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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第二章 児玉拓也
23/61

7

東京に出てから二年目、拓也の生活はそれほど変わっていなかった。学校へ行って、アルバイトがメイン。あとは例の先輩の面倒を見ながら、認めてもらうため、良い顔をする。先輩は学校を卒業をしてしまったが、都内で細々とミュージシャンとして活躍していた。そのため、拓也はそれを手伝うだけで、何となく自分もクリエイティブな立場にるような気がした。


他にあった変化と言えば、先輩のアドバイスで路上ライブを始めたことである。都会の人通りの多い駅のすぐ傍で、ギターを弾く。もちろん、誰も見向きはしてくれない。わざわざ足を止めて、彼の演奏を聴いてくれる人間と言えば、学校帰りの小夜くらいであった。それでも、いつかは誰かが認めてくれる、と彼は信じて、路上に立ち続けた。


そんな日々を送り続けた彼だったが、再び彼の運命が動き出す出来事があった。それはいつものように、路上でギターを鳴らし、誰も耳を傾けてくれないことに卑屈になったり言い訳を並べてみたりと、頭を忙しくさせているときのことだった。


彼のことを誰も見向きしないことを受け入れられず、無機質な路上に視線を落とし、己の実力の無さを頭の中で嘆きながら演奏をしていた。すると、誰かの靴の先が視界に入った。人が足を止め、自分の音楽に向き合っている。しかも、それは女の爪先であることに驚き、思わず視線を上げた。


そこに立っている女は、自分と同世代と思われた。真っ直ぐな黒髪が印象だった。整った顔立ちは、美人とも形容できるし、可愛いとも形容できるだろう。拓也はそんな女が、まさか自分の演奏のために足を止めることが、卑屈にも意外であり、単純に嬉しくも思った。しかし、さらに同時に既視感と言うべきか、女の顔に見覚えがあった。


「ギター、上手になったね」


微笑むその顔は、拓也の記憶の中にある、特別な情景と重なった。夕暮れの教室。誰もいない音楽室。少女の笑顔。彼女が何者か、拓也は確信するのだった。


「う、詩葉…?」


「ちゃんと覚えてた? 誰って言われたら、どうしようかと思っちゃった」


無邪気に笑う彼女は、間違いなく楠木詩葉だった。拓也が失った、逃してしまった、特別な存在である彼女が、再び彼の目の前に。いや、失ったとしても、逃してしまったとしても、再びこのように巡り合えるのだ。自分は特別な星のもとに生まれたのだから。拓也は自分の特別な巡り合わせに感謝した。


いつもなら、あと一時間は歌い続ける拓也だったが、詩葉はこの後に特別な予定がないとのことだったので、すぐに切り上げて二人で食事をした。早速、今は何をしているのか、と質問を投げかけたところ、詩葉はこう返答した。


「普通に、東京の大学に通っているよ」


「独り暮らし?」


「うん、そう」


「そっか…じゃあ、気が楽になったな」


「うん……まぁ、そうかな」


「そうでもないのか?」


「うーん。お父さんからは、資金援助を受けているからね。簡単には切れない関係、って感じ」


「それは…そうだよな」


「拓也は? ギター続けているってことは、ミュージシャンを目指しているの?」


「まぁな。今、プロをやってる先輩の付き人みたいなこともやっててさ。学校通いながら、路上でもやって……取り敢えずはその先輩に認めてもらうことが目標って感じかな」


しかし、その先輩は拓也のギターをまともに聴いてくれたことはない。真面目そうに耳を傾けたのは、二人が出会ったあの日の夜だけなのだ。とは言え、拓也は見栄を張ったわけではないし、嘘を吐いたつもりもない。彼にとっての真実をそのまま口にしただけなのである。


「へぇー、凄いね。夢に向かって、一歩一歩進んでいる、って感じだ」


「それなりにだけどな」


詩葉は頬杖を突いて、横手の窓から外を眺めた。その仕草は、拓也にとっては彼女が何かから目を逸らしたように感じた。例えば、拓也が自分は平凡かもしれない、という不安から目を逸らすように。


「そう言えば、お前は歌はやってないのか? あの合唱祭の歌声…俺は今でも忘れてない」


「やめてよ、恥ずかしい。私は別に歌が好きってわけじゃないし、前みたいに本を読めるような環境があれば、何でもいいんだ」


「大学を卒業したら、どうするつもりなんだ?」


「普通に、どこか一般企業に就職するつもりだよ。田舎に帰るつもりはないから、東京だろうね」


「そっか」


相槌を打ちながら、拓也は内心では、勿体ないと思っていた。これだけ特別な女なのだから、詩葉は間違いなく才能に溢れている。それが、一般企業の事務仕事で終わると言うのだろうか。もちろん、最終的には拓也が築いた家庭に入るのかもしれない。だが、それまでの経緯に、きっと何か輝かしい足跡を残すはずだ。しかし、それが何なのか、今の拓也には何一つ分からなかった。


「また、会えるか?」


別れ際、拓也は詩葉に聞いた。


「会って欲しいなら、会ってあげる」


「何だよ、その言い方。次の土曜だったら?」


「……うーん、無理かな」


「……男か?」


「そうだよ」


拓也の時間が一瞬止まる。だが、詩葉はすぐに笑い出して否定した。


「男って言っても、お父さんだよ。仕事でこっちに来るから、ちょっと食事するだけ。安心した?」


「別にそんなんじゃない」


「あっそ。でも、拓也こそ、彼女がいるんじゃないの?」


「いないよ」


嘘だった。離れたり戻ったりを繰り返しているが、今は小夜という女が確かに拓也の交際相手として存在している。しかし、拓也は嘘を吐いた。詩葉が現れたのだから、小夜には別れるように言えば良い。今までそうだったのだから、簡単なことだ。そう思っていた。


「じゃあね。予定が決まったら、教えて」と詩葉は言って、駅の改札へと消えて行った。


連絡先を交換したばかりの携帯電話を握りしめ、拓也は高揚感を噛みしめていた。


俺は成功する。詩葉が戻ってきたように、夢も、金も、名声も、きっと近いうちに自分のもとへ転がり込んでくるだろう。今日こそ、児玉拓也と言う人間の、逆転劇の始まる日だ。そう確信していた。

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