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錯綜の山(2)

 空木は、小谷原とともに奥多摩駅からのバスで、雲取山への登山口のバス停になる鴨沢(かもさわ)で下車し、快晴の空の下、登り始めた。他にハイカーはいなかった。

 空木が林田喜美子から依頼された調査の報告は、公園で猫たちに餌を与えていた人物については、土田嘉英と特定出来たが、その土田嘉英が毒物を与えたのかどうかは、調べることが出来なかったと説明し、空木は一旦調査終了を申し出た。喜美子は不満そうだったが、その人物の名前が分かっただけでも、空木に依頼した甲斐があったと納得し、調査終了を承諾した。

 結果、空木は十月二十日からの雲取山山行に小谷原とともに来ることが出来た。

 二人はバス停をスタートして、三時間余りで七ツ石山の頂上(1757メートル)に着いた。この辺りは紅葉というより黄葉、黄色が多く赤色が無いのは残念だと二人は話したが、今がその盛りではあった。

 昼食を食べ終わった頃、一人の若い男が登ってきた。空木たちの乗ったバスの、次のバスで来たのだろうかとその男を見ていると、同じように思ったのだろう小谷原が、「車ですか?」と尋ねた。

若い男は、「いいえ、バスです」と答えた。

「そう、若いだけあって速いね」

空木の言葉は聞こえなかったのか、若い男は黙ってザックから取り出したコンビニのおにぎりを食べ始めた。

 空木は、七ツ石山の山頂から南に望む、富士山、北にこれから目指す雲取山、そして七ツ石山と書かれた石塔それぞれをスマホの写真に収め出発した。

 急坂を十五分程下ると、再び上り坂が始まる。明るい防火帯の尾根道を四十分登ると、今は廃棄小屋となった奥多摩小屋跡に着いた。

 二人が、休んでいる間に、七ツ石山で一緒になった若い男が、登ってきた。そのまま、男は小さく会釈をして二人を抜いて行った。

 黄色く染まったブナとカラマツ林の山腹を、三十分程登ると小雲取山、さらに三十分急坂を喘いで雲取山山頂に着いた。

 避難小屋は、山頂直下に建っていた。重い引き戸の扉を開けると、七ツ石山で一緒になった若い男が、既にシュラフを広げていた。空木たちも登山靴を脱ぎ、ザックを降ろした。

 標高2017メートルの雲取山は、東京都、埼玉県、山梨県の境界位置し、東京都の最高峰の山として、深田久弥の日本百名山に数えられている。

 好天に恵まれた今日の山頂は、富士山、南アルプス、奥秩父の山並みと、素晴らしい眺望を見せていた。

 空木と小谷原は、先着していた若い男と一緒になり、その眺望を陽が沈むまで眺めていた。

 空木が山登りの趣味にハマったのは、きつい上りの後に出会うこの眺望が大きな理由だった。苦しい上りで喘いでいる時に、頭が何も考えていない空っぽの瞬間も、山に登る理由にあげてはいたが、それは、見事な眺望に勝るものではなかった。その証拠に雨の中を登りたいとは思ったことは無かった。

 そこにいつの間にか、若い男女のペアが、空木たちとともにその眺望を感嘆する列に加わっていた。


 十人ほどを収容出来る避難小屋で、入口に近いところに若い単独行の男が、真ん中に空木と小谷原が、そして左手奥に若い男女のペアが、それぞれシュラフを広げ、夕食の準備をしていた。男女のペアはランタンを灯した。

 小谷原が、少し離れたところでラーメンを作っている若い男に話しかけていた。右隣に陣取る男女のペアの話に聞き耳を立てていた空木には、小谷原たちの話は細切れでしか聞こえなかったが、どこから来たのか、どこへ向かうのかを話しているようだった。

 男女のペアは、パスタ料理を作っているようだった。バターたっぷりのクリームソースのいい香りが空木の食欲をそそった。二人は、お互いの会社の話をしているようだったが、その会社名らしき名前が耳に入った空木は、思わず話しかけたい衝動にかられた。

