第三話 錯綜の山(1)
「もしもし、静川です」空木健介の携帯電話から、静川陽子の大きな声が響いた。
静川陽子は、スカイツリー万相談探偵事務所の、病院付き添いサービスのクライアントだった。
「あなたに、以前話したわね。友達のペット探しの仕事のこと」
「あ……、はい。この前病院で静川さんから聞いた話ですよね」
「そう、その友達がペット探しじゃないんだけど、餌をあげていた野良猫のことで、あなたに調べて欲しいことがあると言っているの。引き受けてもらえる?」
「餌をあげている野良猫ですか?飼い猫じゃなくて、ですか?」
「そうなの。私も良く分からないのだけど、その猫が死んじゃったらしいんだけど、それについて調べて欲しいって言っているのよ。引き受けてくれないかしら」
「仕事の内容が良く分からないので、電話では何とも言えません。一度、そのお友達とお会いして、直接話を聞いてから、引き受けるかどうか決めたいと思いますが、どうでしょう?」
「それでいいわ。キミちゃんに連絡しておくから、明日にでも会いに行ってちょうだい」
「明日ですか」
「都合悪いの?」
「いいえ、大丈夫です」
静川陽子は、友達の(キミちゃん)こと、林田喜美子の住所と電話番号を空木に伝えた。
林田喜美子の住まいは、小金井市桜町三丁目だった。東京都を東西に走る街道の一つ、五日市街道に近く、都立小金井公園の直ぐ南側の一戸建てで、一人住まいだった。
空木は、指定された午後二時ちょうどに玄関のドアフォンを押した。
ドアを開けて出てきた林田喜美子は、いきなりスマホを空木に向けて言った。
「空木さんに間違いないと思うけど、ごめんなさいね」とシャッターを押した。
唖然としている空木に、喜美子は家に入るように促した。
お茶を空木の前のテーブルに置いた喜美子は、空木の向かい側に座った。
「ごめんなさいね。いきなり写真なんか撮って。実は最近、私、特殊詐欺にあってお金取られちゃったんですよ。それで、初対面の人と会う時はカメラに撮っておくことにしたんです。すみませんね」
「そういうことだったんですか。それにしても、いきなりなのでびっくりしました」
空木はそう言うと、改めて名刺を喜美子に渡して挨拶した。
特殊詐欺について話を聞きたかったが、初対面の訪問者に、カメラを向ける程の対策を考えたということは、よほど悔しい思いをしたということだろうと考えると、それを思い出させることは止めておくことにした。
「陽子とは、高校からの友達、親友なの。空木さんのことは、陽子から聞いています。今回は引き受けていただいてありがとうございます」
喜美子は、空木の名刺に目を落として言った。
「え、いや、まだ引き受けた訳では……」
静川陽子と同じ様に、喜美子も耳が遠いのか空木の話が聞こえていないようだった。
「詳しくお話をすると、先週の初めまで元気だった三匹の猫ちゃんたちが、家に来なくなったと思ったら、直ぐ近くの小金井公園の隅っこで死んでいたの。三匹とも。それで保健所に連絡して来てもらったんだけど、三匹とも一度に死ぬというのは不思議だって言うんです」
「不思議?」
喜美子の話を聞いていた空木は、何週間か前、小金井公園で見かけた猫たちを思い出していた。あの猫たちのことだろうかと。
「食べたら死ぬような物を、三匹一緒に食べたんじゃないかって言うんです。誰か、猫いらずのような毒性の強い物を置いたのかも知れないって言うんです」
「誰かが毒物を置いた。そしてそれを三匹が食べてしまった、ということ……。それで」
「それで警察に連絡したんです。動物虐待で調べて欲しいって言ったんですけど、毒物が残っていないと調べられないと言われてしまって……」
「それで静川さんに相談した結果、私に調べて欲しいという訳ですか」
「私は、誰かが毒物を置いたに違いないと思うの。野良の猫だって、好きで野良になった訳じゃなくて、人間の所為なんだから、それなりに大事にしてあげなきゃ可哀そうでしょ」
「その猫たちは、毎日林田さんの家に餌をもらいに来ていたんですか」
「二カ月ぐらい前から三匹が来るようになったのね。どこかの飼い猫が散歩に来たんだと思って餌やり始めたら、毎日来るようになったんだけど、一か月ぐらい前からは来たり来なかったりになったのよ。おかしいなと思っていたら、他の人が夕方公園で餌をあげていたの。男の人だったけど、あの男がやったのかも知れないわ」
「その男の人というのは?」
