5|『ねぇ、もっと。//Das Lebewohl』
ソルトマグナの一件から二週間後。八月の終わり――。
姉のリンネホープが入った箱を胸に抱えながら、キロシュタインは、夜道を進む。
…………、
……、
ブルクサンガ旧市街の石畳を歩いていくと、歴史ある建築の間に、ひっそりと佇む映画館が現れる。バロック様式の外観は、周囲の建物に馴染むように設計されており、白壁に繊細な装飾が施されたファサードが、夜の街灯に柔らかく照らされていた。入口には赤と金の縁取りが施されたレトロな庇が伸び、その下には、昔ながらのチケット売り場の窓口がある。
窓口には、小太りの男が腰掛けていた。
年代物のキャスケット帽を浅く被り、分厚いメガネの奥から気まぐれそうな視線を投げかけてくる。顎を撫でながら、来館者を見定めるような仕草をし、時折、無愛想にチケットを切る。その手元には、古びたカウンターと、小さなラジオが置かれ、かすかにクラシック音楽が流れていた。
「――貸し切りで。リンネホープの映写ができるシアタールームをお願いします」
瞳に深い絶望と後悔を宿したキロシュタインが、消え入りそうな声で呟く。
カウンター越しの男は、一瞬だけ彼女を見たが、特に興味を示すこともなく、無愛想に答えた。
「千カザラルね」
キロシュタインはポケットから、直方体の形をした銀色のカザラル貨幣を十個取り出し、無言のままカウンターの上に置く。男はそれを数えることもせず、乱雑に引き出しへと押し込み、顎をしゃくって示した。
「一番奥の部屋へどうぞ」
キロシュタインは、小さく頷くと、重たい足取りで映画館の奥へと進んでいく。
彼女の背中を、静寂が覆うロビーの空気が追いかけていた。
――。
館内へ入ると、一階のロビーは落ち着いた雰囲気に包まれていた。
天井にはクラシックなシャンデリアが吊るされ、壁には旧世界の映画のポスターが額装されて並んでいる。中央には、一際目を引く石像が鎮座していた。それは、大きな旗を掲げた天使の女性像。彼女の顔は静かな微笑をたたえ、掲げた旗は、まるで夜風にそよぐかのような動きを感じさせた。足元には、映画館の創設者の名前と共に、「神旗を掲げよ」と刻まれた銘板が添えられている。
外の空気はひんやりと心地よく、開いた扉の隙間から、夜の涼風がそっと入り込み、ロビーの赤い絨毯をわずかに揺らしていた――。
05.『ねぇ、もっと。//Das Lebewohl』
キロシュタインは、映画館の奥へと進み、シアタールームの扉を開いた。そこはこぢんまりとしていながらも、落ち着いたレトロな雰囲気が漂っていた。壁には深いワインレッドのベルベットが貼られ、天井にはアンティーク調のシャンデリアが優しく灯っている。座席は古風な木製の肘掛け椅子で統一され、列ごとにわずかな段差が設けられている。通常であれば多くの観客が座り、スクリーンを見上げるであろう場所に、今はただ一人、キロシュタインだけが立っていた。
彼女は無言のまま映写機のもとへ歩み寄る。
通常のフィルム映写機とは異なり、そこには特殊な機構が備わっていた。中央に円形のくぼみがあり、そこに遺志残響宝石/リンネホープを嵌め込むことで映像が再生される仕組みだ。
キロシュタインは、抱えていた小さな銀の箱の蓋をそっと開く。
中には透き通るような青色の宝石――姉シアナスのリンネホープが静かに輝いていた。
映写機のくぼみにリンネホープをそっと嵌め込む。すると、機械が静かに作動し始め、スクリーンにかすかな光が映し出された。やがて、ぼんやりとした輝きが形を成し、映像が鮮やかに浮かび上がる。キロシュタインは小さく息をのみ、スクリーンに映る光景をじっと見つめた――。
◇
◆
◇
キロシュタインはゆっくりと中央の座席に腰を下ろした。薄暗い劇場の中、彼女の手は膝の上で固く握られていた。映写機のかすかな駆動音が響くたびに、胸の奥が締め付けられる。これから目にする映像が、過去の記憶を抉ることを知っているからだ。呼吸を整えようとするも、浅く、不規則になってしまう。
スクリーンに映像が映し出される。視界が揺れ、姉――シアナスの視点が広がる。そこに映っていたのは、柔らかな陽光に包まれた家の庭。幼いキロシュタインが、父と母、祖父に見守られながら、ぎこちなくも初めて歩みを進めていた。よちよちと足を運び、何度かよろめくたびに、家族の温かな笑い声が響く。
「すごいね、キロッシュ!」
シアナスの声が優しく響く。カメラが動き、小さな妹へと向かう。幼いキロシュタインはふわふわの髪を揺らし、丸い瞳を輝かせながら、姉に向かって手を伸ばした。シアナスは、その小さな手を握り、そっと抱きしめる。妹の温もりと、幸福な空気がスクリーンに満ちていた。