「……お話し中、口を挿んで申し訳ないのですが……」

空木の話しかけに、二人は「はい」と顔を向けた。

「今、言われた『まんえい』というのは、製薬会社の(まん)(えい)製薬(せいやく)のことでしょうか?」

 二人は顔を見合わせた。

「はい、そうですが……」若い男の方が応え、顔を向けた、

「二人とも?」

空木は女性の方に目をやった。女性は「いいえ」と首を振った。

「盗み聞きをしたつもりはなかったんですが、『まんえい』というのが聞こえたので、つい黙っていられなくなってしまいました。実は、私は万永製薬に四年前まで勤めていたOBなんです」

「へー、こんなところでOBの方にお会いするとは……」空木の話に、男は一瞬固まった。

 男は、思い出したかのようにザックの中をまさぐり、「あった」と呟いて、一枚の名刺を空木に渡し、「万永製薬東京支店城北営業所の東村(ひがしむら)(ゆう)(へい)です」と自己紹介した。

空木もザックの雨蓋のファスナーを開けて、財布の中から名刺を取り出し渡した。

「探偵事務所の所長さんですか……」

空木は次の言葉が予想できた。

「珍しい職業ですね」

予想通りだった。

 空木と東村は、お互いに明日の行程の話をした。東村と同行の女性は、奥秩父主脈縦走路を()龍山(りゅうさん)から(かさ)(とり)小屋へ向かって、そこで一泊。明日の日曜日に笠取山をピストン山行して雁峠から西沢渓谷に下山する予定だと話した。

 空木は、自分たちは、飛龍山からサヲラ峠に下り、丹波山村に下りるつもりでいると話した。


 翌朝、六時前の日の出時間に合わせて、空木たちと東村優平と同行の女性の四人は、雲取山の山頂に再び立った。

 山頂から北に続く山道を三十分のところにある雲取山荘に宿泊したという、年配の男性一人、女性三人の四人パーティーも日の出の山頂にいた。四人は、昨日埼玉県側の三峯神社から、七時間近くかけて登り、小屋に宿泊したと言い、この後、石尾根縦走路を七時間かけて奥多摩駅に下るとのことだった。

 東村優平と同行の女性が、四人パーティーの中の一人の女性に、埼玉県側から登ってきた人は他にいたのか、尋ねた。訊かれた女性は、仲間に確認するように声を掛け、二人組の男性がいたと答えた。そして、その二人は、山荘近くで日の出を見てから、山荘を出発すると

言っていた、とも話した。

 その時「出てきましたね」と小谷原が囁いた。

 東の空から眩しい光の筋が無数に放たれた。日の出だ。富士山はモルゲンロートに染まり始めた。誰も言葉を発しなかった。年配の四人パーティーは揃って手を合わせていた。

 小屋に戻った四人は、朝食の準備をした。

 若い男は、既に朝食を済ませたらしく、シュラフを畳み出発の準備に入っていた。暫くすると、男は、「お先に」と呟くように言って、小屋を出て行った。小谷原の「気を付けて」の言葉に応えることはなかった。

 東村と同行の女性の二人は、朝食を食べると、慌ただしく後片づけをした上で、ザックを置いたまま小屋を出た。

 朝食を済ませた空木が、煙草を手に小屋を出ると、東村たちは再び頂上にいた。数メートル離れたところに、二人の男性登山者が、南の富士山の方角を向いて何か話しているようだった。空木の距離からは二人の顔も年恰好も分からなかったが、スマホを取り出し写真を撮り合っていた。東村が「お撮りしましょうか」と近付いた。「お願いします」と一人の男性がスマホを東村に渡した。東村と同行の女性は、その東村の姿をスマホの写真に収めているようだった。

 小屋に戻ってきた東村たちは、ザックにパッキングを始めた。

 女性が「あの人が、お父さんの上司だった人なんや」と独り言のように呟くのが、空木には聞こえた。

 パッキングを済ませた東村は、「ゆっくり後ろを歩いて行こう」と女性に声を掛けた。そして、空木たちにも「お先に失礼します。先輩、お気をつけて」と声を掛けて小屋を出発して行った。

