3-2
石上と小夜の細やかな日々に、終わりの気配を持ち込んだ客人が訪れることになる。
「石上、いるか」
その声は、何度も石上を呼んだ。遅くまで起きていた彼からしてみると、訪問者の声は非常に煩わしかったが、応えるまでその声は止みそうにない。石上が仕方なく身を起こすと、隣の小夜は小さく声を漏らしたが、まだ眠たいようだ
石上は着替えながら、一階へ移動し、玄関の前で返事する。すると、訪問者が名乗った。
「俺だ、大山だ」
「……帰ったのか」
「そうだ、開けろ」
大山は石上にとって、子供の頃、野山を駆け回った仲だった。大山はこの辺りの地主の息子、ということもあってか、ガキ大将とでも言うべき存在で、何人もの子供を従えていた。
大山との想い出と言えば、必ず出てくるのが、川で拾った綺麗な石である。石上がある日、川で拾った石は、まるで水晶のように美しかった。石上がそれを宝物のように大事にしていることに気付いた大山は首を傾げて「それ、そんなに良いのか?」と聞いてきた。石上が頷くと、大山は納得いかない様子だったが、次の日に「あの石を寄こせ」と、しつこく迫られ、半ば奪われるように石を譲ることになった。子供の頃、そうやって大山に取られたものは、いくつもある。大山が周りの子供たち全員に、そうしているのかと思えば、石上だけだったらしい。石上は嫌われているとばかり思っていたが、そうではなかった。少し子供から少年とでも言う年齢になって、大山は他の仲間とは付き合いが悪くなったが、なぜか石上だけは遊びに誘うことがあったのだ。妙に好かれていたのだ。大山はいつだか、こんなことを言った。
「俺には、お前のことが理解できない、不思議な人間なんだよ。だから、お前が何を考えているのか知りたくてたまらないわけだ」
青年と言える頃になると、大山は拠点を東京へ移したはずだったが、村に帰ってきたらしい。
「久しぶりだな、石上」
「うん。久しぶりだ」
「村に戻った。親父が死んでな。大山の家を継ぐ」
「そうだったのか。知らなかった」
「お前の家には、誰も寄り付かないからな」
石上の家は山の上にあり、村の人間から忘れられることがある。職業柄、避けられるのは慣れ始めているが、大山の父が死んだことすら知らされないのは、石上は少し寂しさを覚えた。
「それでだ、今日は挨拶だけで来たわけではない。仕事を持ってきた」
「仕事? この時世に、石上の家に仕事なんて…」
そう言いながら、石上は二階で寝ている小夜のことを意識する。まだ、この国には石上のような存在が必要になることは、少なからずあるらしい。
「ここ数日、夜に黒い影が現れて、人を驚かせるという事件が、何度かあった。村の人間は妖怪の仕業だと言って怯えている。老人たちが子供の頃は、妖怪も頻繁に出たらしいからな。そう言う風に考えても無理はない」
「いや、実際にいるよ。僕らの親の世代にも細々とだけど、出現はしていたんだ」
「……俺には信じられないな」
「見てみないと、信じられない物さ。特に君のような、都会から帰ってきたばかりの人間にはね」
「その通りだ。とにかく、調査だけでも頼む。調査料は俺が払う。本当に化物が現れて、お前が退治するようなら、さらにまとまった金を払うよ」
「滅多に収入がないから、それは助かるな」
大山は黒い影が現れた、と噂されている場所を説明し、実際に影を見たと発言した人物の名前を挙げる。事件について一通り説明を終えると、大山は言った。
「では、調査結果の報告を待っているぞ」
「分かった」
大山は去る直前に、家の中を見渡す。何かの気配を感じたのか、僅かに眉を潜めたが、お互い特に何も追及することなく、別れた。
「先生」と背後から小夜の声があった。
小夜は柱の影から、こちらの様子を窺がっていたらしい。大山に見られてはないか、と少しだけ不安だった。
「騒がしくしてしまいましたね。朝食にしましょう」
「先生、その…」
小夜は石上から栄養を摂取した後は、このように不安げに眉を寄せる。
「私の体調なら、大丈夫です。少し眩暈はありますが…これくらいは問題ありませんよ」
石上の微笑みに、小夜も笑顔を返すが、やはり不安らしく、いつものように首飾りがある胸元を触れている。どんなに石上が平気だと言っても、小夜が不安になるのは、それだけ意図せず人の命を奪ってしまった過去があるからだろう。
「誰か、来ていたのですか?」
「はい。友人…です。仕事の依頼でした」
「仕事…ですか?」
「はい。怪異らしきものが出たそうです。この後、村に行ってみます。村人に誤解を与えないためにも、君は外に出ない方が良い」
「でも、大丈夫でしょうか」
「大丈夫です。ただ調べに行くだけですから」
「……分かりました」
石上は久しぶりに村へ降りた。すれ違う人々は、石上を見ると、どこか決まり悪そうに顔を伏せる。仕方のないことだ、と石上は思った。怪異が少なくなった今の時代では、陰陽師なんてものは、不気味な存在でしかないのだろう。
