35|『メフィスト・ワルツ|第4番』
都市全体が、音に包まれていた。
チェロとフルート――。
二つの楽器が、それぞれの空を、街を、時を貫いていた。
走る列車の中。
キロシュタインの指が、弓が、止まらない。
チェロの低音が空気を震わせ、
ブルクサンガ環状線のレール上を這うように、
魔力の波動が伝わっていく。
視界の向こう、トラムの窓の外には、
赤レンガの街並みが流れる。
旧市街、住宅街、鉄道橋、ヴァルテス地区、
――そして再び、旧市街へ。
列車が駅に差しかかる瞬間、
彼女は、最後の一音に指を重ねた。
――キィィィン……。
かすかに揺れる弦の響きが、
車内の空気に溶けていく。
チェロの弦が静かに沈黙すると同時に、
トラムが滑るように旧市街のホームへと帰還した。
その瞬間、
環状線のレール上に描かれた神声文字が、
閃光とともに浮かび上がる。
まるで都市を一周する光の竜――。
ブルクサンガの輪郭に沿って、
全長二十五キロに及ぶ巨大な“横軸”の魔法陣が形成された。
同時刻――
エレル橋の上空を周回する、
大観覧車ブルクサンガ・サン。
三周目の終わりに差し掛かった一つのゴンドラの中。
アルミナは、震える手でフルートを唇に押し当てていた。
もう汗で手は滑りそうだった。
肺は焼け付くように痛み、
吐く息すら震えていた。
それでも、彼は最後まで吹ききった。
高く、優しく、そして痛々しいほどに真っ直ぐな旋律。
青空と宇宙の境界で、彼の奏でる音が世界をつなげていく。
最後の一音――
フルートの音がかすかに震えながら、
風に乗り、光の輪の中へ溶けていく。
観覧車の円環を縁取るように、白銀色の神声文字が走り、
回転する車輪そのものが、“縦軸”の魔法陣へと変貌していく。
まるで空中に浮かぶ巨大な天球儀。
天空にもう一つの太陽が出現したかのような輝き。
そして――
歴史を刻む旧市庁舎の天文時計。
その黄金の文字盤の上に、
時を刻む針が重なるように揃った瞬間。
時計の歯車が共鳴音を立て、
文字盤全体に神声文字が浮かび上がる。
それは“時間軸”を司る最後の魔法陣――。
静かに、すべてが揃った。
都市全体を貫く三つの軸、
横軸――環状線。
縦軸――観覧車。
時間軸――天文時計。
それらが共鳴し、
ブルクサンガの都市そのものを包み込む。
上空に広がる、表側の昼の空と、
裏側の夜と宇宙が交わる境界線が、
白い稲妻のように脈動を始める。
その中心で、魔法陣が収束する――。
ヴァルプルギスの夜を封印する、
都市規模の魔法陣。
それが今、完成した。
35.『メフィスト・ワルツ|第4番』
キロシュタインが駅に降り立つと、
出迎えたのはノア、エメラルド、そしてアサンの三人だった。
ノアが真っ先に駆け寄り、
キロシュタインの手を握ってくるくると回る。
「やった! ね、キロちゃん」
「私たち、勝ったんだよね?」
だが、キロシュタインはその問いに素直に頷くことができなかった。
表情を引き締め、低く告げる。
「……プホラとサンタキエロが、いない」
エメラルドも頷き、口を引き結ぶ。
「僕も、そのことがずっと気がかりでした」
「なんていうか……うまくいきすぎてるというか、妙な静けさがある」
そんな二人とは対照的に、
アサンはいつも通りの調子で肩をすくめる。
「まぁまぁ、魔法陣は完成したんだし」
「ここはひとまず、めでたしめでたしってことでー」
その時、無線越しにラテルベルの声が響いた。
「あ――あのっ! こちらラテルベルです!」
「……なんとか、メリッサに勝てました!!」
全員が思わず空を仰ぐ。
はるか上空には、
二機のカルディアの姿が見えた。
赤い装甲のオーツーと、
白と黒に輝く、プレイ・オブ・カラー。
ノアが無線に向かって声を弾ませる。
「お疲れ様っ! ラテちゃん、魔法陣、完成したよ!!」
