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その日、唐突に詩葉から連絡があった。
「悪いけど、今から会えないかな」
このように、詩葉の前触れもない誘いは珍しかったが、願ってもいないことなので断るわけがない。この日も、拓也は路上でギターを弾いていたが、早めに切り上げて、詩葉との待ち合わせ場所へと向かった。
詩葉は既に待ち合わせ場所で立っていた。文庫を顔の前で広げ、集中しているのか、拓也に気付いていないようだ。そのとき、ふと小夜と待ち合せをするときのことを思い出す。小夜はいつも集合時間に遅れてやってくるが、不安げに辺りを見回し、必死に拓也の姿を見つけようとするのである。そして、拓也を見つけるなり、喜びの感情がすべて詰まったような笑顔を見せるのだ。
しかし、詩葉は文庫に目を落としたまま、こちらに気付く様子はない。
「お待たせ」と声をかけて、やっと彼女は顔を上げる。
「ああ、ごめんね」
詩葉は文庫を閉じて、笑顔を見せた。
「急に、どうした?」
「会えないかな、って思っただけだよ」
「そっか。この前は、悪かったな」
「この前?」
小夜が倒れた日のことだ。
「ああ、大丈夫だよ」と詩葉は言うが、どこか無感情に口から出たように聞こえた。
それから、拓也が主導で、安いがそれなりの居酒屋に入った。まだ再会してから、数度しか会っていないわけだが、その度に拓也の方が一方的に話している。詩葉はただ微笑みを浮かべ、拓也の顔を見ているだけだった。
そんな状況に気付くことなく、拓也は最近の路上ライブのこと、先輩の手伝い、学校のこと、自分の曲について、延々と話した。そうしているうちに、時間は終電近い時間になる。スマホで時間を確認した拓也は、小夜から一時間前と二時間前に電話が入っていることに気付いた。
「……電車、大丈夫か?」
そう聞くと、詩葉は時計も見ることなく頷いた。
拓也はもう一度、スマホを見ると小夜からメッセージが入っている。それも二件だ。一件は、予定よりも早めに用事が済んだので、拓也の家に行きたい、ということが書かれ、もう一件にはどこにいるのか知りたい、という内容のものだった。
帰った方が良いのだろうか、と考える。つい数日前、真っ白な顔でベッドに横たわっていた小夜のことを思い出すと、拓也の気持ちを重くした。
しかし、目の前にいる詩葉からは妙な感じがした。何となく、彼女から離れられないような、庇護欲を刺激されるような、妙な気持ちになる。
ただ、丁度良いタイミングと言うべきか、閉店の時間になり、店を出なければならなかった。
「ちょっとお手洗いに行ってくるね」
そう言って詩葉は席を立った。その間にもう一度、スマホを確認してみると、やはり小夜から連絡があった。合鍵で勝手に部屋に入る、とのことだ。思わず舌打ちをしてしまう。今日は詩葉を帰したくなかった。また、直感でしかないが、詩葉がそれを望んでいるようにも思えたからだ。
別に一晩くらい、小夜を放って置いたところで、何も問題はないだろう。先輩と飲んでいた、と告げれば容易に納得するはずだ。そうしよう。今までだって、そうだったのだから。
そして、タイミングとしては早いかもしれないが、詩葉とはもう少し関係を進めてしまえば良い。そう考えるとつい先日、小夜と病院で話した内容が思い出される。真っ白い顔で涙を流しながら、自分に捨てられてしまうと恐れを口にしていた彼女のことを。
そんな風に頭を悩ませていると、店員に声をかけられた。閉店を告げたにも関わらず、未だ席を立たないので、再度それを告げにきたのだ。詩葉がなかなか戻らないので、具合でも悪くなってしまったのだろうか、と拓也は様子を見に行こうと考えた。
トイレは店の奥にあり、そこまでの通路は死角になっていた。詩葉はそこにいた。大丈夫か、と声をかけるが、返事はなく、白い顔で拓也の顔を見つめていた。やはり具合が悪いのだろうか、と距離を縮めた。
「大丈夫か?」ともう一度、声をかけてみた。