石上は黒い影が出現したと言われる現場に到着した。なだらかな崖の下に、田んぼが並んでいる。石上は、まず周辺に動物の足跡がないか調べた。動物を怪異と間違ってしまうことは少なくない。そういう事件の大半は、自然的な何かと勘違いしたものでしかないのだ。しかし、動物が周辺を歩いた痕跡はない。
次に石上は人為的な何かが、怪異と見間違われたのではないか、と推測した。村人たちに聞き込みを行ったが、誰もが協力的ではなかった。
石上は最後の手段で、陰陽師の技を使うことにした。特別な紙に、特別な呪文を書き込み、現場に放った。もし、本当に怪異がこの周辺に存在していたのなら、この呪文が刻まれた紙が、妙な動きを見せるはずである。石上は、本物の怪異が絡んだ事件に遭遇したことがない。だから、陰陽師の技を長年磨き続けてきたが、それが本当に通用するのか不安でもあった。
紙は風に舞い、ただ地面へ落ちた。何も起こりそうにもない。これが怪異はなかった、と判断すべきか、自身の技量がなかったと判断すべきか、石上には分からず、一人首を傾げそうになる。しかし、その瞬間、紙が再び宙へ舞い上がった。しかも、くるくると異様な回転を見せたのである。これは、何らかの怪異があったと判断すべきなのだろう、と石上は思った。
その後、もう一度、動物の痕跡や人による仕業がないかを調べ、最後にもう一度だけ陰陽師の技で怪異の反応を確かめた。結果はすべて一回目と同じだった。
石上は早速、大山のところへ報告に向かった。大山の家を訪ねたのは、子供のころ以来である。
大山の家の扉を叩くと、知らない女が顔を出した。若い女だ。大山の妻だろうか。いや、家政婦かもしれない。石上が名乗ると、女は引っ込んで、代わりに大山が顔を出した。
「早かったな」
「うん。経過報告というやつだ。まだ解決したわけではない」
「分かっている。取り敢えず中に入れよ。茶くらい飲ませてやる」
居間に通される途中、石上は先程とは別の女とすれ違う。やはり若い女で、田舎では見ないような恰好をしていた。
「凄いね。二人も家政婦を雇っているのかい?」
「家政婦? ああ、違うよ。東京から連れてきただけの女だ」
「どちらかを妻に?」
「そうじゃない」
大山は短く答えただけで、それ以上は説明するつもりはないらしい。あまり触れない方が良いだろうと、それ以上は聞かなかった。
居間に通され、先程とはまた別の女が茶を運んできた。その女性は老齢で、昔から大山の家で働いていたような記憶があった。
「それで?」と大山が聞くので、石上は事のあらましを説明する。
大山は最後まで口を挟むことなく、耳を傾けていた。石上が説明を終えても、暫くは黙っていたが、煙草に火を付けて一息つくと、口を開いた。
「信じられない話だ」
「そうかもしれないね」
これは、石上としても本音である。彼も自身の技量を信じ切ることができないからだ。
「しかし、万が一ということもある。改めて、退治を頼めるだろうか」
「怪異にも事情があって人前に現れることがある。まず対話して、どう対処するか決める」
「退治しない、ということもあるのか?」
「そうだね。説得というか…帰ってもらう、というのが一番だろう」
「それで村の人間が納得するかな」
「また来るなら、またそのとき考えるさ」
「今は人の世の中だ。人にとって理解できないものは、徹底的に排除することが好ましい」
「そうかもしれないが、怪異にも怪異の事情がある」
石上の頭の中には、小夜のことがあった。もしかしたら、その怪異も、もとは人間かもしれない。無暗に傷付けたくはなかった。
「……そういう態度は、改めろ」と大山は言う。
「どういうことだ?」
「お前は気付いていないだろが、村の人間は、お前を恐れている。知っているか?」
「恐れている? 僕を?」
「昔であれば、石上の家は、怪異から村を守る存在だった。怪異を見なくなった今では、山に籠って不気味な研究を続ける狂人にしか見えないのだろう」
「……そうだったのか」
大山は石上が何を考えているのか、読み取ろうとしているらしく、じっと見つめていた。大山はこうも言った。
「村人の中には、お前が怪異を作ったのでは、と噂しているものがいるそうだ」
「怪異を作る?」
「怪異は減った。それなのに怪異が出るのは石上がいるからだ、ということらしい。だから、お前が怪異に対して中途半端な態度を見せたら、その疑いは深まる」
「……そう言われても」
沈黙が流れた。大山の指先で煙を上げていた煙草が十分短くなると、彼は火を消してから、無関心としか思えない口調で言った。
「どうするかは、専門家のお前に任せる。でも、そういう噂がある、ということは覚えておけ」
「分かったよ」
要件は済んだ、と石上は腰を浮かせたが、大山が「そう言えば」と引き止めた。石上はまた椅子に腰を下ろす。
「妻を取ったのか?」
「え?」
「……女だ。今朝、一緒にいただろう」
「……見たのか」
「見た」
大山は石上をじっと見つめた。石上は、自分の頭の中を探られているようで、良い気分ではない。大山はやはり無関心としか思えない様子で、呟くように言った。
「良い女だな」
たった一言のようだったが、石上は鳥肌が立つほど恐怖を感じた。