 東村たちが出発しておよそ二十分後、空木と小谷原は、備え付けの箒で小屋を掃除した。そして、雲取山山頂から西へ伸びる奥秩父縦走路を歩き始めた。


 頂上からのガレ道の急坂を三十分程下って、三条の湯の小屋への分岐に着く。この分岐を左に下れば二時間余りで、湯に浸かることが出来る山小屋、三条の湯に行くことが出来るが、空木たちは、分岐を真っ直ぐ西に歩く。コメツガ、黄葉したカラマツの樹林の中を、およそ四十分で明るく開けた(おおかみ)(だいら)と呼ばれる草原を過ぎる。さらに狼平から縦走路を二時間弱歩くと、北天(ほくてん)のタルと呼ばれる三条の湯から登って来る道との合流分岐点だ。ここから、一時間余りで、次の目的地の飛龍山(2077メートル)に着くが、二人は北天のタルで少し長い休憩を取った。

 空木は、ザックの雨蓋のファスナーを開けて、チョコを取り出そうとした時、中から財布が滑り落ちた。何気なく財布を開けて見た空木は「あれ、おかしいな」と呟いた。呟きが小谷原の耳に届いた。

「どうしたんですか」と小谷原が反応した。

「おかしいんです。財布の中に千円札しか入っていないんです。確か家を出る時には、一万円札が三枚入っていた筈なんです」

「……間違いないんですか」

「間違いないです。三万円無くなっています……」

 小谷原がウエストポーチから二つ折りの財布を取り出して、中を確認した。

「私のお金はあります。……空木さん、盗られたかも知れませんね」

「………」空木は言葉が直ぐには出てこなかった。

「……まさかですが、私の隣にいたあの若い男かも知れない」小谷原の眉間に皺が寄った。

 間違いなく財布の中には、一万円札が三枚入っていた。金銭に細かい訳ではないが、貧乏探偵の空木にとっては、一万円は大事な金であり、普段から何枚かしか持っていないし、持っている時は、何枚入っているのか覚えているような枚数しか持ち合わせていない。昨日の夜までは、間違いなく入っていた。財布の中から名刺を取り出して東村に渡した時には、万札は間違いなく存在していた。それが一枚も無いとは。

「空木さん、昨日の夜には入っていたんですか」

「ええ、今も思い出していたんですが、万永製薬の後輩に名刺を渡した時にはありました」

「名刺?」

「はい、僕は財布の中に名刺を入れているんです」

「……空木さん、もしかしたらその時、あの男は、空木さんが財布をザックに入れるところを見たんじゃないでしょうか。それで狙っていたのかも知れませんね」

「……狙っていた……。だとしたら朝しかないですね」

 日の出の眺めを山頂に見に行っていた時間は、空木たちも東村たちも小屋にはいなかった。あの若い男一人だった。しかもザックは置いたままだった。自分が昨晩財布をザックの雨蓋の中に入れるところを見ていたら、盗るのは容易(たやす)かっただろう。自分たち四人がいつ戻ってくるのか分からない状況では、自分以外のザックの中を捜すのはリスクが高いと考えただろうし、そもそも自分以外の人たちは、財布は身に着けているのが普通だろうとも空木は想像した。何とも隙の多い、情けない探偵だと、天を仰いだ。

 今から思えば、あの男が、小屋を早立ちしたのも、空木が財布の中身を確認する前に出たかったのだろう、と言うより、逃げたかったのだ。

「追いかけますか。あの男、今日は雁峠の避難小屋に泊るつもりだと言っていましたから、今日中に追いつけますよ」

 やはり昨日の小屋で、小谷原はあの男と、どこへ行くのか、どこまで行くのか、そんな話をしていたのだ、と空木は改めて知った。

 小谷原は、あの男の名前までは聞かなかったが、池袋の専門学校でアニメーションを勉強していて、山梨の実家にこのまま帰省するつもりで来たらしいと言い、高校時代は山岳部に入っていて、この縦走路は三回目だと言っていたとも話した。

「ここから雁峠までは、七時間近くかかりますよね。雁峠の避難小屋に泊れば追いつくでしょうが、金を盗んだ人間が、追われる立場の人間が予定通りの行動をとるのか疑問ですよ。それと、仮に追いついたとしても、自分はそんなことはしていないと言われれば、それ以上はどうにも出来ないでしょう。状況証拠しかないですからね。お札に名前でも書いておけば良かったんでしょうけど、さすがにそんなことをする人間はいませんよね。まあ、帰りの電車代のつもりなのか、千円札だけでも残してあるのが救いだと思って、諦めるしかないですね。悔しいですけど」