やはり、詩葉からは反応がない。手が届く距離で、二人は見つめ合う。表情のない詩葉の瞳は大きく、拓也はそれに魅入った。美しい、と思いながらも、喋りもせず表情も変えない詩葉に、拓也は恐れを感じた。一歩、後ろに退いてしまおうかと思うほどに。しかし、それと同時に冷たく、柔らかい感触が頬にあり、それが拓也の動きを止めた。その感触は、詩葉の手の平だった。彼女が拓也の頬に、突然手を添えたのである。触れるか、触れないか、という程度の、僅かな接触でしかないが、そこには妙な強制力があった。
はっとして詩葉に目をやる。それでも、詩葉は表情を変えず、ただ自分を見つめているだけ。だが、先程とは何かが違った。少し瞳が潤んでいる。詩葉の瞳の何が変化したのか、拓也には理解できないが、胸が締め付けられるように苦しくなった。そして、詩葉を自分のものにしてしまいたい、という気持ちに駆られる。それは、欲情だった。
拓也は頬に触れる詩葉の手首を取った。詩葉の目が一瞬だけ見開く。拓也はそれを見逃さなかった。まるで冷徹なまでに表情を崩さなかった詩葉の表情の変化は、拓也をより興奮させる。詩葉の手首を握ったまま、追い詰めるように壁へと押し付けた。そして、額を寄せる。詩葉も拓也の意図を汲み、瞼を閉じた。
その後、詩葉を改札まで送り、終電の扉が閉まる寸前、拓也は滑り込んだ。店を出てからは、二人とも口数が少なく、何となく歩いた。なぜ、駅の方へと向かったのかと言えば、小夜のことが頭から離れず、拓也の足は自然とそちらに向かってしまったのである。電車に乗っている途中、詩葉からメッセージが一通届いた。
「いきなりキスするなんて、ずるいね」
それだけである。しかし、そこに侮蔑や拒否は含まれていない。もう一押しではないだろうか。拓也は理想の相手が自分の手に落ちようとしてることを感じ、つい頬を緩めた。
家に戻ると、小夜がいた。拓也の帰りを待っていたが、どうも眠ってしまったらしい。拓也が帰った物音で彼女は目を覚ましたらしく「もう帰ったの?」と眠たげな声で言った。何だか拓也はそれが気に喰わなかった。何て呑気な女なのだろうか、と頭の中で悪態を付く。小夜が自分の都合で押しかけてこなければ、今ごろは詩葉と一つ進んだ関係になっていた可能性は十分ある。それをこいつに潰されてしまった。そんな風に思うと、小夜の小さな寝息さえも、何だか腹立たしいものに感じられた。
数か月後、拓也の予定通り、小夜と別れることに成功した。
「別れて欲しい」
過去、何度か別れを切り出したときと同じように、ただ一言そう告げた。
「……どうして?」と小夜は以前と同じように、理由を問う。
「好きなやつが、できた」
「私より?」
頷くと小夜は「そっか」と言った。
「分かった。別れてあげる。でも、嫌になったら、いつでも戻ってきてくれて良いからね」
小夜は、今まで通り、拓也はすぐ戻ると思っているらしかった。しかし、そんなことはない。なぜなら、今度の相手は詩葉なのだから。詩葉が相手であれば、拓也はどこまでも人生を共にする覚悟がある。それなのに、小夜は今回も一時的な我慢でしかない、と思っているらしい。
不憫な女だ、と思った。それでも、拓也にとって好都合であることには間違いない。ほっとしたのも束の間、小夜の視線が拓也を捉えた。そこには、自らの直感を恐れるような、焦燥感に近い感情があった。
「……もしかして、詩葉ちゃん?」
小夜の言葉に凍り付く。小夜の前で、詩葉の名前など一度も出してはいないし、小夜がその名前を出したことだってない。それなのに、小夜は天啓を受けたかのように、その名を口にしたのだった。
「そうなの…? 嘘だよね…?」
信じがたい事実を確認するように、小夜は質問を重ねる。拓也は何も返事ができなかった。沈黙は肯定と同意義だった。
拓也は小夜の表情を見ることもできなかった。しかし、彼女が泣いていることは、十分すぎるほど理解できた。
小夜がすすり泣く音は、次第に激しさを増して行く。咽び泣きに変わり、駄々をこねる子供のように声を出して泣いた。今まで、何度も別れを告げられ、何度も別れを同意してきた小夜だったが、これだけ激しく泣いたことは、なかった。
「詩葉ちゃんは…嫌だ! 嫌だよぉ!」
それまで、拓也はどれだけ小夜が詩葉を意識していたのか、全くと言って良いほど知らなかった。もしかしたら、拓也が詩葉の面影を想い続けるよりも強く、小夜は詩葉の面影を恐れていたのかもしれない。
