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家に帰ると、小夜の姿がない。何事かと石上は家の周辺を何週も回った。一時間もそんなことをしていると、小夜が何事もなかったように帰ってきた。
「どこに行っていたのですか?」と石上は少し厳しい口調になる。
それを感じ取ったのか、小夜は戸惑いながら「山菜を…」と答える。
「とにかく、家に入ってください。話があります」
小夜は肩を落として、大人しく家の中へ入った。二人で机を挟んで向き合い、茶を飲みながら石上は怪異が出たかもしれない、と話した。自分が疑われている、ということも。
「だから、あまり家を出ないようにしてください。小夜は普通の人間にしか見えませんが、何かのきっかけで、感じ取られてしまうこともありますから」
「……私は構いませんよ」
そもそも、今までも小夜は人前に出ていない。伝えてしまったことで、逆に不安にさせてしまったのかもしれない、と石上は思った。
「でも、先生…怪異を退治するのですか?」
「退治というわけではありません。まずは怪異の事情を聞いてから、どう対処するかを決めます。理想は大人しく帰ってもらうことです」
「でも…中には怖い怪異もいると思います。私だって、その気になれば、片手で人の腕をへし折るくらいできますから」
「そうなのですか? か弱い乙女にしか、見えていませんでした」
「本当です。もしも、怪異を怒らせたら…大変なことになると思います」
「大丈夫です。そういう相手でも大事にならないよ、私は何年も修行をしてきましたから」
「……心配です」
石上はそれから数日間、夜になると村に降りて怪異が現れないか、辺りを歩いた。だが、何事もない日が続くばかりで、怪異は別の場所へ移動したのではないか、と石上は思い始めた。しかし、たまに遭遇する村人からは、やはり石上に冷たい視線を向けられる。大山から例の話を聞いた後だと、余計にそれを感じ取ってしまい、何とも複雑な気持ちにさせられた。
怪異を探し出してから、十日ほど立って、ついに事件は起こった。
その日は、月がなく、いつも以上に暗い夜だった。石上は提灯の火だけを頼りに、村の周りを歩いていた。見回っても、やはりそれらしき気配と遭遇することなく、石上は帰ろうと踵を返したが、何となく陰陽師の技によって、怪異の気配がないか、確認してみることにした。
あのときと同じように、特別な紙に特別な呪文を書き込み、宙へ放る。ひらひらと舞って地に落ちた紙は、沈黙したように思われたが…すぐに回転しながら浮き上がった。しかも、この前とは比べ物にならないほど、凄まじい勢いで回る。
石上は辺りを見回した。きっと、何かがいるに違いない。そう思うと、四方八方、何者かの気配に囲まれているような気がした。すると、叢の方から、カサカサと物音が。ゆっくりと近付いてみると、それはいた。赤い目が、暗闇の中で光り輝き、こちらを見つめている。石上は刺激しないよう、小さな声でそれに呼びかけた。
「おい。おい!」
返事はない。ただ、赤く光る双眸が、一回瞬いたようだった。
「どうして、ここにきた? 迷い込んだか? 帰りたいなら、手伝うぞ」
やはり返事はないが、それは石上に強い興味を示しているようだった。
「腹が減っているようなら、饅頭でも食うか?」
大山に言って用意させた饅頭を取り出し、手を伸ばすが、それは警戒するように目を光らせるだけだ。
「投げるぞ?」
石上が饅頭を投げると、それは確かに受け取ったようだった。租借の音がかすかに聞こえる。石上は警戒させないよう、腰を下ろした。
「最近、この辺にはよく来るのか?」
「……うん」
返事があった。話が通じる。石上は喜ぶ気持ちで話を逸らしてしまわないよう、抑えながら質問を重ねた。
「そうか。道に迷ったか?」
「母ちゃん、探している。ずっと、探している」
「そうか。どれだけの間、探しているんだ?」
「分からん。将軍様が、変わった頃だ」
将軍様、というのが、いつの時代の人物を指しているのか分からないが、確実に江戸以前から、このものはさ迷っているらしい。