 小谷原とのやり取りで、気持ちが落ち着いてきた空木は、取り出したチョコレートをひとかけら口に入れ、小谷原にもチョコレートを渡した。

「折角の山行が台無しですから悔しいですね。こんな悪い事をする人間には見えませんでしたが、人間は見た目だけでは分からないということですね」

「残念ながら、山をやる人間にも悪い奴はいるということですね」

 空木は生まれ持っての悪人はいないと思っている。その思いは今の今も変わることはない。人生の中で、悪の誘惑に(あらが)えない瞬間、魔が差す瞬間があって、その手を汚してしまっても、その後、償いの気持ちを持って人生を生きようとすれば、それは悪人ではないと言えると思っている。人生を『()く生きる』という言葉が空木は好きだ。あの若者も、一瞬の誘惑に負けたとしたら、どこかで償いの気持ちを持って生きて欲しいと願った。たかが三万円であっても、されど三万円、大事な金なんだぞ、と伝えたかった。


 二人は飛龍山に向けて再び歩き始めた。三十分ほど歩いて、何本目かの桟道に差し掛かった時、木造りの桟道の手前に、黒いザックが投げ捨てられるように置かれていた。大きさは四十リットル用に見えた。

 最初に見つけたのは先頭を歩く空木だった。空木は不自然なザックの置かれた方に、「ザックですよ……」と小谷原に声を掛け、持ち主がいる筈の周りを見廻した。縦走路の右は灌木が茂った斜面で、左側は同様の急斜面で、人の姿はなかった。

 桟道は崩れかかった登山道に5メートルほどの長さで渡されていた。空木はゆっくりその桟道に足を運び、左下に目をやった。

「……小谷原さん、えらいことですよ。人が落ちていますよ」と空木は指差した。空木の慌てた声に小谷原も「なに!」と反応した。そこには、一人の六十代ぐらいと思われる男性が、七、八メートルほど下の灌木に引っ掛かるように倒れていた。空木が声を掛けても反応は無かった。

「まずいです!降りますか」と小谷原は眼鏡をかけ直した。

「小谷原さんザイルを持っていますか?」と顔を向けた空木に、小谷原は首を左右に振った。

「とにかく、僕が状態を確認しに降りてみますから。小谷原さん、携帯が繋がるか確認してください」

 空木は、ザックを降ろして、急斜面を灌木の幹につかまりながら、慎重に倒れている男性に近付いた。空木は再び大声で「大丈夫ですか」と声を掛けたが、反応は全く無かった。そして、外傷や出血がないかさらに近付くと、異臭が空木の鼻を突いた。それは男性が失禁した糞便の臭いだった。空木は、その男性の鼻先に指をあててみたが、その指に息は感じなかった。死んでいるかも。

「小谷原さん、息をしていないみたいです」空木は、登山道にいる小谷原に向けて叫んだ。

 この男性をここから引き上げるのは、ザイルもない状態で、空木と小谷原の二人ではとても出来そうもないと、空木は急斜面を見上げた。

「それにしても、よくここで止まったな」と呟いた空木は、男性が止まっている灌木の幹から下を見た。同時に、幸いにもここで止まったのに、失禁して息もしていない状態ということが、空木には不思議にも思えた。

 這い上がるように登山道に戻った空木は、転落している男性の物と思える黒いザックを、持ち上げてみた。ザックの下には、嘔吐したような跡が残されていた。

 空木の時計は、小屋を出てから三時間二十分経過した十時二十五分を示していた。


 小谷原が桟道の向こうから小走りで戻ってきた。

「電波が立たない。どうしますか、前飛(まえひ)龍山(りゅうさん)の尾根筋まで出れば繋がるかも知れないですが……」と小谷原は言うと、急斜面の下の男を見つめた。

「……そこで繋がれば良いですけど、繋がらなかったら、丹波山村(たばやまむら)に下りるまで救助要請出来ないかも知れないですよ。下りるまでの途中、何処かで繋がるかも知れませんが……。三条の湯まで下りるのが確実で早くはないですか」