小夜は、どれだけの時間泣いていたのか、分からなかった。その間、拓也はただそこにいた。何も考えず、小夜が泣き止むことをただ待ったのだ。
「ごめんね」と小夜は謝った。
小夜が謝ることなんて、何一つもないはずなのに、彼女はそう言った。
「前、詩葉ちゃんに会う機会があったの。それで…何となく、そうなのかな、って」
拓也の青い顔を見て、小夜は気遣うように笑う。
「あ、大丈夫だよ。私、そのとき拓也と付き合っていること、言わなかったから」
「別に…気にしてない」
「そっか……変なこと言って、ごめんね」
こうして、小夜は拓也との別れを承諾したのだった。そこからは、詩葉との関係も順調だった。拓也が誘えば、詩葉はそれに応じたし、詩葉から誘われることもあった。
その日も、詩葉から誘いがあった。彼女の住む家の付近で会う、という話になったのである。これはまた、さらに関係性が一歩進むかも知れない、という予感があった。それは拓也の予想通りで、食事の後、詩葉は「ウチに寄る?」と言うのだった。
詩葉の部屋は本当にさっぱりしていた。拓也は詩葉が何も持っていない女なのだ、と少し哀れに思う。もちろん、詩葉にとっては大切な本棚があり、いくつも家具やインテリアを並べるよりも、価値のあるものなのだが、拓也にはそれが目に入らない。
「ねぇ、卒業制作の曲、進んでいるの?」
殆ど進んではいなかった。もちろん、ギターを持って、頭の中にメロディを描いてみることもある。しかし、それが彼の頭の外に出て、形になることはなかった。拓也は生みの苦しみに悩むと、すぐにギターを下ろしてしまう。それでも、自分に絶望することはない。きっと、本気を出して打ち込めば、すぐに完成できるはずだ。そう考えて、作成を後回しにしてしまうのだ。
「進んでいるよ。そろそろ完成する」
「ふーん、凄いね。曲を作るって。どんな感じなの?」
「そうだな…目を閉じて、考えるんだ」
「どんなことを?」
「例えば…そのとき、一番心の中で燃えているものって言うか」
「燃えているもの? どういうこと?」
「だから、そのとき一番好きなものかな。もし今とてもカレーが好きだったらカレーのことを考えるし、もし好きな映画があったとしたらそれについて考える。とにかく、自分が今、一番惚れ込んでいることを考えるんだ」
「考えて、どうするの?」
「考えれながら、ギターを持てば、心が揺れるような感覚があるんだ。それをそのまま指先に移せば、自然とギターが音を奏でる。そんな感じ」
もちろん、拓也にはそんな経験はない。先輩の受け売りであったり、自分の理想だったり、そういうものを混ぜ合わせて、必死に言葉にしただけである。
それなのに、詩葉は何も言わない。ただ、少し微笑みを浮かべながら、拓也の顔を見ているだけだ。それは嘲笑なのだろうか。言わなければ良かった、と少し後悔をする。顔を背ける拓也に、詩葉は言った。
「それならさ、拓也は今、何を考えながら曲を作っているの?」
「それは……」
もし、自分が今、本当に好きなもの、惚れ込んでいることについて考えるとしたら……。それは、目の前にいる、詩葉のことではないか。詩葉が答えを期待するように、少しだけ拓也に身を寄せた。
「言わなくても、分かるだろ」
拓也がそう言うと、くすりと詩葉は笑う。
「口に出して、言ってほしい。聞かせて欲しい。そうしないと、私も好きなもののことを考えながら、歌えないかもしれないよ」
「……お前のことだ」
「名前で言って」
「詩葉のことに決まっているだろ」
拓也は詩葉の腕を掴んで、自らに寄せる。もう一度、あの夜のように、彼女の唇を奪ってしまおうと思った。もう自制する必要はない。どんなに自制したところで、二人だけの空間では、きっと無理だ。顔を寄せようとする。すると、胸の辺りに強い抵抗を受けた。詩葉の手の平が押し止めていたのだ。
「嫌だ。小夜ちゃんと、付き合っているって…知っているんだから」
そんな馬鹿な、と動揺する。小夜は詩葉に伝えていない、と言っていたではないか。しかし、その動揺を顔に出すわけにはいかない。
「もう別れた」と拓也は言い切る。
「……どうして?」
「お前のことが好きだからだ」
「信じられない」
「信じさせる。これから」
「ふーん。じゃあ、少しだけ、騙されてみようかな」
唇を重ねる。二人にとって長い夜になった。