「昔は、母ちゃんと住んでいたのか」
「そうだ。長屋に住んでた。母ちゃんとは、火事ではぐれた。それから、ずっと探している。気付いたら、皆が俺のこと、化物って言うようになっていた。石投げられるのも慣れたけど、饅頭投げられるのは、初めてだった」
やはり、この者も元は人間だったのだろう。母を探して、歩き回るうちに、不安や悲しみが、他の憎しみやら恨みを拾って、怪異になってしまったのかもしれない。
「つらかったな」
「まぁな。でも、苦しいのは自分だけじゃねぇって、母ちゃんはよく言ってたからな。俺だけが我慢しているわけじゃないだろうよ」
「そうかもな。でも、お前は少し楽になっても良いと思うぞ。楽になるまじないをかけてやるから、もう少しこっちに来ないか?」
「……まじない?」
流石に少しは警戒するようだ。石上は、この怪異に積もった憎しみや恨みを解除する祝詞を唱えてやろうと思った。小夜には効果がなかったが、この怪異には、効果があるように思える。
「ふーん。あんた、良いやつそうだから、それやってもらったら、良いことありそうだな」
「ああ、たぶんな。そこだと少し遠いから、こっちに来ないか?」
「……分かった」
叢から怪異が顔を出す。身長は小僧のようだが老人にも見えた。顔は異様に白く、目の位置は深く窪んで、奥に赤い輝きがある。腹は出ていて、手足が細い。人に近いが、やはり怪異と言うべき風貌だった。
「大変だったな、お前」
石上は怪異を労いながら、札を何枚か取り出し、祝詞を唱える準備を進める。怪異は大人しく、石上の正面に座った。
「始めるぞ」
「うん」
石上が祝詞を唱え始めると、思いの他、早く効果が表れ始めた。怪異は間を置きながら、小刻みに震えた。その度に、邪気が減っているのか、目の赤い輝きが薄くなっているように見えた。
「痛いところはないか?」
怪異は頷く。良かった、と石上は心の中で安堵する。石上は、父や一族の話や、今まで自分がやってきたことが、間違っていなかったことに感極まり、涙を堪えるのに必死であった。もしかしたら、小夜のことも癒せるのではないか、と小さな期待すら抱く。もし、小夜が人間に戻ったら、この地を離れよう、と思った。そして、自分も普通の人として、畑でも耕しながら生きれば良い。
そんな風に、将来に対し細やかな希望を抱いた、次の瞬間のことだった。耳を打つ轟音が響いた。目の前にいた怪異は、痙攣したように大きく震えたかと思うと、横向きに倒れる。石上の頬に何かが付着したように感じられた。血だ、とすぐに理解できた。そして、何が起こったのかも、理解した。石上は立ち上がり、辺りを見回す。誰かが立ち去る気配を、確かに感じた。きっと、村人の誰かが、石上の後を付けていたのだ。そして、怪異を見て猟銃で撃ったのだろう。
「おい、大丈夫か!」
石上は倒れた怪異に近寄り、抱き起こそうとした。しかし、伸ばした手は、撥ね除けられてしまう。
「だ、騙したな!」
「ち、違うぞ! 僕は何も知らなかった。ただ、お前を治してやろうと…」
「そんなこと、信じられるか!」
怪異は、腕を撃ち抜かれていた。左の肩を右手で抑えつけているが、真っ黒な血が流れ続け、止まることはない。
「待て待て。手当てが先だ!」
「そう言って、また騙すんだ! 次は殺す気だろう!」
「違うんだ」
「お前を…喰ってやる。そうすれば、この痛みも、消える」
ゆっくりと、怪異は立ち上がった。
「落ち着け。ちゃんと、話し合おう。さっきみたいに、話せば、分かるはずだ」
石上は必死に説得するが、怪異は聞く耳を持たない。それどころか、石上を追い詰めるように、一歩前に進む。石上は腰が抜けて、その場に座り込みそうになった。だが、それよりも先に怪異の手が伸びる。石上の肩を軽く小突くような調子だったが、それはとてつもない力が込められていた。石上の体は軽々と宙に放り出され、地面に倒れ込むと強く肩を打ってしまった。頭も打ってしまったらしく、視界が回っている。
