表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/45

6|『クラヴィス写本』

 トラムの車窓から流れる景色は、初夏の陽光を浴びて穏やかに輝いていた。赤レンガの屋根が連なる街並みの向こうにはゼーラ川が青く光り、石畳の通りには観光客や地元の人々が行き交っている。


 キロシュタインは車内の木製の座席に腰掛け、車輪がレールを滑る心地よい振動を感じながら、目的地が近づくのを待っていた。膝の上でオルデキスカのサインを組めば、ふと、さっき会ったエアの笑顔を思い出す。彼の魂に宿る姉シアナスの煌めきが脳裏に浮かび、胸がじんと熱くなった。


 十カ月前、あの映画館で体験したことは、

 ――夢だったのか、それとも奇跡だったのか。

 

 また会いたい。……でも、過去の輝きに囚われれば、それはいつか自分を縛り付ける呪いになってしまう。この選択は、きっと間違いではなかったのだろう。正しかったかどうかは、わからないけれど。シアナスの魂は流転し、一人の男の子の命を救った。世界は絶えず変化していく――。


 受け入れるしかない。……受け入れるしか。



  ◇ ◆

  ◆ ◇

  ◇ ◆


 

 やがて、トラムは目的の駅へと到着した。キロシュタインは軽やかに車両を降り、ホームを抜けて駅の外へと歩を進める。通りを渡り、石造りの坂道を登ると、目的の建物――。


 ヴァルテス修導院が、その壮麗な姿を現した。


 ヴァルテス修導院は、長い歴史を感じさせる堂々たる建築だった。白い外壁に赤褐色の屋根、空へと伸びる二つの塔が荘厳な雰囲気を醸し出している。


 入口へと続く石段を上がると、眼下にはブルクサンガの広大な街並みが広がっていた。ゼーラ川が穏やかに流れ、エレル橋とブルクサンガ・サンの大観覧車が遠くに見える。手前の少し高い位置には、同地区にあるヴァルテス城跡学園の尖塔がそびえ立ち、その存在感を示していた。


 心地よい風が吹き抜け、

 修導院の静謐な空気をいっそう際立たせている。

 

 キロシュタインはゆっくりと門をくぐり、中へと足を踏み入れた。

 


 …………、


 ……、



 館内へ入ると、すぐに目に飛び込んできたのは、美しく装飾された天井だった。フレスコ画が描かれた高い天井には、光と影が織りなす幻想的な風景が広がっている。厳かな静寂の中、古書の香りが漂い、歴史の重みを感じさせる。


 図書館は二つのホールに分かれていた。

 

 〈神学の間〉では、整然と並ぶ本棚に聖書や文学書が収められていた。革装丁の書物が棚にびっしりと並び、書見台には重厚な聖書が開かれている。その背後には、聖人の名を刻んだ金細工の額縁が掲げられ、静謐な雰囲気を一層引き立てていた。天井には壮麗なフレスコ画が描かれ、天使が巻物を広げ、知恵を授ける光景が幻想的に広がっている。壁際には、祈りを捧げる修導士の大理石像が並び、訪れる者を見守っているかのようだった。――ステンドグラスから差し込む光が、床に優雅な影を落とし、まるで神聖な波紋のように広がっていた。


 一方、〈哲学の間〉には、魔導書、天文学、数学といった学問の書が収められていた。天井のアーチを飾るフレスコ画には、星図を掲げる天文学者や、思索にふける哲学者の姿が描かれ、叡智を象徴する寓意が精緻に表現されている。部屋の中央には、黒曜石で造られた大きな天球儀が鎮座し、その表面には銀の細工で星座が刻まれていた。壁際の彫刻には、錬金術師が実験を行う姿や、神秘的な魔法陣が象られ、空間全体が知識と探求の場であることを静かに主張している。


 この二つのホールを結ぶ廊下には、魔法契約書/クラヴィスの写本を貸し出す受付が設けられていた。そこには、司書とは異なる役割を持つ「写本術師」と呼ばれる女性が座っている。彼女は静かに羽根ペンを走らせながら、古い書物の写しを手掛けていた。


 キロシュタインは写本術師の受付へと歩み寄った。


 そこには、一人の女性が静かに座っていた。写本術師の頭上には無数の透明なパイプが張り巡らされ、まるで蜘蛛の巣のように天井を這っている。パイプの出口は彼女のすぐ上にあるが、その入口はこの図書館にはなく、地下書庫へと繋がっているらしい。


「クラヴィス写本の貸し出しをご希望ですね。識別番号をお願いします」


 彼女は淡々とした口調で尋ねた。


「CBN-Pholha-0669-ANMでお願いします」


 キロシュタインが指定すると、

 写本術師は天井から垂れ下がった伝声管を手に取り、

 低く、はっきりとした声で命令を伝えた。


「CBN-Pholha-0669-ANM、至急送本」


 伝声管の奥から、かすかに風が揺れる音が聞こえた。

 地下書庫では、精霊たちが命を受け、目的の魔導書を探しているのだ。

 数十秒後、遠くの方から風が駆け抜ける音が響いた。



 ――ゴォォォォォッ!



