3-4
次の日、石上と小夜はゆっくり過ごした。大山に経緯を報告しなければならない、と思っていたが、疲労が強く、可能な限り休むことにしたのだ。夕方、大山に報告するために村へ降りて、その足でまた村の周りを歩いて、昨日の怪異が姿を現さないか見るつもりだった。
しかし、日が落ちる前に石上は家を出ようとしたところ、大山が家の方に向かってくるのが見えた。大山は、挨拶のつもりなのか、小さく頷く。
「いたか」
「うん。これから行くつもりだった」
「とにかく、家に入れろ。話がある」
「昨日の報告なら、君の家でするつもりだったけど」
大山が何も言わないので、小夜が二階にいることを確認してから、大山を居間に通した。
「もしかして、まずいことになったか?」と石上が聞く。
「そうだな。村の人間は、やはり怪異はお前が操っている、と言っていた。どういうことだ?」
石上は昨夜のことを語った。嫌な予感があり、小夜のことだけは省いて話した。しかし、大山は僅かに目を細めて石上を見る。
「なるほど。しかし、お前が怪異を操って怪異を追い払ったのを見た、という人間もある。それは、どういうことだ?」
小夜が見られたらしい。石上は言葉を探す。しかし、大山は問い詰めるように続けた。
「しかも、女の怪異だったらしい。目が赤く、金色の髪をした。二階の女は…髪は黒かったな」
「うん。髪も黒ければ、目も黒いよ」
小夜は栄養が十分に足りていれば、目の色と髪の色や長さを変えることができる。目立たないように、目と髪の色は黒くするように、と言ってある。大山は溜め息を吐いた。
「ならば、村の人間が見間違えたか?」
「そうだと…思う」
「……そうか。安心したら、喉が渇いた。茶を出してくれないか」
「ああ、そうだね。気が付かなくてすまない」
石上は席を立ち、湯を沸かしながら茶碗を用意した。そのとき、石上は何の警戒もなく、大山に背を向けていたが、それは彼の他人を疑わない性格が起こした誤りだった。石上は、大山が接近することに少しも気付かず、一瞬の痛みの後、気を失ってしまった。
意識を取り戻すと、石上の耳には小夜の声が、微かに聞こえてくる。頭がはっきりせず、なぜ自分が眠っていたのかも、思い出せなかった。なぜか、妙に頭が痛む。すると、大山が訪ねてきたことを思い出し、会話をしたところまで思い出した。その後…と考え、何か嫌な予感がして身を起こした。
「小夜!」と叫ぶ。
「せ、先生…」
すぐに小夜の返事があって、石上はほっとした。しかし、それは束の間のことでしかなかった。声の方を見ると、そこには信じられない光景が広がっていた。
大山が小夜を犯している。大山は拳銃を片手に、小夜を後ろから拘束していた。小夜は抵抗ができないらしく、されるがままだ。
「目覚めたか」
「お、大山…何を」
状況が飲み込めない石上は、ただ問うことしかできなかった。小夜はその気になれば、大山を拒むことができただろう。しかし、彼女がそうしないのは、理由があった。まずは、大山が握る拳銃は、石上に向けられていることだ。そして、もう一つは、小夜は石上に、人間に対して力を使わないと約束してしまったからである。
そんな小夜を好きなように扱いながら、大山は平坦な口調で、石上の問いに答えた。
「村の人間が、お前たちを殺すと躍起になっていたからな。その前に、どうしてもお前の女が、どんな味が確かめておきたかった」
「た、確かめる?」
「そうだ。俺はお前のことが良く理解できない。だから、知りたいんだよ。お前が何を考えて、この女を傍に置いているのか」
「だからと言って…」
「良く理解できたよ。確かに良い女だ。このまま、殺してしまうには、惜しいくらいに」
大山が笑った。それは、彼が子供のころ見せたきり、一度も見なかったものだ。大人になって再び目の前に現れた大山は、まるで無感情のようだった。しかし、この瞬間は満足を覚えているようだった。
「そろそろ村の人間がこっちに向かってくる。お前たちを殺すために。それまでに済ませて、お前を殺してから、この家に火を放つ。この女は態度によっては、俺が飼ってやるから安心しろ」
「…どうして、お前は」
「どうしてだろうな? 自分でも不思議なんだ。お前から奪ってやるのは、楽しい。子供の頃からそうだ。お前は奪っても奪っても、平気な顔をしていた。どうすれば、泣いたり喚いたりするのか、考えるだけで楽しかったよ。それが、やっと良い顔を見せてくれたみたいだ」
石上には、やはり理解できなかった。人のものを奪って得ようとする、大山の快楽を。
「小夜……」
石上が呟くと、目に涙を浮かべた小夜が、視線を彼に向ける。石上は小夜の目を見て、自分の中に湧き上がる感情が何なのか、理解できなかった。だが、自分がその言葉を口にしたい、と願っていることは、否定できない。
「先生、お願い…許して」
小夜が懇願するように言った。許して。その意味が石上には分かった。小夜も、自分と同じことを考えているのだ。しかし、大山の方はその言葉を別の意味に捉えたらしく、二人を嘲笑った。
「石上、許して、と言っているぞ。どうする? 許してやるのか?」
「……許す」
「え?」
大山は意外な言葉に眉を寄せた。石上はもう一度言う。
「許す。小夜、そいつは人間じゃない。殺せ」
「何を言っているんだ? この状況、理解して…」
