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拓也は学校、先輩のサポート、路上ライブを繰り返しながら、時々詩葉のことを考えた。何か彼女の才能を存分に発揮できる場はないか、と。しかし、彼は他人のことを考えている余裕などなかった。
「おい、児玉。このままだと、卒業できないぞ」
学校の講師に言われたのは、就職相談の面談中のことだった。
「もう卒業制作の準備に入っているやつが殆どだぞ。就職がどうこうの前に、お前はまずそれだからな」
「分かってますよ」
「口ではそう言っても、お前はやるべきことを先延ばしにするタイプだからな。過信できる実力があるなら、誰にもこんなことを言われないんだぞ?」
「大丈夫です。頭の中でおおよその構成はありますから」
「だと良いけどな。絶対に後で泣きついてくるなよ」
「分かってますって」
そう言いながら、拓也は何も考えていないことに焦りを感じた。先輩にも相談してみたが、それは自分の二年間の集大成であるべきだから他人に聞くことではない、と一蹴されてしまう。使えないやつだ。そう思いながら、卒業制作について考えているうちに、詩葉と会う約束をした日がやってきた。
拓也は思い付く。詩葉と卒業制作を作ってみてはどうか、と。自分の作った曲に、詩葉の声が乗れば、きっと素晴らしい作品ができるだろう、と考えたのである。
「ふーん。面白そうだね」
意外にも詩葉は興味を示した。
「俺が詞と曲を作るよ。詩葉はただ歌ってくれれば良い。収録と別に製作発表があって、ちょっと人前に出てもらうことはあるかもしれないけど」
「人前かぁ…。それ、いつの話なの?」
「……十二月」
「え? もうすぐじゃん」と詩葉は笑う。
今は八月も後半に差し掛かっている。製作発表が十二月の頭なので、残りはほぼ三カ月程度だ。
「なにやってたの、今まで」
「忙しかったんだよ。路上で歌う練習とか、先輩のサポートとか」
実際のところは、卒業制作を作る時間がなかったわけではない。ただ遊んでいる時間だって、たくさんあった。
「なんか、歌ってくれなんて、あのときのことを思い出すね」
「そう言われてみると、そうだな」
忘れもしない、中学二年の合唱祭のことだ。
「お前はその後、すぐにいなくなってしまったけど」
「うん…ごめんね。なんか拓也に言い出せなかったんだ」
「別に良いけどさ」
沈黙が流れる。拓也はあのときの、誰にも声をかけられず本ばかりを読んでいた詩葉の姿を思い出した。詩葉も何かを思い出しているようだった。過去の自分のことだろうか。それとも、転校してから今日に至るまでの日々を思い出しているのだろうか。
「……あのときのお礼として、手伝ってあげても良いよ。卒業制作」と詩葉は言った。
「え、良いのか?」
「うん。その代り、ちゃんと良い曲を作ってよね」
「ああ、もちろんだとも」
そう答えたからには、作るしかなかった。しかし、拓也はそれがどれだけ難しいことのなのか、気付くのが遅かった。二年間の集大成。彼がすべての時間に対し、真摯に音楽へ打ち込んだかと言えば、そうではないのは確かだが、それでも自分なりに経験を積んだつもりではある。だが、それを集大成として、要約し、無駄を省き、一つの形にすることは容易ではない。自分の音楽のセンスはもちろんのこと、一種の賢さがなければ、決して良いものを作り上げることはできないのだ。
そして、問題はもう一つあった。小夜という存在である。小夜との交際はまだ解消されていない。拓也は彼女と交際関係を結んではいるものの、滅多に頻繁に会うわけではなかったし、拓也自身が面倒に思って、伝えるべきことを後回しにしていることも、問題が厄介になりつつある原因の一つであった。
小夜は高校生活も成績は低空飛行だったが、拓也が東京に出ると決めたときから、彼女も自分の進路を考え始めた。卒業までに決めたのは、服飾系の専門学校だ。彼女は東京に出てから、真面目に勉強し、精力的に働いていた。専門学校の授業は、もちろん必ず出席し、課題も毎日のように睡眠時間を削って深夜まで作り続ける。学校以外の時間はバイトで、それが終われば、アルバイト先の先輩に服飾に関する知識を学んでいたらしい。なぜ、そこまで根を詰めるのか、と聞く拓也に彼女はこう答えた。