 突如、頭上のパイプから勢いよく何かが飛び出した。


「……っと」


 写本術師はまるで慣れた仕草で、宙を舞う幻本をすっと片手でキャッチした。

 衝撃もものともせず、手元に収めるその動作は、もはや芸術の域に達している。


「幻本のままでは読めませんので、写本を作成します」


 そう言うと、彼女はカウンターの下から白紙の魔導書を取り出した。そして、羽根ペンを持つや否や、凄まじい速度で文字を書き記し始める。インクが紙に染み込む暇すらないほどの筆致。滑るように走るペン先が、まるで生きているかのように魔導書の内容を写し取っていく。


 

 ――。

 ものの数分で写本が完成すると、

 写本術師は本を閉じ、キロシュタインに手渡した。


「どうぞ。写本完成です」


「ありがとうございます。あの、ベンチ借りますね」


 キロシュタインは礼を言い、

 本を抱えたまま図書館の奥へと向かった。


 哲学の間の隅に設置されていた読書用のベンチに、キロシュタインは腰を下ろす。

 

 ――星の掟により、魔法使いは自身のクラヴィスを【クラヴィスデータベース/CDB】に登録しなければならない。登録されたクラヴィスの内容や魔法譜は、識別番号さえあれば誰でも自由に閲覧できる。  

 識別番号の仕組みは一見複雑に思えるが、少し学べば理解しやすいものだ。


 例えば、先ほどの〈CBN-Pholha-0669-ANM〉。

 CBNは、クラヴィス・ブックナンバーの略称。0669という数字は識別番号の中核で、何番目に登録されたかを示している。この番号も公に公開されているため、検索すれば容易に探し出せる。ANMは学問の分類を表し、これはキィズ=アニマを意味している。


 そして最後に『Pholha』。

 これは、そのクラヴィスの所有者である術者の名前だ。

 読み方は「プホラ」。

 南ビアンポルト交易協会の理事長――、プホラ・フラスコ。

 

 そう、キロシュタインが借りた写本は、

 彼のクラヴィスを写したものだった。


「キィズ=アニマ領域:第Ⅲ契、契約精霊術――『メフィスト・ワルツ』、ね」

 キロシュタインはそう言いながら、クラヴィス写本の表紙に指を滑らせた。


 クラヴィスの表紙には、術者の名前のほかにタイトルが記されることもある。例えば、ラテルベルの『フラマの踊り子』のように。大抵の場合、オートポエットという機械人形が魔法譜の内容を解析し、それらしいタイトルを自動生成するため、多くの術者がこれを利用している。自分で考えるのが恥ずかしい、という理由で任せる者も少なくない。――いずれにせよ、タイトルは魔導書そのものの名であり、発動される魔法の名でもある。それゆえ、決して軽視できるものではない。

 

