第1話 最初の仲間が歩かない
スライムは、石の上から動かなかった。
梶原恭次は道の脇へしゃがみ、淡い青の丸い体を見た。幅は両手を並べるくらい。体の下に挟まった枝もなく、周りに血らしいものもない。それでも、行きたい方を向くように伸びては、同じ石へ縮んで戻る。
「けがをしてるのか」
「していません」
声が返ってきた。耳で聞く小さな湿った音へ、意味のある言葉が重なる。恭次は、自分が今朝もらった能力を思い出した。
女神は、魔物交感、と呼んでいた。
前の人生を終えた28歳の元会社員へ、新しい世界で何をしたいか聞いてくれた。恭次は、仲間と旅がしたい、と答えた。女神はこの能力と、当面の旅支度を渡した。言葉は通じるが、命令を聞かせる力ではない、と最後に念を押されている。
布を敷いた空の籠、水筒、少額の金。特別な道具はない。女神と別れて森沿いの道へ降りてから、ようやく最初の魔物へ会ったところだった。
「じゃあ、なぜそこにいるんだ」
「そこから先、土なんです」
恭次は石の周りを見た。町へ続く道は踏み固められているが、舗装はない。昨夜の雨が小さなくぼみに残り、乾いた場所にも細かい砂が載っていた。
「それは、そうだな」
「あそこも土です」
青い体の一部が、反対側へ伸びた。森の中は湿った落葉と土だ。石は、ちょうどその間に1つだけ露出していた。
恭次は水筒へ手をやり、飲み水が必要なのか尋ねた。スライムは体を横へ揺らした。喉が渇いているわけでも、動く力がないわけでもないらしい。
「土が嫌い、ということか」
「体に付くので」
恭次はスライムの足元を見た。石には薄い粘液の筋がある。本人が動くたび、新しい光が少し残った。
「その、出ているものは平気なのか」
「私ですから」
返答は早かった。
「土は、私ではありません」
恭次は膝の上へ両手を置いた。けがをした魔物を助ける場面だと思っていたので、用意した励ましが余った。
「そこまでなら、俺にも分かった。どこへ行きたい?」
「道の向こうの、平たい石へ」
少し先に、もう1つ白っぽい石があった。日が当たり、表面も乾いている。距離は恭次の数歩分だった。
「土の上を、少しだけ通るのは」
「できません、ではなく、したくないんです」
区別は大事らしかった。恭次はうなずき、道の端に落ちた大きな葉を拾った。裏に虫や泥がないか見て、できるだけ乾いたものを並べる。葉の道を作れば、直接土へ触れずに済む。
スライムはしばらく見ていた。恭次が最後の葉を置くと、体を細く伸ばして端へ寄る。
「ここ、隙間があります」
指摘された場所へ葉を足した。
「今度は、こちらの葉の上に土が」
恭次はその葉を払い、もう一度置いた。石の上にいる本人には、目の前の地面がよく見えるらしい。恭次が立ったままなら見逃した細かい粒が、葉の重なりへ載っていた。
「もう少し大きい葉ならいいか」
「それと、端がめくれないように」
風が吹き、いちばん先の葉が裏返った。
恭次はそのまま腰を下ろしかけ、道が濡れているのを見て踏みとどまった。スライムが静かにこちらを見た気がした。
「俺も座る場所は選ぶな」
「はい」
その返事だけは、少しうれしそうだった。
* * *
恭次は空の籠を石の脇へ置いた。
女神にもらった布は、底を守るため畳んである。外側は道へ置いたが、内側はまだ乾いていた。恭次は布の表裏を見て、砂が付いていない面を上へ返す。
「この中ならどうだ。あの石まで、俺が運ぶ」
スライムは籠の縁まで体を伸ばした。すぐには乗らず、布の角を確かめる。
「こちらの、折り目の少ない方へ」
「分かった」
恭次は布を広げ直し、本人が入るのを待った。
青い体が縁へ触れ、ゆっくり形を細くした。籠の隙間へ落ちるかと思ったが、布の上へ乗ると、また丸く広がる。重さは見た目ほどではなかった。
「揺れても大丈夫か」
「急でなければ」
恭次は持ち手を両手で支え、立ち上がった。数歩先の石まで行き、底を寄せる。スライムは移る前に、石の表面を見た。
小鳥がさっき落としたらしい白い汚れがある。
恭次もそれを見た。少し前には、乾いて平たい石にしか見えなかった。
「別の石を探すか」
「できれば、そうしていただけると」
恭次は籠を持ったまま町の方を見た。道の先には門らしい影があり、午前中には着けそうだった。籠を持つ手を替え、本人へ顔を向ける。
「俺はあの町へ行く。そっちは、ここで降りたいのか」
スライムはしばらく黙った。体の端が籠の布を軽く押している。そこから先の気持ちは、恭次には読めない。言葉を聞く力であって、心の中をのぞく力ではなかった。
「町には、石の道があるでしょうか」
「俺も初めて行く。あるか、入り口で聞いてみる」
「では、ご一緒しても?」
恭次は歩きかけた足を止めた。
「一緒に行くのはいい。でも、ずっと俺が運ぶ約束ではないぞ。仕事も、寝る所も、これから探す」
「石の所では、自分で動きます」
「土の所は?」
「そのとき、相談します」
恭次は返答を考え、籠を持ち直した。旅の仲間を探すつもりが、まず運ぶ相談になった。
「名前はあるか」
「呼ばれる名前は、まだ」
恭次は淡い青の奥にある、少し濃い影を見た。澄んだ水へ落とした墨が、薄くほどけたようにも見える。
「スミ、というのはどうだ」
本人はその音を確かめるように、小さく繰り返した。それでいいです、と答える。恭次も自分の名前を伝えた。
「恭次さん」
呼ばれたとき、籠の中へ意識が少し向いた。場所を細かく探る感じではなく、すぐ近くにいる相手が自分を呼んだと分かる。スミも同じように、体をこちらへ寄せた。
「今、分かりました」
「俺にも、少し」
スミは籠の縁へ寄り、町の方を向いた。籠の揺れが収まるのを待っている。
恭次は道を歩き始めた。籠は片手で持てたが、揺れないよう速度を落とす。しばらくすると、スミが町の方を向いて伸びた。
「あちらの道、乾いています」
恭次は水たまりを避け、そちらへ回った。持ち手を支える手へ、泥水が跳ねずに済んだ。
門には〈リネ〉と記され、その脇にギルドの登録窓口を示す板があった。魔物と同行する人は先に申告、とある。恭次は門内へ入らず、脇の石敷きへ籠を置いた。
「ここで降ろすぞ。登録の話を聞いてくる」
スミは石を確かめ、今度は自分から布の外へ出た。淡い青の体が、乾いた石の上でゆっくり丸くなる。
恭次が窓口へ向き直ると、小さな声がした。
「帰りの分も、お願いできますか」
恭次は籠の布を見た。町へ着いたばかりで、帰る場所はまだなかった。