大山の声が止まった。代わりに呼吸が乱れ、それに混じって言葉が漏れている。同時に小夜の髪の色が変化した。眩しいくらいの金色に。そして、目の色も爛々と赤く輝いた。その変化と並行するように、大山の呼吸の乱れが激しくなっていく。
大山は拳銃を取り落とす。小夜は一度、大山から体を放すと、振り返って両腕で彼の肩を拘束した。既に大山は精気を吸い尽くされ、意識は朦朧としているようだ。それでも小夜は、彼を逃しはしない。唇を大山の唇に押し付けると、残った精気を吸い尽くしてしまった。大山は瞬時に皮と骨だけのミイラになり、支える小夜の手が離れると、床に倒れ込んでしまった。
「先生……」
小夜の手を借りて、何とか立ち上がった石上だったが、眩暈が収まるのを待つわけにはいかなかった。
「小夜、村の人がここにくる。逃げましょう」
「逃げるって…二人で?」
「当然でしょう!」
二人は家に火を放ち、村とは反対方向へ走り出す。しかし、そこは獣道で進むことは難しく、すぐに村人が手にしているのだろう火の灯りが、迫っていると確認できた。
「先生、私が……」と小夜は言い掛ける。
「それでは、意味がない」
石上は小夜の言葉を遮った。
「二人で行かなくては、意味がないのだ」
小夜が何を言い掛けたのかは、分からない。自分さえいなければ、石上は村人に殺されず済むかも知れない。自分が囮になる間に逃げてくれ。そんなことだろう。しかし、ここで二人が別れてしまったら、二度と会えないと石上には分かっていた。だから、二人で逃げなければならない。石上は小夜の手を取った。小夜も石上の手を握り返す。
村人たちの声が明確に聞き取れるまで、距離は詰められてしまった。こっちだ、あっちだ、という声は、どんどん近付いてくる。銃声が、立て続けに響いた。それは、石上と小夜の背を狙ったものに違いない。それだけ、彼らはすぐ後ろまで、迫っているようだ。
また、背後で銃声が轟き、小夜が微かに悲鳴を上げた。
「小夜!?」
「大丈夫です。たぶん、かすめただけ」
肩の辺りを手で押さえる小夜だったが、何か違和感があったらしく、体中を確かめるよう触れた。
「ない」と小夜の顔面が蒼白になる。
出血も手伝ってか、小夜の顔面は見たこともないほどに白かった。彼女が何を失ったのか、石上もすぐに理解する。小夜が常に大事にしていた、あの首飾りがなくなってしまったのだ。
「あれがなくなったら、私は…」
いつだか、小夜になぜあの首飾りを大事にしているのか、聞いたことがあった。しかし、彼女は大事にしている理由を忘れてしまったと言う。理由を忘れてしまうほど、長い時間、大事にし続けた何かなのだ。小夜にとって、失ってはならないものなのだろう。
小夜は振り返り、来た道を戻ろうとしたが、石上は引き止める。
「小夜、駄目です。今行ったら…」
今行ったところで、小夜が命を落とすことはないだろう。小夜がその気になれば、村人たちを皆殺しにすることも容易だ。しかし、それは小夜が人間に戻ろうとする自分を再び捨ててしまうことと同義だった。小夜は石上の言葉を理解し、踏み止まる。
しかし、村人はすぐ傍に迫っていた。どっちにしても、小夜が取るべき行動は、一つしか残されていないように思われた。人間を捨てることになる。それでも、石上を生かさなければならない。そんな小夜の決意を感じた。石上も覚悟する。ここが、どんな地獄になろうとも、自分は死んではならない。そして、必ず再び小夜の手を取らなくてはならない、と。
「おいおい。こっちだ」
知った声が、村人たちが迫りくる方向と逆の方から聞こえてくる。石上と小夜が振り返ると、そこには赤い二つの光が灯っていた。
「お、お前は…」
「逃げるんだろう? 饅頭の礼だ。ここは任せろよ」
あの夜の、怪異だった。
それから、石上と小夜は遠くへ逃れ、誰も自分たちを知らない土地で暮らした。石上が死ぬまで、二人で。あの怪異のおかげだった。そもそも、あの怪異が二人を助けたのは、石上の辛抱強い優しさが原因と言えるかもしれない。小夜もあの怪異も、石上に助けられたのである。
どんなに醜い姿を晒したとしても、石上は最後まで優しくしてくれた。時々、そんな人間がいるのだ、と小夜は思った。ずっと以前も、そんな優しさを受けた気がした。いつだったろうか、と小夜は思い返そうするが、難しかった。小夜の体は人ではなくなったが、脳が記憶できる容量まで、膨大になったわけではなかった。人だった頃の記憶は薄れつつあるのだ。
石上の墓の前で手を合わせていた小夜だが、もう去らなくてはならなかった。石上と最後まで過ごした土地では、歳を取らない不気味な女の噂が、少しずつ広まっていたのだ。立ち上がり、空を見上げた小夜が見たものは、どこまでも続く空だった。しかしそれは、清々しい青が広がるのではなく、暗い灰色がどこまでも続いている。雨が降る、と小夜は思った。自分が歩かなければならない道は、まだ続く。どこまでも続くのだろう。小夜はまた歩き出した。
それから、小夜は酷い目に合えば、優しい人に出会うこともあった。飢えて死にそうになることもあれば、体が切り刻まれて死にそうになることもあった。それでも、小夜は死なない。死ぬことはなかった。男を喰らって、生き延びる。そして、昭和と言われる時代も、終わりが近付こうとしていた。