 しばらく表紙の装飾や裏表紙の魔法陣を細かく観察した後、

 キロシュタインは深く息をついた。

 まるで今から超大作の映画を観るかのように意識を集中させ、

 プホラのクラヴィス写本を静かに開いた――。




 ―――― ◇◆◇ ――――


 ヴェリオス・シアルティス・アゼルノア

 サルヴァトル・ヴェルグナス・トラキエル

 サレフィオ・オルザリス・ヴェクトルム

 シトリファス・アゼミルス・ヴェノルス

 トリザード・サルマーデ・シルネオス

 ケルヴァナ・シトレイン・サラゼス

 アゼリオス・オルフェス・ヴェクトリス

 シトラフィル・オルヴェナ・アゼリウム

 シルヴァニア・トリアンス・ケルマリス

 オルゼファス・ケルメイア・シトレウス

 ヴェクトラーノ・シトリアム・アゼリシア

 サルヴァリオン・ケルヴァネス


「|⟾⟿⟴⟤⟧⟠⟡| |⟴⟡⟐⟸⟯⟧⟠| |⟙⟧⟪⟿⟐⟤⟡| |⟐⟮⟠⟧⟾⟢⟤| |⟾⟷⟧⟡⟴⟡⟿| |⟯⟸⟾⟡⟐⟠⟣| |⟐⟮⟾⟧⟤⟿⟐| |⟠⟤⟙⟴⟧⟠⟾| |⟾⟷⟡⟐⟢⟿⟾| |⟴⟡⟸⟯⟾⟧⟠| |⟙⟧⟪⟿⟡⟐⟾| |⟾⟿⟤⟧⟠⟡⟾| |⟯⟸⟠⟧⟿⟡⟴| |⟐⟤⟿⟾⟡⟴⟸| |⟴⟡⟐⟿⟡⟧⟠| |⟿⟧⟠⟡⟾⟴⟡| |⟴⟡⟸⟯⟾⟡⟧| |⟐⟤⟙⟴⟧⟡⟾| |⟙⟧⟪⟿⟡⟾⟴⟡| |⟠⟿⟧⟾⟡⟴⟡| |⟾⟷⟡⟐⟠⟧⟿| |⟴⟡⟸⟯⟾⟧⟠| |⟠⟾⟿⟡⟴⟡⟐| |⟙⟧⟪⟿⟡⟴⟡⟾| |⟴⟡⟾⟡⟧⟠⟿| |⟯⟸⟾⟡⟐⟠⟣| |⟿⟧⟠⟡⟾⟴⟡⟠| |⟠⟤⟙⟴⟧⟡⟾⟷| |⟿⟡⟾⟴⟡⟐⟠| |⟴⟡⟸⟯⟾⟧⟡⟾| |⟾⟷⟡⟐⟠⟧⟿| |⟴⟡⟸⟯⟾⟧⟠| |⟙⟧⟪⟿⟡⟾⟴⟡⟠| |⟐⟮⟠⟧⟾⟢⟤⟡| |⟿⟾⟡⟴⟡⟐⟿⟡| 」


 ―――― ◇◆◇ ―――― 




「オルフェウスの呼び声、イシュトの影契、ラヴェレスの代償、ザルギスの誓約。使われている告式にカタストロフィは無し……。告式は50個、記譜法は複式。温度は-135°Θ。術紋は山羊……」


 キロシュタインは、視線を落とすことなく、すらすらと魔法譜を読み解いていく。

 実は、彼女がこうしてプホラのクラヴィス写本を読みに来るのは、これが初めてではない。ブルクサンガに来てから幾度となく足を運んでいるものの、写本は十分ほどで幻本へと変わり、読むことができなくなってしまう。そのわずかな時間の中で、何か手がかりを見つけられないか。彼へと辿り着くヒントや答えを掴めないか――キロシュタインは、何度も挑み続けていた。

 


   06.『クラヴィス写本』



 十分が経ち、写本が幻本へと戻ってしまう。

 魔法の効果が切れたのだ。だが、彼女は焦ることもなく、静かに目を閉じた。


 ――告式を、思い出す。


「ヴェリオス・シアルティス・アゼルノア……」


 キロシュタインは、プホラのクラヴィスに書き記されていた告式を口遊む。

 そして。無意識に何度も繰り返しているうちに、ふと違和感を覚えた。



 ――この羅列、単なる魔法譜(クラフト)じゃない。



 何かが隠されている。


 キロシュタインは、持ってきたノートを開き、迷うことなく鉛筆で魔法譜を書き写し始めた。触媒も、術紋もそっくりそのまま。その筆は迷いなく、まるで答えを確信しているかのように走る。


 ――魔法譜に、MM暗号が仕込まれている。


 MM暗号――マギア/魔法とムジカ/音楽を対応させる特殊な暗号。魔法譜に見せかけ、実際には音楽の構造を持つ暗号式。高度な記譜技術と音楽理論を融合させた、一部の術者しか扱えない手法だ。


 キロシュタインは、書き写した魔法譜の告式を、慎重に並べ替えていく。音階に対応する神声文字を抽出し、音符へと置き換えていく作業。単なる魔法譜が、徐々に旋律を持ち始める。


 まるで、闇に埋もれた旋律を掘り起こすように。

 鉛筆の動きが止まる。仕上がった楽譜を見て、キロシュタインは確信した。


「……これって、『タイヨウシング・エラ』……?」


 旧世界の音楽史に名を残す、交響詩の楽譜。


 しかし、なぜプホラのクラヴィスの中に、この旋律が隠されていたのか。

 キロシュタインはノートに書かれた魔法譜と楽譜を見つめ、静かに息を呑んだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