1|『新しい日常』
英雄歴2970年12月25日、英雄戦争アストラマキアは終結した。神と人類が八百年にわたり争った戦争は、人類の敗北に終わった。神は罰として地上に大洪水をもたらし、世界の悉くを水底に沈めた。そして、敗北以前の『旧世界』を生きていた旧人類/オルデノートは、地上と冥界の間にある狭間の世界、アスハイロストへと追放された。その終焉の日を、『パラダイス・ロスト』と云う。
――緩衝帯遺世界=アスハイロスト――。
それは、生者の世界と死者の世界の狭間に存在する第三の世界。遥か遠い神代の時代、まだアスハイロストが存在していなかったころ、生者の世界は隣接する死者の世界から発生した「瘴気」の影響を受け、生命は絶滅の危機に瀕していた。その様子を見た、ある維持を司る神が、瘴気の影響が地上に及ばないよう、緩衝帯としての役割を果たす狭間の世界を創造した。
それが。この世界、アスハイロストの創世神話。
そして、パラダイス・ロストの後――。
アストラマキアで人間の味方をして楽園追放された天使、アニハは、「星掟統制機関:アークステラ」を創設し、新たな秩序として『星の掟』を制定した。元最高位の天使であり、到底人間では敵わない強さを持つアニハが抑止力となり、人類は星の掟に従って生きるようになった。
新秩序の下、アスハイロストでは、国に代わって『コミュニオン』が、王に代わって『主席魔導師/マスターマギア』がその役割を担う。また、コミュニオンは、自らの力で築き上げるか、聖戦を経て他のコミュニオンから奪うことで、領土となる「都市国家/キウィタス」を手に入れ、統治することとなる。主席魔導師の役職名はコミュニオンによって異なり、様々な呼び方がされる。
「風が吹けば死者が舞う」という俗諺が広く知られるほど、アスハイロストの環境は過酷だ。死者の世界――冥界から溢れ出る呪いを伴った瘴気は、これまでに何人もの命を奪ってきたのだろう。
01.『新しい日常』
SBTAの襲撃により、鯨殻街=ソルトマグナは壊滅。
あの惨劇を生き延びた市民はたったの十五人。その中の一人、キロシュタイン・ヴォルケ・ベッカーは、ゼロシキ商会の会長、アサン・クロイヴの支援によって無事に街を脱出したのだった。事件後、プホラ・フラスコ理事長と南ビアンポルト交易協会は組織ごと闇に消え、姿を消した。
真相は未だ不明。
プホラは、『星の掟』を破り民間人を虐殺をした凶悪犯として、星掟統制機関:アークステラから国際手配されている。また、彼が代表を務める南ビアンポルト交易協会/SBTAが、ハル・ナキア条約で禁じられていた奴隷貿易を秘密裏に行っていたことも、後々明らかになる。
あれから、十ヶ月が経ち――。
英雄歴3071年06月。
北ビアンポルト地方の南西に位置する千塔街=ブルクサンガ。――街は、異名の通り「千塔の街」として知られ、無数の尖塔が空に向かって伸びていた。赤煉瓦の屋根が一面を覆い、古びた建物の上に新しい世代のアーキテクチャが調和して共存する。旧世界の良き時代を彷彿とさせるような街並みは、まるで絵画のように美しく。どこを切り取っても、のどかな日常の物語が息づいていた。
街を東西に分ける大陸最大の川、ゼーラ川。その東側には、ヴァルテス城跡学園を中心として、教育機関や研究施設が整然と立ち並んでいる。一方、西側には穏やかな住宅街と賑わいを見せる商店街が広がっている。そしてさらに西へ進むと、街を一望できる「太陽の丘」にたどり着く。
その丘からの景色は、訪れる人々を魅了する街の名物となっている。
八月の初旬になれば。満開のひまわりが咲き誇り、黄金色に染まる太陽の丘。
――何者でもない何者かが影でひそひそと噂話をする。
この街には「裏側」が存在しているんだ。
裏側の街にある太陽の丘には、ひまわりじゃなくて、白いユリが咲くんだ。
白いユリが咲き乱れて、丘は白銀色に染まるんだよ。……、って。そんな噂話をね。
…………、
……、
東地区――。石畳が敷かれた坂道を上れば、ヴァルテス城跡学園にたどり着く。
かつて貴族の離宮として造営されたヴァルテス城。その堅固な城壁をそのまま校舎として利用しているヴァルテス城跡学園の敷地内には、礼拝堂、庭園、植物園、図書館、そして食堂と何でもあり、その広さと複雑さから、毎年新入生がお決まりのように迷子になるのも無理はない。制服は設けられていないので、生徒たちは皆、個性的な私服を思い思いに着こなしている。
時刻は午後二時を過ぎて、放課後。
人が少ない廊下の奥、一人の女子生徒が、数人の男子生徒に囲まれていた。
「ラテルベルさんよぉ。あんたが魔法使うのへったくそなせいで、オレらのクラスの評価、マジで下がりっぱなしなんだけど。今の時代ぃ? まともに魔法も使えない役立たずがよぉ。ァん?」
ガラの悪い男子生徒が、メンチを切って女子生徒を詰めていた。
ラテルベルと呼ばれたその女子生徒は、ただ言われるがまま、身を縮めている。
と、そこに。フードを被った一人の生徒が、雑巾を絞ったバケツを手に――。