「あはははっ。私は馬鹿だから、やるべきことは、他の人の何倍も頑張らないと」
それは間違いないな、とからかう拓也に「ひどいよ!」と頬を膨らませたものの、すぐに笑顔で「本当、そうなんだよね」と言う小夜。
そんな勤勉家となった彼女は、それでも拓也への気持ちは失うことなく、空いた時間は路上に立つ拓也の応援に駆け付けていた。
「ねぇ、拓也。あの約束、覚えている?」と彼女は時々思い出したように言うのだ。
そんなとき、拓也は必ずとぼけたように言う。
「なんのことだよ」
「ひどいよ! いつか私のために曲を書いてくれる、って話だよ」
「覚えている覚えている」
「良かった。私さ、最近は色々とやることが多くて、何が何だか分からなくなって、たまに本当に体が重たくなることもあるんだけど、あのときの約束があると思うと、そんな日も頑張れるんだよね」
「やめろよ、プレッシャーになるだろ」
「拓也なら、できるでしょ」
「アーティストはな、繊細なんだよ。凄い人だって、そんな風に期待されて、少しも書けなくなることだってあるんだからさ」
「そうなの? 大変だね」
「そうだよ。お前には分からないような、淡くて儚い世界なんだよ」
「へぇー、かっこいいね」
感心したように言う小夜は、その日も疲労が溜まっているらしく、瞼が重そうだった。
「じゃあさ、本当にいつでも良いから、覚えておいてくれれば良いよ。拓也にも余裕が出てきて、何となく約束を思い出した時で良いから、絶対に約束だよ」
そう言いながら、小夜は眠りについてしまった。
「ああ、いつかな」
そう答えたとき、拓也は小夜が起きていたのか、眠っていたのかすら、分からなかった。小夜が話すこの約束とは、拓也にとっては時々テレビから流れてくる、募金のコマーシャルのようなものだった。約束を守るかどうか、そんなことすら、彼は考えていなかったのだ。
そんな時に詩葉と出会い、彼はどうやって小夜に別れを切り出すか迷っていた。いつでも別れようと思えば別れられる。なぜなら、小夜は拓也の言うことであれば、何でも聞く女だ。その程度にしか考えていなかった。
しかし、ある日のことだった。拓也は路上ライブを済ませ、自分の家で曲作りに専念しているうちに、うとうと眠りについてしまった。数時間、眠って目を覚まし、何気なく携帯電話に目をやった。すると、小夜から数十件に及ぶ着信の履歴が。何かあったのだろうか、と折り返してみると、小夜は数秒も間を置かずに電話に出た。
「もしもし。何していたんですか?」
しかし、電話の声は小夜のものではなかった。しかも、どうやら酷く感情的で、攻撃的な気持ちが電話越しに伝わってくる。混乱する拓也に相手は名乗った。名前を聞けば、拓也も一度会ったことがある、小夜の友人の一人であることに気付いた。
「小夜、倒れたんです。今、病院で点滴を打って…すぐに来てください。小夜が目を覚ます前に、絶対に」
「今からですか? 終電も過ぎているし、どうやって…」
「あんた、彼氏なんでしょ? タクシーでも徒歩でも、何でもいいから来なさいよ!」
電話が切れた。拓也は迷う。タクシーはそれなりに料金がかかってしまう。それでも、小夜の友人をあれだけ怒らせたと言うことは、ここで病院に向かわないのは、男としてあまり理想的な行動ではないのかもしれない。
そんな風に考え、やむを得なくタクシーを拾って病院に向かった。病院には先程の電話相手である小夜の友人がまだいた。彼女の説明によると疲労で倒れたらしい。特に頭を打ったわけでもないから、朝になれば普通に目覚めるそうだ。
「だったら、朝でも良かったじゃないか」と口に出して言いそうになったが、何となくそれは空気を悪くするだろうと察して我慢した。
「最近、小夜…おかしかったんですよ」とその友人は言った。
拓也は意味が分からずに首を傾げた。すると、友人は明らかな敵意を向けるように目を細める。
