今度は……。
「……あ」
泣き続ける彼女は、俺の顔を見てより一層悲痛そうな顔を作った。
「どうかした?」
再び俺は尋ねた。
彼女は返事もせず、俯いて、顔を数度横に振った。
「何もないってことはないだろう? そんなに泣いている君を、俺はただ救いたいだけなんだ」
嘘偽りない気持ちだったが、やはり彼女は俺に涙の理由を教えてくれる気はないらしかった。
「……君の仕事に関することかい?」
嗚咽を漏らして彼女が、突然それを止めた。目を丸めて、俺の顔を覗いた。
その目は、どうして知っているの、と語っていた。
「ごめんね。一度、君の通帳を見たことがあったんだ」
「……え?」
「だから、君のその異様な貯金額を俺は知っていたんだ」
それが理由で、いつかは大金に目が眩んで、邪な感情だって抱いたこともあった。
でも今では、お金よりも大切な何かを見つけた気がする。
そして、その大切な何かを知ったからこそ、彼女の不可思議な点には気付いていた。
「ずっと不思議だった。君は俺の仕事への愚痴は聞いてくれるのに、自分の仕事の話はまるでしないなって」
だから、やはりもしかしたらあのお金は後ろめたいお金なのではないかと思った。でも、きっと体を売るとかそういう話ではない。
彼女がそんなことをしない人ってことは、俺が一番理解しているから。
だけどそうなると、一体彼女がどうやってあれだけの大金を稼いだのかはわからずじまいだった。
ただ一つわかっていることと言えば……。
「それは家から出ずとも出来る仕事なんだろう?」
いつか彼女の身辺調査をしたが、あの時彼女は家の外に踏み出した様子は一度だってなかった。俺が残業せずに彼女の部屋に立ち寄った日だって、彼女はいつだってこの部屋にいた。
いくらなんでも、そこまで部屋に居られるとなると、それは仕事は部屋でやっているとしか思えない。
「……ゴーストライターです」
「ゴーストライター?」
中々奇抜な職業が出てきた。イマイチピンと来ず、俺は聞き返していた。
「あたし、作曲のゴーストライターをしていたんです」
もう誤魔化しようがないことを悟ったのか、彼女はようやく話し始めた。
「有名作曲家さんの、ゴーストライターです。昔からあたし、音楽がずっと好きでした。中学では吹奏楽部。高校でも。
音楽に触れて、音楽を楽しむ内に、音楽に関係する仕事に就きたいと思うようになったんです」
「良い夢だね」
学生当時の俺なんて、そこまで具体的な夢は抱けずにいた。仕事に差し当たって、苦しい思いをしていたのは、そういうところも理由の一つなのかもしれない。
「でも、あの世界はそんなに甘い世界ではなかった」
「それは多分、どの世界だって同じさ。程度の差はあれ、楽な仕事なんてきっとない。お金を得るのは生きるため、だからね。生きることが楽な人なんて、滅多にいないよ」
「……はい。わかっていたんです。そのことには……。でも結果の出ない日々に、あたしはつい魔が差しました」
彼女は、一層大粒の涙を流した。
「偶然だったんです。偶然、コンクールに出した曲を有名作曲家さんが目に留めて……それはとても受賞させられるようなレベルではない。だけど、才能の原石のような何かは感じる。
……その人は、修行の意味もあるから、とあたしに自分のゴーストライトを薦めてきました。
そして、いくつか書いたあたしの曲は、彼の作った曲として世に放たれました。だけど、それは全部あの人の巧妙な罠でした。
あの人は、自分にゴーストライトした事実を明かされたくなければ、あたしに定期的に曲を提供するように迫ったんです。
あたし、怖くなって……。断り切れず、それに歩合制でもらえるお金も多いし……悪気はあっても、あの環境を抜け出すことが出来ないでいたんです」
「それで……」
「先ほど、お前はもういらないと言われました」
沈黙の時間が流れた。
ゴーストライターに彼女の貯金額に、色々なことが一挙に判明した。
一番に感じたことは、意外にも怒りだとか呆れだとか、そういうのではなかった。それなりの期間心配し続けた彼女の仕事の内容が、俺が懸念していた低俗なものでなくて良かった、と思っていた。
いいや、多分ゴーストライト自体も許されざる行いではないのだろう。
作曲者名、とは、仕事で言うところの判子みたいなもの。
世に放たれる素晴らしい音楽を作った人の証であり、証明なのだ。それを偽る行為は、許されざる行為だ。だから彼女も、悪気があってそれを続けていた。
……実に、会社のシステムにそっくりだ。
どこまで行っても優位なのは上に立つ者で。下に立つ者は時に脅され、時に圧をかけられ……。
ただ、一つだけ違うのは。
下の立場の者が、泣き寝入りを強いられるところだろう。
会社は多分、そうはならない。下っ端のミスは上のミス。部署内の面子のミスは、その部署のミス。
だけど彼女とかの有名作曲家の関係は……かなり歪で、汚い。
「よく頑張ったね」
彼女はいつも、俺の仕事を労ってくれた。だから俺も、彼女を労った。
彼女は泣きながら、首を横に振った。