……あっ、ごめん。手が滑った。
「はぁああ???」
男子生徒は、頭上に降ってくるバケツを見て、呆然と立ち尽くす。
そのバケツは彼に直撃する軌道をしっかりと描いていたが……。
「もうっキロちゃん!! やりすぎだよ!!」
そんな声とともに、どこからか放たれた魔法によって。
バケツは、中の水を一滴もこぼすことなく、廊下の床へと静かに落ちた。
まるでぴたっと、くっつくように。バケツは床に固定されている。
「おぉおおいッ!! またお前らかよぉ!!」
「はぁ……? また、って。こりないそっちが悪いと思うけど」
フードを被ったその女子生徒は、男子生徒の睨みに一切動じず、逆にメンチを切り返していた。無造作にまとめられたペールオレンジの長い髪と碧い瞳。左目を覆う、蝶を模した眼帯。白のプルオーバーパーカーに、デニムのワイドパンツ……その女子生徒の名は、キロシュタイン。
一年前、SBTAの襲撃によって故郷ソルトマグナを離れることになった、キロシュタイン・ヴォルケ・ベッカーだ。昨年十月にこの学園に入学し、今は高校生として日々を過ごしていた。
「あのー?? 喧嘩はやめましょうねぇー。先生呼びますよー??」
場の緊張感を破壊するような、満面の笑みでその場に現れたのは、青みがかった銀の髪をうしろで一つ結びにした少女――フェイト・ノア=ユーリスニュアである。立ち居振る舞いは楚々としていて、どこか神秘性を感じさせるオーラをまとう。彼女も、キロシュタインと同じく今は高校生一年生。
空色のベルテッドワンピースは、彼女によく似合っていて非常に可愛らしい。
まさに、高嶺の花。彼女を慕う……。
というより、崇拝する生徒が謎に多いのも、仕方がないといえるだろう。
「あーあ、なんか冷めたわ。行こうぜ」
ガラの悪い男子生徒は、下っ端を連れてぞろぞろと去っていく。
彼らに絡まれていた女子生徒は、キロシュタインとノアに向かって何度も頭を下げていた。
「あ、あのっ。ありがとうございました!!」
「……はっ。そうやっていっつもペコペコしてるからでしょ。魔法がへったくそとか、しょうもない理由で絡まれてたみたいだけど。じゃあわたしは? わたし、そもそも魔法使えないんだけど」
「あっ――のぉー、それは……。だってキロさん、魔法も、他の成績もトップですし……」
女子生徒は、キロシュタインのジト目を浴びて、さらに腰を丸めてしまう。
実際、女子生徒の言う通り、常に全科目で成績トップのキロシュタインに絡むような生徒は一人もいない。それに。魔法は使えないが、実技試験以外の魔法の知識量で、彼女を超える者はいない。
とまれかくまれ。キロシュタインに絡むと面倒だ、というのが本当の理由だろう。
「なら、あんたも努力して成績を上げればいいだけの話。いつもの場所で待ってるから」
「はっ、はいっ!! 先生!!」
「その呼び方はやめて」
女子生徒は、すたすたと歩いていくキロシュタインの背中を、てててと小走りで追いかけていくのだった。手を振って二人を見送りながら、ノアは「変わったね」と小さく呟く――。
…………、
……、
図書館には、チョークが黒板を叩く音だけが静かに響いていた。
キロシュタインと女子生徒ラテルベルは、ここ最近、放課後の自習時間をともに過ごすのが習慣になっていた。もっとも、その実態は、自習というよりキロシュタインが先生役、ラテルベルが生徒役という形に落ち着いているのだが。もちろん、メインは魔法の勉強である。
ラテルベル・ラズライト――。
赤みがかったブラウンの髪は、猫っ毛のボブで、ふわりとやわらかな質感を持っている。左耳の上から後ろへと、小さな編み込みが一筋施され、その編み込みの終わりには、ひまわりの髪飾りがさりげなく留められている。赤く燃えるようなルビーの瞳が印象的で、顔つきはたぶんクール系。
学年は、キロシュタインとノアの一つ上、高校二年生。今年で十七歳になる。
彼女とキロシュタインの初めての出会いは、一年前、あの日のソルトマグナまで遡る。……キロシュタインとノアのピンチをマークスマンライフルで救った、ゼロシキ商会の会長アサン・クロイヴ。――の、隣りでおどおどしていたアルバイトの少女。その少女が、ラテルベル・ラズライトだ。
ヴァルテス城跡学園の静かな隠れ家とも言える図書館には、二人以外に誰もいない。
ラテルベルは、真剣な顔つきでノートと黒板を行ったり来たり、にらめっこしていた。
「……おっけ、基礎は終わり。じゃ復習するよ」
チョークを置いたキロシュタインは、フードを脱いで、軽く伸びをする。
「はいっ、キロ先生!! 了解ですっ!!」
「先生じゃない。あと、年下はわたし。年上はあんた。敬語はやめて」
「けっ――、けいーー…………」
「フリーズしないで。わかった、敬語はそのままでいいから」
「うっ……かたじけない。キロさん、いや、キロさま」
「やめなさい。それなら先生って呼ばれるほうがマシよ」
と、そんなこんなを言いつつ。
キロシュタインの『本気/マジ』な魔法の授業が、いま開幕する――。