「どこの誰なのか知らないけど、六十代か七十代じゃないかしら、私より少しだけ若い感じだったわ。仕事していないみたいで、よく散歩に来ている感じ。お皿も持って来ていてミルクやキャットフードをあげていたの」
空木は、西に傾き始めた陽の中を、レジ袋を提げて歩く初老の男を思い浮かべていた。それは、土田嘉英の姿のように見えた。
「……その男とは、何か話しましたか?」
「話をしたっていうほどじゃないけど、この猫たちは、家に毎日来ていたけど、最近は時々しか来なくなったのは、ここで餌を貰っていたのねって言ったら、凄い顔で私を睨んだのよ。それで、この猫は、あんたが飼っているのかって聞くから、違うって言ったら、じゃあ俺が餌をやっても良いんだなって言ったの。何か感じ悪かったのよ。きっとあの男が毒の入った餌をやったのよ」
「……林田さん、こんな事を言っては何ですが、その時二人で、捨て猫や捨て犬を保護してくれる動物保護団体に連絡しようという話はしなかったんですか。林田さんもその男性も、野良猫を可哀そうだと思っていたんですから」
「……あなたの言う通りだと思うわ。そうしてあげれば、あの猫ちゃんたちも死ぬことはなかったわよね。……でも空木さん、あなたには分からないと思うけど、私のような、子供たちが独立して、そして夫に先立たれた一人暮らしの年寄りは、寂しいものなの。誰かの役に立っているとか、誰かに頼られるとかが、凄く嬉しいの。そうかと言ってあの猫ちゃんを責任を持って飼う勇気もなくて、だから、誰かが保護したりするまでは、あのままの野良にしておきたかったんだと思う。私の我が儘よね」
寂しそうに話す喜美子を見て、空木は、一人暮らしの高齢者の心情を、無視したかのような聞き方をしたことを悔いた。あと何年かして、空木の両親のどちらかが一人になった時、独身の自分はその気持ちを理解することが出来る人間になっているのだろうか、と考えさせられもした。
「その男の人も同じ思いなのかも知れませんね」
「そうかしら……、何にしても、あの猫ちゃんたちの供養のためにも、誰があんなことをしたのか調べて欲しいんです。お願いします」
林田喜美子の家を出た空木は、バイクを西に走らせ、小金井街道を北に折れ、百五十メートルほど走って左折し住宅街に入った。
西に傾いた太陽が眩しかった。空木がここに来るのは二度目だった。一度目は、北多摩総合病院でクレームを言っていた土田嘉英が、自分への嫌がらせで車に傷をつけたのではないかと疑って、土田の自宅まで来た。何の偶然なのか、二度目の今日も、土田嘉英の自宅に、ある疑いを抱きながら来ることになった。
玄関の周りには、相変わらず色々なゴミが詰め込まれたビニール袋が散乱し、以前と変わらず指定日に出すよう注意の紙が貼られていた。やはり一人暮らしなのだろうと思う空木だったが、公園で野良猫に優しくミルクを与えていた土田が、毒物であの猫たちを殺したりするのだろうか、とも思いながらゴミの入った袋を見つめていた。
時計は四時半を回っていた。一度目にここに来た時のこの時間には、小金井公園を歩く土田の後ろを歩いていたように思う。土田は今日も公園を歩いているのだろうか。来た道を戻る空木の目に、見覚えのある男が見えた。土田嘉英だった。すれ違った土田の手にレジ袋は無かった。野良猫がいなくなったからだろうと空木は推測した。土田は、猫がいなくなったことを、死んだことをいつ知ったのか、空木は知りたかった。
その日の夜、空木は国立駅北口から歩いて五分にある『平寿司』の暖簾をくぐった。
成り行きからとは言え、野良猫虐待の調査を引き受けた空木は、調査の進め方をこの寿司屋のカウンターで考えることにした。それは、新しい仕事を受けた時の決まり事のようでもあった。
女将と女性店員の坂井良子の「いらっしゃいませ」の声に迎えられた空木は、鉄火巻きと烏賊刺しを注文し、ビールを一気に飲んだ。
「女将さん、野良猫三匹が一度に死んだんだけど、誰かが毒物を食べさせたみたいなんだ。そんなことをする理由って想像つきますか」
「えー、そんな酷いこと……。それって動物何とか法で犯罪でしょう。そんなことをする人がいるんですか」
「いるみたいなんだよ」
「よほど野良猫が嫌いなんでしょうけど、殺すまでするかしら。昔ニュースで、面白半分でやったという人がいたのを聞いたことがあるけど、殺したいほどの恨みでもないと、そんなこと出来ないわよ」
「………」
土田にそんな恨みがあったのだろうか。あったのならもっと早くに殺しても良い筈だ。ましてや面白半分であの猫たちを毒殺するとは思えないが…。