しかし、場面が暗転し、
次の映像が流れ出す――。
白い病室の景色。静寂の中、五歳のキロシュタインがベッドに座っている。左目には包帯が巻かれ、痛々しい姿だった。シアナスの視点が揺れ、彼女の肩が震えているのが伝わる。
「生きててよかった……!」
涙声でそう呟くと、シアナスはベッドに駆け寄り、キロシュタインを抱きしめた。妹の小さな体が、かすかに震えていた。キロシュタインは、無理に笑おうとしたのかもしれないが、何も言えずにシアナスにしがみついていた。
そして――また場面が変わる。
暗い家の中。母のすすり泣く声。静まり返った部屋に、薬の匂いが染みついている。シアナスの視点が、布団に横たわる父を映し出す。蒼白な顔、呼吸は浅く、やがて――止まった。
父の死を理解した瞬間、
幼いキロシュタインが絶望に満ちた声を上げた。
「……いやだ、いやだよ……パパぁ……っ!」
だが、その声も虚しく、父はもう目を開けることはなかった。
次に映るのは祖父の部屋。横たわる老人の手を握る母の姿。だが、その手の温もりは、次第に失われていく。キロシュタインは、もう何も言えず、ただ涙を流していた。
そして、最後に母。シアナスは、母の手を握りながら、何度も「大丈夫」と言い続けていた。けれど、その言葉は母に届くことはなく、やがて、彼女も冷たくなった。
幼いキロシュタインは、家族を失うたびに、何かを喪っていくように見えた。
「キロッシュ、大丈夫。私がいるから……!」
シアナスはそう言って、泣きじゃくる妹の背を何度も何度も撫でた。
だが、シアナス自身の瞳にも、大粒の涙が溢れていた。
映像はそこで終わらず、最後の記録へと移る。
穏やかな海辺。港町の小さな白い家。
窓の外には、美しい青い海が広がっている。
「キロッシュ、見て! すごく綺麗!」
シアナスの明るい声。
キロシュタインの小さな笑い声が、それに続く。
家のテラスには、姉妹の影が並び、波の音が静かに響いていた。
日差しは柔らかく、風は心地よく吹いている。
そこには、確かに幸福があった。
スクリーンの光が揺れ、映像はそこで終わった――。
映像が終わり、スクリーンは闇に沈んだ。
映画館の中も同じように暗闇に包まれ。
映写機の駆動音すら止まり、静寂が降りる。
しかし――次の瞬間、
スクリーンの奥にぼんやりと光が灯った。
それは映像ではなく、まるで鏡の向こうに広がるもう一つの劇場。
そこには、キロシュタインがいるこのシアタールームと寸分違わぬ構造の空間が映し出されていた。ただ一つ、決定的に異なるのは、向こう側の劇場が時代を経て朽ち果てていることだった。
天井のシャンデリアは煤け、座席の革張りには無数の亀裂が走っている。壁のベルベットは色褪せ、長い時間を耐え抜いたかのように、静かにその役目を果たし続けていた。
そして、その荒廃した劇場の中央、
ひとつの座席に佇む人物がいた。
――シアナス。
かつてキロシュタインを抱きしめ、共に生きた姉。
しかし今、スクリーンの向こう側に座る彼女は、年老いた姿だった。
白髪に変わった髪を丁寧にまとめ、深く刻まれた皺の中に静かな微笑を湛えている。
彼女は確かにこちらを見ていた。まるで、ずっと待っていたかのように。
キロシュタインの息が詰まる。
「……お姉ちゃん?」
かすれた声で呼びかける。
すると、スクリーンの向こうのシアナスがゆっくりと頷いた。
二人は同時に席を立つ。
駆け出す。吸い込まれるようにスクリーンへと向かう。
だが――。
指先が触れるはずの距離で、何かに阻まれた。
スクリーンという境界線が、二人を隔てていた。
キロシュタインの手が触れるのは、冷たくなめらかなガラスのような壁。
シアナスもまた、同じようにスクリーンの向こうから手を伸ばしている。
「キロッシュ……」
「お姉ちゃん……っ!」
お互いの手は、あと少しのところで届かない。
「わたしね。あなたと、もっと……一緒に――、生きたかったの……。変わらない毎日にあなたは飽き飽きしていたかもしれないけど。……わたし……わたしはね……キロッシュ、あなたと――」
シアナスが静かに微笑む。
「同じだよっ、お姉ちゃん……っ! わたしもね――」
スクリーンに額を押し当てるキロシュタイン。
しかし、次第に向こうの劇場が霞み始める。
シアナスの姿が、静かに、静かにフェードアウトしていく。
―― ねぇ、 もっと……!
手を伸ばしても、声を上げても、もうその姿は薄れゆくばかりだった。
最後に、スクリーンの向こうでシアナスが小さく微笑んだ気がした。
やがて、すべてが光の粒となり、静かに消えた――。