「ほ、ほんとですか!?」
弾んだラテルベルの声が応じる。
続いて、アルミナの穏やかな声が無線に乗った。
「……完成、したんですよね」
「……よかった」
その場にいた誰もが達成感に包まれる中――
ただ一人、キロシュタインだけが静かに顔を上げていた。
視線の先にあるのは、空に逆さまに浮かぶ街――
『ヴァルプルギスの夜』。
彼女は、誰にも気づかれないほど小さく眉をひそめた。
その表情には、言いようのない違和感と、
何かへの不安が滲んでいた。
◇
その瞬間、ツキナの報告が無線に入る。
「――見つけました。プホラ・フラスコです」
キロシュタインはすぐさま応答する。
「見つけたって……どこ?」
「旧市街の映画館前です」
「なんでそんな場所に……?」
「仲間の……その、死体からリンネホープを拾っていました」
その言葉を聞いたキロシュタインは、
直感的に、確信した。
視線をあらためて駅前――、
旧市街の惨状へと向ける。
メリッサが搭乗していたNEROによって放たれた魔法火弾は、
建物の壁や石畳を焼き尽くし、崩壊させていた。
転がる複数の死体。
SBTAの兵士、ブルクサンガ治安部隊、
そして――逃げ遅れた一般市民。
そこには、リンネホープ・ジェムが一つも無かった。
すでに心臓が宝石化していてもおかしくない状況のはずだった。
リンネホープが辺り一面に転がっていても……、
だが、何ひとつ残っていない。
「……そうか。あの時も……」
キロシュタインは目を見開き、呟く。
よみがえる記憶――、
ソルトマグナでの襲撃事件。
サンタキエロは“すべてはメフィストの仕業だ”と語った。
しかし、それは。
まったくの嘘だった……。
プホラ・フラスコが奴隷貿易に手を染めていた理由も同じだ。
すべては――サンタキエロの命令。
「……どうしたの?」
ノアが心配そうに問いかける。
キロシュタインは、まっすぐに言った。
「サンタキエロの目的は、最初からリンネホープだった」
「聖戦を起こせば、大勢の人が死ぬ。それを利用して……」
「――あいつは、それを“収穫”するために聖戦を仕組んだのよ」
キロシュタインはノアのほうを向く。
「ごめん、ノア。ほうき、乗せて。映画館まで急ぎたい」
ノアは勢いよく頷いた。
「もっちろん! いくよー!」
「オウ、ノリナ!!」
◇
旧市街、映画館前。
降り立つキロシュタインとノア。
歴史ある石畳を踏みしめながら歩を進めると、
路地の奥に、その建物は静かに佇んでいた。
バロック様式の外観は白壁に繊細な装飾をまとい、
夜明けの光に淡く照らされている。
赤と金で縁取られたレトロな庇、古びたチケット窓口、
そして掲げられた「GRAND CINEMA」の看板は、
まるで時が止まったかのように変わらぬ姿でそこにあった。
キロシュタインがこの場所を訪れるのは、あの日――
姉、シアナスのリンネホープに刻まれた記憶を見た、あの夜以来だった。
ノアは、ふと映画館の屋根を見上げて言う。
「ここ、来たことあるの? キロちゃん」
キロシュタインは、答える代わりにただ一歩、
映画館の前に踏み出す。
ドアの前で立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
記憶と現実が静かに交差するこの場所で、
何かが終わり、何かが始まる。
やがて、
彼女はドアノブに手をかけた――。
◇
一番奥のシアタールームの前に、
ツキナが静かに立っていた。
「……こちらです」
小さな声でそう告げると、
キロシュタインとノアは無言で頷き、彼女の後に続く。
三人は、そのまま扉をくぐり、
シアタールームの中へと足を踏み入れた。
…………。
……。
壁には、深いワインレッドのベルベットが貼られ、
天井ではアンティーク調のシャンデリアが柔らかな光を投げている。