「あたしは最低なことをしました……」
「でもそれは、向こうに脅されたからだ」
「最初の一回は良いと思ってやりました。同罪です」
頑固に首を振り、彼女は涙を流し続けた。
俺は、微笑んでいた。
「君にもよく話すよね。俺の先輩のこと」
「……はい」
「その人、厳しい人でさ。とにかく、自分の意見を持てと言うんだ。自分の存在価値を出せと言うんだ。それは何故かって、自分の付加価値を高めるため。
俺はこれだけ凄い人なんだって、周囲に認めさせるため。
凄いじゃないか、君は。
そんな有名作曲家のお眼鏡にかなって。やり方は確かに最低だったかもしれない。だけど、選ばれた君がいるならば、選ばれなかった誰かがいる。
君は選ばれた。
君は、そこだけは誇って良いはずなんだ」
「……でも」
「悩んでたって、前には進めない」
彼女は黙った。
「これも、仕事で先輩に言われた言葉だ」
かつてはあれほど嫌いだった仕事だが……いつしか俺は、その仕事をこなしながら、自己を形成し、何かを産んできたのだろう。
製品、という形に残る物もあれば……。
経験、という形に残らない物まで。
たくさんの何かを産んできたのだろう。
あれだけ嫌だった仕事だけど……俺は、それをこなして成長をしてきたんだろう。
「嫌なことから逃げちゃいけない。それは仕事だからじゃないんだろうね。生きるために、人は必ず嫌なことに直面する。
でも、きっとそれから逃げたら、人は成長出来ない。生きることが出来ないんだ。
だって人は、失敗しないと学べない生き物なんだからさ。
俺がたくさん仕事で失敗して、学んできたように……人は、嫌なことと戦わなければならない生き物なんだ」
優しく、俺は彼女の手を握った。
「君も逃げちゃ駄目だよ」
真っ赤に染まった目を見て、続けた。
「君は今、罪悪感に押しつぶされそうになっているかもしれない。今後の不安に押しつぶされそうになっているかもしれない。
だけど、そこから逃げちゃいけない。逃げたら君は、成長出来ない。
人は、成長していかなければならない生き物なんだ」
涙を拭ってあげて……、
「君は、どうしたい?」
俺は尋ねた。
「……どう、したい」
「うん。悪いことをして、裏切られて、涙して……その先に何を望む?」
「……まずは謝りたいです」
「誰に?」
「……わかりません。多分、裏切った皆に」
彼女は、震える体を俺に寄せてきた。
「……あなたに」
そして、続けた。
「あなたに……好きだったのに、好きだったから、怖くて真実を打ち明けられなかった。そして、こうして裏切った。隠し続けて、裏切り続けた。
本当に……ごめんなさい」
「謝る必要なんてないよ。俺は怒ってない」
彼女を抱きしめ返して、俺は苦笑した。
「何なら、君の通帳勝手に見たこと俺も黙ってたからね。ごめん」
「……そんなの」
「禊はそれで済んだかい?」
彼女の言葉が止んだ。どうやら、否らしい。
「どうすれば、謝ることが出来るかな」
「……わかりません。こうして考えてみると、あたしには何もなかったんだなと思います。あたしには……音楽しか」
「君は……音楽は続けたいの?」
「続けたいです。……でも」
「君には、音楽しかないんだろう?」
俺からすれば到底そうとは思えないが、尋ねた。
彼女の返答はなかった。
「でも……結果を残せるかもわからない」
「残せるさ」
「時間がかかるかもしれない」
「かければいいさ」
「一人じゃ、無理かもしれない」
「なら、俺がサポートするさ」
彼女は黙った。
黙ったから……、
「俺が君を養っていくさ」
俺は、決意表明をして見せた。
仕事はずっと嫌いだった。いいや、今でも嫌いだ。辞められるならば辞めたかった。いいや、今だって出来るならば辞めたい。
だけど、彼女のためなら。
俺に甘えを許してくれて。
俺に逃げ道を与えてくれる彼女のためなら……。
俺は、どんな無理難題でも、どんな辛いことでも、立ち向かっていける気がしていた。
「俺の給料は、君の稼ぎに比べたらちっぽけかもしれない」
「……いいえ」
「俺の仕事は、君の願い仕事に比べたら、そんなに多くの人に喜ばれないかもしれない」
「…………いいえ」
「でも俺は、君のためならそれでいい。君を幸せに出来るなら……それでいいと思ったんだ」
彼女は堪えきれなくなったのか、俺の背中に手を回して、抱き着いた。そのままわんわんと大泣きし始めてしまった。
俺は一つ苦笑した。
苦笑したけど……なんでか、心は晴れ晴れと澄み渡っていた。
今日までずっと、俺は彼女に無償で何かをもらい続けていた。だけど今日、ようやく少しだけ……ほんの少しだけ彼女に何かを返せた気がする。
これから彼女に、もっともっとたくさんの物を返していけるような気がしたんだ。
だから……。
「君を一生、幸せにして見せる」
俺はもう、止まらなかった。
「いつまでも……俺の隣にいてください」
気恥ずかしさなんて、もう気にならなかった。
俺の視界に写っていたのは、彼女と進んでいく素晴らしい将来の道への、希望だけだった。




