6|『クラヴィス写本』
トラムの車窓から流れる景色は、初夏の陽光を浴びて穏やかに輝いていた。赤レンガの屋根が連なる街並みの向こうにはゼーラ川が青く光り、石畳の通りには観光客や地元の人々が行き交っている。
キロシュタインは車内の木製の座席に腰掛け、車輪がレールを滑る心地よい振動を感じながら、目的地が近づくのを待っていた。膝の上でオルデキスカのサインを組めば、ふと、さっき会ったエアの笑顔を思い出す。彼の魂に宿る姉シアナスの煌めきが脳裏に浮かび、胸がじんと熱くなった。
十カ月前、あの映画館で体験したことは、
――夢だったのか、それとも奇跡だったのか。
また会いたい。……でも、過去の輝きに囚われれば、それはいつか自分を縛り付ける呪いになってしまう。この選択は、きっと間違いではなかったのだろう。正しかったかどうかは、わからないけれど。シアナスの魂は流転し、一人の男の子の命を救った。世界は絶えず変化していく――。
受け入れるしかない。……受け入れるしか。
◇ ◆
◆ ◇
◇ ◆
やがて、トラムは目的の駅へと到着した。キロシュタインは軽やかに車両を降り、ホームを抜けて駅の外へと歩を進める。通りを渡り、石造りの坂道を登ると、目的の建物――。
ヴァルテス修導院が、その壮麗な姿を現した。
ヴァルテス修導院は、長い歴史を感じさせる堂々たる建築だった。白い外壁に赤褐色の屋根、空へと伸びる二つの塔が荘厳な雰囲気を醸し出している。
入口へと続く石段を上がると、眼下にはブルクサンガの広大な街並みが広がっていた。ゼーラ川が穏やかに流れ、エレル橋とブルクサンガ・サンの大観覧車が遠くに見える。手前の少し高い位置には、同地区にあるヴァルテス城跡学園の尖塔がそびえ立ち、その存在感を示していた。
心地よい風が吹き抜け、
修導院の静謐な空気をいっそう際立たせている。
キロシュタインはゆっくりと門をくぐり、中へと足を踏み入れた。
…………、
……、
館内へ入ると、すぐに目に飛び込んできたのは、美しく装飾された天井だった。フレスコ画が描かれた高い天井には、光と影が織りなす幻想的な風景が広がっている。厳かな静寂の中、古書の香りが漂い、歴史の重みを感じさせる。
図書館は二つのホールに分かれていた。
〈神学の間〉では、整然と並ぶ本棚に聖書や文学書が収められていた。革装丁の書物が棚にびっしりと並び、書見台には重厚な聖書が開かれている。その背後には、聖人の名を刻んだ金細工の額縁が掲げられ、静謐な雰囲気を一層引き立てていた。天井には壮麗なフレスコ画が描かれ、天使が巻物を広げ、知恵を授ける光景が幻想的に広がっている。壁際には、祈りを捧げる修導士の大理石像が並び、訪れる者を見守っているかのようだった。――ステンドグラスから差し込む光が、床に優雅な影を落とし、まるで神聖な波紋のように広がっていた。
一方、〈哲学の間〉には、魔導書、天文学、数学といった学問の書が収められていた。天井のアーチを飾るフレスコ画には、星図を掲げる天文学者や、思索にふける哲学者の姿が描かれ、叡智を象徴する寓意が精緻に表現されている。部屋の中央には、黒曜石で造られた大きな天球儀が鎮座し、その表面には銀の細工で星座が刻まれていた。壁際の彫刻には、錬金術師が実験を行う姿や、神秘的な魔法陣が象られ、空間全体が知識と探求の場であることを静かに主張している。
この二つのホールを結ぶ廊下には、魔法契約書/クラヴィスの写本を貸し出す受付が設けられていた。そこには、司書とは異なる役割を持つ「写本術師」と呼ばれる女性が座っている。彼女は静かに羽根ペンを走らせながら、古い書物の写しを手掛けていた。
キロシュタインは写本術師の受付へと歩み寄った。
そこには、一人の女性が静かに座っていた。写本術師の頭上には無数の透明なパイプが張り巡らされ、まるで蜘蛛の巣のように天井を這っている。パイプの出口は彼女のすぐ上にあるが、その入口はこの図書館にはなく、地下書庫へと繋がっているらしい。
「クラヴィス写本の貸し出しをご希望ですね。識別番号をお願いします」
彼女は淡々とした口調で尋ねた。
「CBN-Pholha-0669-ANMでお願いします」
キロシュタインが指定すると、
写本術師は天井から垂れ下がった伝声管を手に取り、
低く、はっきりとした声で命令を伝えた。
「CBN-Pholha-0669-ANM、至急送本」
伝声管の奥から、かすかに風が揺れる音が聞こえた。
地下書庫では、精霊たちが命を受け、目的の魔導書を探しているのだ。
数十秒後、遠くの方から風が駆け抜ける音が響いた。
――ゴォォォォォッ!
