海の中だということを忘れさせるほど温かい光でした。


 ……少しだけなら、いいでしょうか。


 もう少しだけなら、この世界にいてもいい。

 そんな風に思えてしまうほどには、この温もりに心を奪われていました。


 ――いつの日か『もう少し、この世界にいたい』に変わるのでしょうか。


 ……いえ、それはないですね。


 元の世界に――お母様のいる『わたしの家』に戻ることは諦めていません。

 ただちょっとだけ、先延ばしにしただけです。


 先延ばしにした理由はちゃんとあります。


 人間のわたしに戻り、そして元の世界へ帰る手掛かりを探すために目指していた『最初の場所』。


 きっとこのまま向かっても、この世界に無知なわたしでは何の手掛かりも見つけられないでしょう。


 何も成果が得られず、白砂の上で打ちひしがれる可能性の方が高いのです。


 要は、準備期間が必要なのです。

 この世界の知識を身につけてから、人間に戻る手段を探そうというわけです。


 ――だから、決して、イリスに甘えたいとか、そういう俗な気持ちから先延ばしにしたわけではありませんよ?


 それにこれからは、その気になればいつでも行くことができます。


 だって、イリスに『つれてって』と言えばいいだけですから。


『アトリ、どうかしたの? 大丈夫?』

「いえ、自分を説得していただけです」

『え、何?』

『ううん、なんでもないよ』


 ……ひとつ、伝え忘れていました。


『……きてくれて、ありがと』


 これはわたしの本心からの、偽りのない言葉。

 孤独で不安だった『わたし』を救いに来てくれたイリスへの、せめてものお礼。


『ありがと、おねえちゃん』


『どーいたしまして』


 朝日の差し込む海に笑顔が輝き、人魚の声が夜明けを告げます。


 まだ夜は明けたばかりです。



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