 小谷原がスマホを取り出して、地図アプリを画面に開いた。

「私たち二人の足なら、三条の湯まで二時間弱で着けますね。そうしましょう」

 二人は三条の湯まで下りると決めた。

「空木さん、このザックはどうしますか。落ちた人のザックだと思いますが、このままにしておきますか」

「……ほっといたら動物に荒らされるかも知れませんね。どうしましょうか」

「ザックの持ち主が確認できる物が入っているか見ておいて、写真に撮っておいたらどうでしょう」

 空木は、「そうしましょう」と言ってザックの雨蓋を開けた。中には、バーナーやコッヘルといった用具、袋ラーメン、着替え、ゴミ袋が詰められていた。雨蓋のファスナーを開けるとスマホがあった。それとともに二つ折りの財布があった。それらをスマホのカメラに収めた空木は、財布を開いた。

「健康保険証がありました。これも撮っておきましょう」

 財布を小谷原に渡し、空木は保険証をスマホのカメラに収めた。保険証の持ち主は、佐原(さはら)(ひろし)六十五歳とあった。住所は東京都世田谷区(きぬた)と書かれていた。そして、保険組合の名前を見た空木は、小谷原に声を掛けた。

「この人、小谷原さんの同業者ですよ。東亜製薬健康保険組合です」

 空木は、東亜製薬という社名を見て、先月起こった北多摩総合病院の駐車場の事件に端を発した、殺人事件のことを思い出していた。東亜製薬の社員が関わった事件であり、今また東亜製薬の人間に関わることに、気味の悪さを伴った因縁を感じていた。

「同業者ですか……」と囁いた小谷原は、渡された財布を覗いていた。

「空木さん、この財布、空木さんと同じですよ。千円札しか入っていませんよ」と財布を空木に見せ、戻した。

 今は、現金を持たずに、キャッスレスでほとんど決済出来るが、山小屋はまだまだ現金が必要だ。しかも、六十五歳の佐原浩の年齢からすると、千円札しか入っていない財布というのは、極めて不自然なことだと空木には思えた。もしかしたら。

「小屋で一緒だったあの若い男は、ここを通ったんでしょうか」

空木は財布をザックに戻して言った。

「通っている筈ですね。……あの男が、また抜き取ったかも知れないということですか。転落している人間のザックから金を盗んで逃げたということですか」

「分かりませんが……」

「そういうことでは、万永製薬の空木さんの後輩という二人連れも、ここを通っている筈ですね」

「確かにそうですね。あの二人が通報してくれているかも知れませんが、北天のタルからここまですれ違わなかったことから考えると、三条の湯には向かっていないでしょう。それに、もし通報出来ていたら、救助隊は林道を使って三条の湯を経由して登って来るでしょうから、僕たちはいずれにしても三条の湯に向かう方が良いですよ」

 二人はザックを背負って、歩いてきた縦走路を引き返し、休憩を取った北天のタルの分岐を、三条の湯に走るように下った。


 小谷原は、下りる途中、何回か足を止めてスマホを手にしたが、繋がることはなかった。

 二人は、コースタイムの半分ほどの時間で三条の湯の小屋に着いた。小屋の主人に事情を説明した二人は、佐原浩と思われる転落者の救助要請を依頼した上で、転落者が嘔吐とともに失禁していた状況から救助隊に加えて警察の同行も必要だと進言した。

 小屋を後にした空木たちは、下山途中の林道で、サイレンを鳴らして登って来る緊急車両とすれ違った。静かな谷間に、けたたましいサイレン程不釣り合いなものはないと思いながら、二人は山側に体を寄せて道を空けた。

 二人の横で、一旦サイレンが止み、三台の車両が停まった。先頭の車両から、痩せて陽に焼けた顔の中年男が、降りてきた。

「……通報してくれた方?」中年男は二人をなめるように見た。

 その男は甲州塩山警察署の飯富(いいとみ)と名乗り、空木と小谷原に名刺を要求した。飯富は、二人に通報への礼を言うと、慌ただしく車に乗り込んだ。

 


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