林田喜美子の推測通り、土田がやったことなのだろうか。犯人は別にいるのではないだろうか。だとしたら誰だろう。小金井公園のあの野良猫たちの存在を知っていて、あそこで土田が餌やりをしていることを知っていた人間ということだ。そうでなければ野良猫だけを殺すことは出来ない筈だ。ペットの無差別毒殺が目的なら、毒物を置く場所は何処においても良いし、三匹の猫以外にも死ぬ動物が出て来た筈だ。
とにかく、土田以外にあの場所に良く来ていて、猫の存在を知っていた人間がいなかったのかどうかを調べる必要がある。必要はあるが、どうやって調べるか、警察の捜査なら多人数で聞き込みという方法を取るだろうが、探偵一人で調べる方法は、空木には一つしか思い浮かばなかった。
しかし、土田を含め、毒物を置いた可能性のある人間が浮かんだとしても、そこから先が問題だ。毒物を置いた、もしくは食べさせたという証拠を見つけられるのか、だ。空木は、行き掛かりとは言え、この仕事を引き受けたのは無責任だったかも知れないと思いながら、芋焼酎の水割りを作って飲んだ。
店の玄関の引き戸が、開いて客が一人顔を覗かせた。その客は、小谷原幸男と言った。
空木を見て「空木さん来ていたんですか」と声を掛け、空木の隣に座った。
小谷原幸男は京浜薬品に勤務していた。空木が前職の万永製薬札幌支店に勤務していた頃からの友人で、空木が退職して国分寺市で探偵業を始めて直ぐに、後を追うかのように、京浜薬品多摩営業所に異動となり、国立市に家族と共に引っ越してきた。そして、一年後、所長に昇進した。年齢は、空木より三歳上の四十八歳だった。
「小谷原さん、ちょうど良かったです。連絡しようと思っていたんです。今度の雲取山なんですが、今の仕事が万が一長引いたらドタキャンになるかも知れないんです。すみませんが、その時は勘弁してください」
「全く構いませんが、空木さんとの山行は、北海道以来で楽しみなんですけどね、出来ることなら仕事が片付くといいですね」
「ええ、ドタキャンにならないように頑張ります。いずれにしても、また連絡します」
空木は、調査を引き受けた今日の今、小谷原との山行予定の十月二十日までにこの調査を終わらせる自信は全くなかった。
翌日の午後三時前、空木はミニバイクを林田喜美子の自宅近くの小金井公園の住民用出入口付近に停め、以前、土田嘉英が野良猫たちにミルクを与えていた辺りを、手掛かりがないか丹念に歩いてみた。手掛かりらしい物は何も見当たらず、土壌や草の変色なども見つからなかった。
午後三時半を過ぎた。今の季節の日の入りは五時二十分あたりだろうか、山登りを趣味にする空木には大体の予測はついた。その頃まで、人通りの観察をしようと、空木は近くのベンチに座った。えんじ色のブルゾンを着た空木を、気に留めて振り返るような人間はいなかった。
公園を東西に横断する大通りを、犬を連れて散歩する人、往来する人々は多かったが、SL機関車が置かれている方向への小道を歩く人はいなかった。暫くすると、自転車に乗った五十過ぎと思しき年齢の主婦が、公園に入って来て西へ向かって行き、三十分程して戻ってきた。帰りの自転車の前かごには買い物袋が乗っていた。買い物の往復だったようだ。
日が暮れかかった頃、見覚えのある顔の男が、空木の十メートルほど先の大通りを東から西へ歩いて行った。土田嘉英だった。一か月ぶりに見る顔だったが、間違いなく土田だった。今日も散歩をしているようだったが、以前とは違ってSL機関車方向への小道には入らず、レジ袋らしきビニール袋も下げてはいなかった。
翌日も、空木は同じ時間、同じ場所に座って観察した。小道には誰も通らなかった。買い物の主婦も、通ることはなく。今日は、大通りを土田が通ることもなかった。土田は、毎日同じ時間に歩いている訳ではないのかも知れないと空木は思った。
三日目となった金曜日も、空木は同じ時間、同じ場所で座った。今日も小道を歩く人はいなかったが、一昨日自転車で買い物の往復をしていた主婦が、一昨日と同じような時間に小道を自転車で公園に入ってきた。この主婦は、一日置きに買い物に出かけているのだろうかと空木は想像した。三十分程して、自転車の主婦が、西から戻ってきた。前かごには買い物袋が乗っていた。空木は立ち上がって声を掛けた。
突然、見知らぬ男の空木から呼び止められた主婦は、驚いた様子で自転車を停めた。