「気付かなかったんですか? いつも小夜は頑張っているけど、最近はもっと一生懸命だった。でも、それは何かから逃げている、って言うか…何かから目を背けているみたいだった。たぶん…追い詰められていたと思うんです。何か心当たりはないですか?」
拓也は「ああ」とも「うーん」とも言えないような曖昧な返事をした。友人は小さく溜め息を吐くと、それ以上、何も言わなかった。そして、それから口を利かず、始発が出る頃には挨拶だけして帰って行ったのだった。
どうも自分は嫌われたらしい、とは思ったが、原因について心当たりはなく、頭の中では首を傾げるばかりであった。実際のところ、小夜の友人は拓也を好ましく思っていなかった。小夜から聞く話では、拓也が決して愛情を持って彼女に接しているとは、到底思えなかったからだ。
それから、朝と言うよりは昼に近い時間に、小夜は目を覚ました。
「……今日、学校じゃなかったっけ?」
小夜の第一声は、それだった。
「ここ、どこか分かるか?」
拓也の言葉に、小夜は少しだけ頷いた。
「確か、バイト終わって、はるちゃんと一緒に勉強会して…」
はるちゃん、とはきっと朝方までいた、あの友人のことだ。
「そのあと……そうだ、倒れたんだよね。あのとき、ちょっと…これで、休める、とか思っちゃった」
「頑張り過ぎだ」
拓也はそう言って、手の平で小夜の頭を軽く叩いた。
「あははっ。今の、もしかして、褒められた?」
嬉しそうな表情を隠すように、小夜は布団を鼻先まで引っ張った。
「そんなわけないだろ」
流石の拓也も小夜のそんな表情に、くすぐったいような感覚があり、笑みを浮かべた。
「あっ…」と小夜が声を漏らす。
すると、彼女の瞳から一粒の涙が零れたのだった。
「なんだよ、つらいことでも、あったのか?」
「……そうじゃなくてさ」
くずぐずと鼻の音を立てながら小夜は言う。
「私さ、頭悪いし、どんくさいし…拓也みたいなセンスがあるわけじゃないから、人一倍頑張らないとって思ってさ。毎日毎日、頑張ってやってきたつもりではあったんだけど…やっぱ、できないこととか、分からないことも多くて。本当に、このまま、やっていけるのか不安だった」
涙ながら語る小夜を見て、拓也は彼女がそんな悩みを抱えていたことを、ただ意外だと思うばかりであった。
「だから、必死に何とかしようと思ったんだよ。根性で、体力で、気持ちで補うしかない、って思ってさ。それなのに、倒れるとき…ちょっと休めるとか思っちゃってさ。本当に、ダメだよ、こんなんじゃ。どんなに頑張っても…こんなダメな人間だったら、拓也に、捨てられちゃうよね」
沈黙が生まれた。二人の空間に、小夜がすすり泣く音だけが響く。数秒の沈黙の後、拓也は口を開いた。開かなければならなかった。そして、言わなくてはならないことを言うのだった。
「そんなわけ…ないだろ」
今まで、小夜には発したことのないような、優しい声色で、言わなくてはならないことを言ったのである。この状況、これだけ疲れ果て、癒しを求めている女に対し、どうして別れの言葉をかけられるだろうか。今、彼女に救いの言葉をかけられるのは、他でもなく、自分しかいないのだから。だとしたら、それを果たすしかない。そんな言い訳を頭の中で並べ、彼は嘘を吐いたのだ。
「本当?」
「本当だ」
「そっか……よかった。よかった」
小夜は子供のように、声を出して涙を流し、なかなか泣き止むことはなかった。
このとき、拓也はなぜ小夜が多くの人間から親しまれるのか、少しだけ理解した。彼女のように真っ直ぐな気持ちを持っている人間は珍しい。そんな人間を見ると、どこか自分も素直になれたような気がするのかもしれない。
だから、拓也はその日、ずっと小夜の傍にいた。詩葉から突然、着信があったが、出ることはできなかった。しかし、拓也は知らない。この日が、詩葉の誕生日だったことを。そして、詩葉がどんな気持ちで誕生日を過ごしたのか、ということも。
その代わり、拓也は一時的とは言え、小夜を救うことができたが、それは彼にとって悪い状況に転がったとも言える。ただ単に、別れの言葉を先延ばしにしただけなのだから。そして、拓也はさらに過ちを起こすことになる。それは、この日からすぐ間もなくのことだった。




