結局全ては、彼女のおかげ
俺は仕事が嫌いだ。
夜眠りたくない。朝起きたら、仕事に行かなければいけないから。
怒られたくない。怒られたら、自分の思うままに一日を過ごすことが出来なくなるから。
お金なんて要らない。お金があるから、人は働かなければならなくなるから。
あの日の愚痴以来、彼女との関係は少しだけ変化した。何が変わったかって、俺の仕事の愚痴を彼女が聞いてくれるようになったことだった。どす黒い内容もあるし、自分の本心を語る、というのはどうも嫌で、最初は断っていたのだが、甘えてくれ、という彼女の良心に、最終的には甘えることになった。
いつでも仕事は辞められる。俺に甘えの一言をくれた彼女は、今も俺を甘やかすように甘い言葉を囁いてくれていた。
彼女は俺に、たくさんの物をくれた。
愛情。
甘え。
そして、逃げ道。
彼女は俺に逃げを許してくれる。
仕事に行きたくないと言えば、行かなくてもいいと言ってくれる。
朝起きたくないと言えば、昼まで寝てていいと言ってくれる。
仕事を辞めたいと言えば、辞めてもいいと言ってくれる。
彼女はとことん、俺に甘い。
好いたという俺に、甘い。
彼女の甘さは、心地よかった。
いつでも甘えさせてくれる。
いつでも逃げさせてくれる。
そんな状況が、心地よくないはずがなかった。
だけど俺は……腰の上までどっぷり浸かった彼女の甘えに、どこか違和感を覚えていた。
違和感、というには、この気持ちは不鮮明ではなかった。そして、些細な物でもなかった。
俺はこのまま、彼女に甘えていいのだろうか?
彼女に甘え続けて、彼女に依存し続けて、いいのだろうか?
あの日。
喫茶店で彼女を見つけた時、彼女に一目惚れをした時。
正しいかもわからないモチベーションアップ策を講じて、一目惚れした彼女に好かれようと努力したあの日々は……。
果たして、今の甘えを欲するために辿っていた道だったのだろうか?
心地よいこの時間は、俺が当初求めたものではなかった。
それでもいいじゃないかという心もいる。彼女がこのままでいいと言ってくれている今、無理に足掻く必要はないという心だって、当然いる。
……だけど。
彼女に甘え続ける時間は、やはり恰好悪いから。
仕事へのモチベーションは、結局向上することはなかった。多分、仕事に対する心構えは、モチベーションとかそういうのじゃなくて、結局俺の性格だとか、先天的なものなんだろうな、と今更になって思うようになった。
だけど、少しだけ変わったことがある。
嫌なことがあったら逃げようと思っていたこの仕事を、俺は今も……今日も続けていることだった。
彼女が、甘えをくれたから。
……逃げ道をくれたから、俺は今でも仕事を続けていられる。
今ならわかる。
かつての俺は、仕事に対してどこか追い込まれていたように思えた。
怒られるのが嫌で。
比べられるのが嫌で。
見下されるのが嫌で。
へりくだって、媚び売って、結局失敗して。
そんなことの繰り返しだった。
彼女の示してくれた逃げは……多分、俺にとっては確かに逃げだった。
いつでも逃げられる。
いつでも、彼女は甘えさせてくれる。
いつでも、彼女が隣にいてくれる。
不思議と、今まで見えてこなかった景色が見えてくるような気がした。
井の中の蛙が大海を知らなかったように……。
俺は、大空広がるこの広い世界の、ほんの一端しか知らなかったのだろう。
彼女との出会いは、低俗なものだった。
彼女と関係を深めようと思ったきっかけは、邪な感情だった。
……彼女の持つ大金に、目も眩んだ。
だけど、そんなことはきっと関係ない。
いくら低俗な出会いだって、邪な感情だって、大金に目が眩んだって。
俺が彼女を好きだということは事実なのだから。
彼女のお金に、手を付けるつもりはなかった。あれは彼女が稼いだお金だから。俺が知らない時間に、俺が一切の関与もしない内に作ったお金だろうから。
俺が働いて、彼女を……彼女と育む子を養っていきたいと思っていた。
モチベーションアップだなんて関係なく、好いた彼女と対等に将来を歩んでいくために、そうしたいと思った。
彼女と、結婚したいと思った。
だけど、いざこうして考えると……結婚のプロポーズはいつ切り出したらいいのだろう?
そんな疑問が浮かんでは消えていった。
いつまで経っても、俺はしょうもないことから重いことまで、悩みが尽きない男だと思った。
そんな俺に甘いあの人の存在が、心を少し温かくしてくれた。
彼女と出会って、一年が経とうとした頃。
俺は、その期の評価面談の場に望んでいた。上司と一対一の面談。フランクな態度で面談は始まった。
話は、毎期行うこともあって、そこまで重い雰囲気はなかった。
最近大変なこと。
最近悩んでいること。
上司は、多忙を極める俺の身を案じているのか、なんだかんだ心配げな質問を多くしてきた。
そして、待ちに待った評価の報告。
「よく頑張ったな」
そう言って微笑んだ上司の顔と言葉が、中々脳裏から離れなかった。
今季の評価は、最高評価だった。
一時は腐りかけたことがあったからか、心の底から嬉しかった。自分にもまだこんな熱い感情があったことに少しだけ驚いてしまっていた。
多分……。
認められることの気持ちよさを、俺は今、初めて知ったんだと思った。
その日は残業せず、彼女の部屋に向かった。
彼女に連絡はしなかった。
アポなしで突撃して、今の想いをただ伝えたかった。
感謝の気持ち。
謝罪の気持ち。
愛情の気持ち。
何から最初に、伝えようか?
そういう悩みを抱く時ほど、時間が過ぎるのはあっという間だった。
「こんばんは」
先日もらった合鍵で部屋に入ると、室内は真っ暗だった。
留守だろうか?
そう思ってリビングまで歩を進めた。
俺はそこで……。
「どうかした?」
地べたに伏して、涙する彼女を見つけたのだった。