空木は、突然呼び止めたことを詫びて、以前この辺りで、三匹の猫をよく見かけたが、どうなったか知っているか尋ねた。
怪訝な顔をする主婦に、空木は動物愛護協会から依頼されてきた調査員だと取り繕った。頷いた主婦は、先週の金曜日には見かけたが、今週に入ってからは月曜も水曜も今日も見かけない、どうしたんだろうと辺りを見廻した。
主婦は三匹が死んだことは知らないようだった。さらに主婦は、年配の男性が、時々その猫たちに餌をあげているのを見たことがある、とも話した。その男性以外に餌をあげている人は見たことはないと言って、その男性に聞けば何か知っているかも知れないが、どこの誰なのかは分からないと話した。
礼を言って、空木はベンチに戻った。やはり土田だ。何故、土田は猫たちを殺したのか、一体何を食べさせたのか。あのミルクの中に、何かを混ぜたのだろうか。考えている空木の目の前を、一昨日同様、見覚えのある男が通り過ぎた。土田だった。その瞬間、空木はここで土田に問い質そうか、頭を巡らせた。しかし、何を問うのか、野良猫に毒を食べさせたのはあなたなのかと聞いて、そうだと答えるとはとても思えない。土田の周辺をもう少し調べてからでも、その問い詰めは遅くはない。そう決めた空木は、土田の数十メートル後ろを歩いた。
土田嘉英が、自宅に入ったことを確認した空木は、付近の住民に見られたら通報されるだろうと思いながら、土田の家を周りから覗くように眺め、様子を窺った。
隣家との間から庭が見えた。煉瓦で囲まれた花壇のような物も見えたが、ここからは花らしき物は見えなかった。
玄関に回って、改めていくつも散らばっているゴミの袋を覗いた。中にはペットボトルや使い捨ての紙皿、カップ麺の容器が詰め込まれていた。以前来た時と同じ様に、袋には指定日に出すように、とか分別ゴミでお出しください、とかの貼り紙がされていたが、ゴミの袋の数は、以前から増えているようには思えなかった。土田はゴミ屋敷にならないように努力しているのだろうか、と眺めていると、隣家のドアが開き、その家の主婦らしき女性が、今から出かけるのか、姿を見せた。
空木は、「こんにちは」と挨拶した。そして、ゆっくり近づいて、今度は新聞販売店の営業だと取り繕って、土田家には奥様はいるのか、尋ねた。えんじ色のブルゾン姿の空木を見た主婦は、なるほどという顔をした。
主婦は、土田は一人暮らしだと言って、土田家に目をやった。
「ゴミも溜まっているのでそうかな、とは思いましたが、ありがとうございました。奥様はお亡くなりになったんですね……」
空木は残念そうに、お悔やみでも言うような神妙な顔つきをした。
「……いえ、亡くなられた訳ではないと思いますよ」
「ああ、ご病気で入院とかされているんですか」
「……いえ、そうではなくて、言い難いことです」
「言い難い……、もしかしたら出て行かれた。離婚されたんですか」
「……」主婦は黙った。
「他にご家族は?」
「嫁がれたお嬢さんが、時々来ていたようですけど、最近はあまり……」
空木は、呼び止めてしまったことを詫び、礼を言ってその場を離れた。
時刻は五時二十分を示していた。
空木の背中で、ドアの開く音がした。振り返ると土田が出かけるところだった。
土田は、薄手の紺色のウィンドヤッケを着て、小型のリュックサックを背負って、空木のいる方向とは逆の南方向へ歩き始めた。
土田は、五日市街道に出ると、玉川上水沿いを東に向かい、小金井街道に出ると右に折れて武蔵小金井駅方向に向かった。しばらく歩くと土田は、左に折れた。空木は、土田の二十メートルほど後ろを歩いたが、土田の足は速かった。
土田は、道路の右にある建物に入った。そこは、小金井市公民館本館だった。小平市に住む土田が、小金井市の公民館に何の用件なのか、空木は後を追って公民館に入った。
玄関に入ると、正面の掲示板に、三つの会議室で開かれる会議の名称が書かれていた。空木の目に留まったのは、B会議室で開かれる『中央線山歩の会、十月定例会』だった。その会議の名称から、山歩きの同好会をイメージした空木は、土田は山登りを趣味にしているのではないかと推測した。そうであれば、土田の服装と歩く速度には納得出来ると。
B会議室を覗いた空木は、土田の姿を確認した。メンバーはまだ数人集まっているだけだった。この会のメンバーに、土田について話を聞きたいという思いも湧いたが、この会の山仲間が、土田が毒物を持っているとか、使ったとかの情報を持っているとも思えなかった。
空木は公民館を出た。