古風な木製の肘掛け椅子が並び、列ごとにわずかな段差が設けられていた。
その中央の席に、一人の男が座っていた。
ワインレッドの長髪。
――プホラ・フラスコだった。
「やあ、待っていたよ」
背を向けたまま、彼はゆっくりと立ち上がる。
その仕草はどこか舞台俳優のようで、芝居がかっていた。
「ついに……見つけた……」
「――プホラ・フラスコ!!」
キロシュタインは低く叫び、
ピストルを引き抜いてプホラに銃口を向ける。
「ああ……覚えているよ」
「その目つき。あの女と同じだ」
「君は――あの女の家族か」
プホラがゆっくりと振り返りながらそう言う。
「シアナス・ヴィント・ベッカー!」
「……あんたが殺した、わたしのお姉ちゃんの名前よ!」
「――そうか。それなら、私を殺せばいい」
プホラのあまりに静かな言葉に、
キロシュタインは一瞬だけ動揺し、低く問い返す。
「は? どういうつもりよ」
「……もう、すべて終わったんだ」
「君も気づいているだろう? サンタキエロ様の計画は――もう成功している」
そこへ、ノアが声を上げた。
「魔法陣は完成した。キロちゃんの魔法が発動すれば、」
「ヴァルプルギスの夜は封印される。――だから、成功なんてウソ」
「私たちの勝ちだよ! あの世界が封印されれば終わり――」
「――それが、最初から“目的”だったんだよ」
ノアの言葉を制するように、プホラが口を開く。
「ヴァルプルギスの夜を封印すること。
それこそが、サンタキエロ様の本当の目的だったんだ」
キロシュタインの目が鋭くなる。
「子供たちだけの世界を創る。……なるほど、そういう意味ね」
「リンネホープを集めて、子供の造花体を創る」
「その創られた子供たちが生きる新しい世界を、ヴァルプルギスの夜に築く」
「そして最後に、それを封印して、外からは誰も干渉できないようにする……」
彼女は冷たい声で続ける。
「つまり、わたしたちは、その世界の“城壁”を作る手伝いをしてたってわけね」
プホラは満足げに微笑んだ。
「……君は聡明な子だね。まさにその通りだ」
「だからもう、すべて終わったんだよ」
「この物語はここで幕を閉じる。聖戦は君たちの勝利であり――」
「サンタキエロ様の計画も、滞りなく成功した」
プホラは、あくまでも穏やかに、
しかし確信に満ちた声で、そう言った。
◇
プホラはふらりとスクリーンのほうへと歩みを進めながら、
両手を高く掲げ、劇的に叫んだ。
「この刹那よ、止まれ!! 永遠に!!」
「お前は美しい。私は、この一瞬を失いたくない……!」
その声は、悲鳴にも祈りにも似ていた。
そして、スクリーンの前で立ち止まり――
プホラは、隠し持っていたナイフをゆっくりと取り出す。
そしてその刃を、
自らの胸元へ、
――迷いなく、深く突き刺した。
「プホラ!!」
ツキナが咄嗟に駆け寄る。
支えたその身体はもう、
自重すら保てないほどに力を失っていた。
キロシュタインは、その場に立ち尽くしていた。
ピストルを握る手がわずかに震え、ただ、呆然と見つめている。
ツキナの腕の中で、
プホラはかすかに笑みを浮かべながら、
その目を彼女に向けた。
「ああ……ドロシー……」
「……愛していたよ……ドロシー……」
その声音は、
まるで遠い記憶を思い出すかのようだった。
やがて――
プホラは静かに目を閉じ、息を引き取る。
ツキナはその顔を見つめ、そっと囁いた。
「私はツキナだよ。……お父さん」
「私に命をくれてありがとう。――さようなら」
そう言ってツキナは、
静かに浄化魔法を発動する。
プホラの身体は淡い光を帯びながら、
灰となって崩れ、音もなく散った――。
その中から、
黒く染まったリンネホープが一つ、転がり落ちる。
ツキナは赤水晶のナイフを構え、
そして、迷いなく――
――バリィィンッ!!
リンネホープを砕いた。




