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31|『ヴァルプルギスの夜』

 闇に包まれたホールの中央。

 わずかな灯りの中に、ただ一人、立つ影があった。


 ワインレッドの長髪が、指揮の動きに合わせて揺れる。

 黒い燕尾服の裾が、彼の僅かな息遣いにすら応じるかのように微かに動く。

 その背中は、炎のような情熱と、氷のような静寂を同時に孕んでいた。


 オーケストラは静寂の中で彼を待っていた。

 ホールの天井には星座のごとく光が散りばめられ、

 舞台の上に並ぶ楽器たちが、月光のような柔らかな照明に照らされている。


 その瞬間。


 指揮者は、右手をわずかに上げた。


 指先が空を裂く。

 そのわずかな動きだけで、ホール全体が引き締まった。


 ――タクトが振り下ろされる。


 轟く金管。

 炸裂するティンパニ。

 高らかに響く弦楽の奔流。


 音楽が、爆ぜた。


 炎のように燃え盛る旋律が駆け抜ける。

 指揮者の両腕は空間を支配し、跳ね上がるバイオリンの弓を導く。

 激しくも精緻なタクトのわずかな揺らぎが、

 弦楽のクレッシェンドを導く。

 

 一瞬の溜め、

 鋭く切り込む右手の動きに、

 トランペットが呼応する。


 交響詩『タイヨウシング・エラ』。


 これは、栄光と終焉を奏でる音楽。

 栄華を極めた王国が、燃え落ちる運命を辿る物語。

 その音楽が今、オーケストラの奏でる壮大な調べとなって、

 ホールに轟いていた。


 指揮者はただ、背中で語る。


 激情の嵐の中にあってなお、彼の動きは一切の迷いを見せない。

 タクトの先が示すものは、燃え盛る太陽の光か、それとも滅びの業火か――。


 低弦がうねり、金管が雄叫びを上げる。

 ティンパニが雷鳴のように鳴り響き、

 観客席の誰もが息を飲んで、彼の背中を見つめていた。


 プホラ・フラスコ――。

 その名を、誰もが忘れ得ぬ時間が、今ここに刻まれていた。


 やがて、曲は終焉へと向かう。


 弦楽器がかすかな息遣いのように音を引き延ばし、

 木管が最後の音を名残惜しげに震わせる。

 タクトがふわりと浮かび、ゆっくりと降ろされた。


 ――完全な静寂。


 ホールに、世界の終わりのような沈黙が落ちる。


 その背中は、一切の感情を見せなかった。


 誰もが息を呑む中、指揮者はただ、

 ゆっくりとタクトを降ろした腕を元の位置に戻した。

 

 彼の背が、炎の残滓のように揺らめいて見えた――。




 …………、


 ……、




 ――音が消えた。


 オーケストラの調べが途絶え、

 観客の視線も、指揮棒の軌跡も、すべてが虚空へと溶ける。


 気づけば、世界は変わっていた。


 赤レンガの屋根が連なるブルクサンガの大通り。

 石畳の道を無数の足音が踏みしめ、

 トラムの車両がゴトリゴトリと揺れながら進む。

 

 晴れ渡る空の下、

 歴史ある建築が整然と並び、陽光に照らされていた。


 しかし、その整然とした光景の中に、

 明らかに異質な影があった。


 歩道の中央、仰向けに寝転ぶ男。


 手入れされていないワインレッドの長髪。


 薄汚れた紫色の制服、かつては威厳を誇った組織の制服。

 擦り切れ、穴だらけのクリムゾンレッドの大きなマントを羽織り、

 まるで地面に溶け込むように、陽の下で眠る影。


 口元が僅かに動く。


 ――彼はまだ、指揮をしている気分だった。


 タイヨウシング・エラの旋律を、小さく口ずさむ。

 かすれた声が、道行く人々の耳に届くことはない。


 だが、男には見えていた。

 青空に浮かぶ幻の楽団。

 彼の指揮に応じて、弦が震え、管が唸り、太鼓が轟く幻想。

 オーケストラは今もなお、彼の指先に従っているのだと信じていた。


 ――しかし、現実は違う。


 陽光に照らされた街は、

 彼をただの奇妙な男として映し出していた。

 

 すれ違う人々が、ちらりと彼を見やる。

 目を逸らし、歩調を速める。

 