突如、頭上のパイプから勢いよく何かが飛び出した。
「……っと」
写本術師はまるで慣れた仕草で、宙を舞う幻本をすっと片手でキャッチした。
衝撃もものともせず、手元に収めるその動作は、もはや芸術の域に達している。
「幻本のままでは読めませんので、写本を作成します」
そう言うと、彼女はカウンターの下から白紙の魔導書を取り出した。そして、羽根ペンを持つや否や、凄まじい速度で文字を書き記し始める。インクが紙に染み込む暇すらないほどの筆致。滑るように走るペン先が、まるで生きているかのように魔導書の内容を写し取っていく。
――。
ものの数分で写本が完成すると、
写本術師は本を閉じ、キロシュタインに手渡した。
「どうぞ。写本完成です」
「ありがとうございます。あの、ベンチ借りますね」
キロシュタインは礼を言い、
本を抱えたまま図書館の奥へと向かった。
哲学の間の隅に設置されていた読書用のベンチに、キロシュタインは腰を下ろす。
――星の掟により、魔法使いは自身のクラヴィスを【クラヴィスデータベース/CDB】に登録しなければならない。登録されたクラヴィスの内容や魔法譜は、識別番号さえあれば誰でも自由に閲覧できる。
識別番号の仕組みは一見複雑に思えるが、少し学べば理解しやすいものだ。
例えば、先ほどの〈CBN-Pholha-0669-ANM〉。
CBNは、クラヴィス・ブックナンバーの略称。0669という数字は識別番号の中核で、何番目に登録されたかを示している。この番号も公に公開されているため、検索すれば容易に探し出せる。ANMは学問の分類を表し、これはキィズ=アニマを意味している。
そして最後に『Pholha』。
これは、そのクラヴィスの所有者である術者の名前だ。
読み方は「プホラ」。
南ビアンポルト交易協会の理事長――、プホラ・フラスコ。
そう、キロシュタインが借りた写本は、
彼のクラヴィスを写したものだった。
「キィズ=アニマ領域:第Ⅲ契、契約精霊術――『メフィスト・ワルツ』、ね」
キロシュタインはそう言いながら、クラヴィス写本の表紙に指を滑らせた。
クラヴィスの表紙には、術者の名前のほかにタイトルが記されることもある。例えば、ラテルベルの『フラマの踊り子』のように。大抵の場合、オートポエットという機械人形が魔法譜の内容を解析し、それらしいタイトルを自動生成するため、多くの術者がこれを利用している。自分で考えるのが恥ずかしい、という理由で任せる者も少なくない。――いずれにせよ、タイトルは魔導書そのものの名であり、発動される魔法の名でもある。それゆえ、決して軽視できるものではない。
しばらく表紙の装飾や裏表紙の魔法陣を細かく観察した後、
キロシュタインは深く息をついた。
まるで今から超大作の映画を観るかのように意識を集中させ、
プホラのクラヴィス写本を静かに開いた――。
―――― ◇◆◇ ――――
ヴェリオス・シアルティス・アゼルノア
サルヴァトル・ヴェルグナス・トラキエル
サレフィオ・オルザリス・ヴェクトルム
シトリファス・アゼミルス・ヴェノルス
トリザード・サルマーデ・シルネオス
ケルヴァナ・シトレイン・サラゼス
アゼリオス・オルフェス・ヴェクトリス
シトラフィル・オルヴェナ・アゼリウム
シルヴァニア・トリアンス・ケルマリス
オルゼファス・ケルメイア・シトレウス
ヴェクトラーノ・シトリアム・アゼリシア
サルヴァリオン・ケルヴァネス
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―――― ◇◆◇ ――――
「オルフェウスの呼び声、イシュトの影契、ラヴェレスの代償、ザルギスの誓約。使われている告式にカタストロフィは無し……。告式は50個、記譜法は複式。温度は-135°Θ。術紋は山羊……」
キロシュタインは、視線を落とすことなく、すらすらと魔法譜を読み解いていく。
実は、彼女がこうしてプホラのクラヴィス写本を読みに来るのは、これが初めてではない。ブルクサンガに来てから幾度となく足を運んでいるものの、写本は十分ほどで幻本へと変わり、読むことができなくなってしまう。そのわずかな時間の中で、何か手がかりを見つけられないか。彼へと辿り着くヒントや答えを掴めないか――キロシュタインは、何度も挑み続けていた。
06.『クラヴィス写本』
十分が経ち、写本が幻本へと戻ってしまう。
魔法の効果が切れたのだ。だが、彼女は焦ることもなく、静かに目を閉じた。
――告式を、思い出す。
「ヴェリオス・シアルティス・アゼルノア……」
キロシュタインは、プホラのクラヴィスに書き記されていた告式を口遊む。
そして。無意識に何度も繰り返しているうちに、ふと違和感を覚えた。
――この羅列、単なる魔法譜じゃない。
何かが隠されている。
キロシュタインは、持ってきたノートを開き、迷うことなく鉛筆で魔法譜を書き写し始めた。触媒も、術紋もそっくりそのまま。その筆は迷いなく、まるで答えを確信しているかのように走る。
――魔法譜に、MM暗号が仕込まれている。
MM暗号――マギア/魔法とムジカ/音楽を対応させる特殊な暗号。魔法譜に見せかけ、実際には音楽の構造を持つ暗号式。高度な記譜技術と音楽理論を融合させた、一部の術者しか扱えない手法だ。
キロシュタインは、書き写した魔法譜の告式を、慎重に並べ替えていく。音階に対応する神声文字を抽出し、音符へと置き換えていく作業。単なる魔法譜が、徐々に旋律を持ち始める。
まるで、闇に埋もれた旋律を掘り起こすように。
鉛筆の動きが止まる。仕上がった楽譜を見て、キロシュタインは確信した。
「……これって、『タイヨウシング・エラ』……?」
旧世界の音楽史に名を残す、交響詩の楽譜。
しかし、なぜプホラのクラヴィスの中に、この旋律が隠されていたのか。
キロシュタインはノートに書かれた魔法譜と楽譜を見つめ、静かに息を呑んだ。