立ち上がろうとする石上だったが、赤い瞳がすぐ傍から見下ろしていることに気付いた。子供のように小さな足が持ち上げられ、石上を踏み付けた。子供の体型からは想像できない、凄まじい力である。身動きが取れないほど、とてつもない痛みに石上は体を丸めた。
呼吸が上手くできない。説得しようにも、声が出なかった。もう一度、分かり合えないだろうか。自分と小夜のように、言葉さえ交わせれば、きっとお互いを理解できるはずだ。
そんな石上の願いなど、多くの憎しみや恨みにまみれた、この怪異には想像もできない。目の前の怒りと痛みに従い、ただ石上を喰らうことだけが、目的となってしまった。
怪異は石上の襟首を掴むと、力任せに引っ張り、彼の顔を覗き込んだ。
「お前も、他のやつらと、同じだ。喰ってやる。死ね」
怪異は口を開いた。普通の人間では考えられないほどの、大口である。それが石上の首へと喰らい付こうとしていた。抵抗しようにも、目が回って体は自由に動かない。石上は死を想像する余裕すらなかった。ただ、恐怖が溢れ出し、頭の中は真っ暗だった。
しかし、石上は死を迎えることはなかった。突然、体が軽くなったと思うと、地面に倒れ込んでいたのだ。体を支配していた、怪異の力から解放されたのである。距離を取らなくては、と石上は立ち上がろうとしたが、やはり体が自由に動かない。
「先生、立って」
その声は、聞き慣れたものだった。石上は体を引っ張り上げられるのを感じた。小夜だ。彼女が体を支えてくれることで、石上は何とか立つことができた。
「先生、立てる? 離れて!」
何があったのか、怪異は少し離れたところで、立ち上がろうとしていた。
「こ、殺す」
赤い目が輝き、こちらを睨み付けていた。それに相対する小夜の瞳も、驚くほど濃い赤だった。
怪異が飛び出すと、小夜は石上を突き飛ばした。大口を開けて襲い掛かる怪異だが、小夜は片手でそれを止めた。首を掴んで、怪異の動きを封じているのだ。かなりの力で絞められているのか、怪異の表情はいかにも苦し気である。怪異は抵抗して、小夜の首を絞め返そうと手を伸ばしたが、小夜はその腕を空いた手で掴むと、軽々とへし折った。有り得ない方向に腕が曲がった怪異は、絞められた喉からくぐもった悲鳴が上がる。
「小夜、殺してはダメだ!」
小夜は石上の声に従い、怪異を突き放す。彼は咳き込みながら、小夜を睨み付けたが、格の違いを感じたのか、ゆっくりと距離を取ろうとしていた。だが、大勢の人間が近付いてくる気配が。村人たちがこちらに迫っているらしい。怪異もその気配を感じたのか、この場を去ろうと背を向けた。
「おい、お前! 逃げる前にこれを持っていけ」
石上の声に、怪異は反応した。石上は懐にあった饅頭を、すべて怪異の方へと放る。怪異はそれを確かに受け取ったようで、最後に石上を一瞥してから、その場を去った。
「小夜、私たちも逃げましょう。見られるのは、良くない」
石上と小夜はできるだけ身を小さくして、村から離れた。
どうにか、村人に遭遇することなく、家に戻ることができた。
石上は戻るなり、小夜の体に傷がないか確かめる。小夜は「私は大丈夫ですから」と何度も言うが、全身を確かめるまで、石上は安心しなかった。やっと怪我がないことを確認してから、石上は言った。
「どうして村に降りたのですか? 危ないから近づかないように、と言ったばかりでしょう」
「そ、そうだけど…先生が心配だったんです」
「そうかもしれないけど、小夜が村に降りるのは、本当に危険なことなんです。いくら私の身を案じてのことだとしても、絶対に駄目です。分かりましたか?」
「……はい」
「それから、絶対にないことだと思いますが、貴方の力を人間に向かって、使ってはいけませんよ」
「分かっています。それは、信じてください…」
小夜は肩を落としながら、首飾りのある胸元に触れる。そんな小夜に、石上は笑顔を見せた。
「はい。信じます」
小夜は顔を上げ、笑顔を見せる。石上は頷いてから言った。
「とにかく、今日はありがとうございました。小夜がいなければ、私は今頃、死んでいた」
二人は、何とか難を逃れたとばかり思っていた。しかし、本当の事件はこれからだった。