 ある者は囁き、ある者は嘲笑し、

 ある者はただ無視して通り過ぎていく。


 その瞬間だった。


 男は突然、跳ね起きた。


 まるで舞台の幕が切って落とされたかのように、

 激しく身体を動かし、通りのど真ん中で踊り始める。


 両腕を広げ、足を高く蹴り上げ、

 マントが翻るたびに、赤い布が夕陽のように光を受ける。

 

 足元の石畳を踏み鳴らし、

 旋回し、跳躍し、狂乱のダンスを踊る。


 ――いや、それは舞踏ではなかった。


 指揮だった。


 彼の頭の中では、まだ音楽が鳴っている。

 見えない楽団を前に、指揮を執り、旋律に身を委ね、舞台を作り上げる。


 しかし、それはあまりにも滑稽な光景だった。


 通行人は男を避け、道の端へと寄っていく。

 目を合わせようとはしない。

 ただ、街の中で一人、見えない音楽を指揮し続ける男。


 やがて――、


 哀れむような視線が注がれ、

 乾いた笑い声が漏れ、

 都市のざわめきが、彼の狂乱を飲み込んでいった。


 彼のダンスに、観客はいなかった。


 ただ、石畳の街に落ちた影だけが、

 彼の動きに呼応するように揺れていた――。



 ◇



 ふと、俺は思い返す。

 あの日のことを――。


 シアナス・ヴィント・ベッカーの凛とした声。

 椅子を振り下ろす、ダンコ・ポートマンの姿。


 そして――。

 

 カルディアに乗ったあいつが俺を助けに来て、

 シアナスとダンコが殺された。 


「ダンコ――ダンコ、君を失った瞬間、」

「俺は暗闇に一人……孤独になった」

「……俺は……あの時死ぬべきだったんだ……」


 ……、


 ……、いや。


 違う、もっと前だ。


 対摂理・ジェミニ計画――。

 あの時、俺は、ハンネエッタに敗北した。


 あそこで、自ら死を選ぶべきだった。


「だが……」

「俺は悪魔の声なんかに耳を貸してしまった」



 〝人間は皆、愚かだ。誰もお前を救わない〟


 〝否定しろ。否定しろ――〟



 俺はメフィストに魂を奪われ、

 どこの誰かも知らないこの身体に魂を移された。


 あいつは俺を生かしたいんじゃない。

 滑稽な俺を見て、ただ笑いたいだけなんだ。


 あいつは俺を生かしたいんじゃない。

 滑稽な俺を見て、ただ笑いたいだけなんだ。


 ――力なく、よろよろと踊っていると、

 路地裏に佇む占い師の姿が目に入った。


 足が、勝手に進む。


 ブルクサンガの喧騒が遠のいていく。

 俺はいま、どこにいるのだろうか。



 占い師の女は、俺を見て微笑んだ。

 目元はベールで覆われ、表情の奥が読めない。



 彼女は、一枚のタロットカードを机の上にそっと置いた。


 ――『悪魔』。


 そして、その悪魔のカードを囲うように、

 五枚のタロットカードが静かに並べられる。


 ――『太陽』。

 ――『月』。

 ――『戦車』。

 ――『恋人』。


 そして、


 ――『運命の輪』――。


 だから、何だというのだろうか。


 だが、俺の手は勝手に動き、

 悪魔のカードを掴もうとした――その瞬間。


 

 パチッ――。


 

 カードが烈しく燃え上がる。

 炎は音もなく紙を喰らい、やがて灰となって散った。


 気づけば。占い師の女は、消えていた――。






   31.『ヴァルプルギスの夜』






 異変は、静かに、しかし確実に始まっていた。


 黒雲が空を裂くように渦を巻き、街全体を取り囲む。

 まるで、巨大な手が天から降りてきて、

 ブルクサンガを閉じ込めようとしているかのようだった。


 雲は回転しながら円を描き、

 徐々にその密度を増していく。

 

 光が次第に消え、明滅する空の裂け目から、

 全く別の世界が覗き始めた。


 ――宇宙。


 光のない、無限の深淵。

 しかし、そこには確かに何かが在る。


 幾重にも重なった魔法陣が、

 暗黒の虚空に浮かび上がり、次第に形を変えていく。


 やがて、それはもう一つの街を映し出した。


 逆さのブルクサンガ――。


 天空に、地上と鏡写しになったもう一つの都市がそびえていた。


 屋根の赤レンガも、尖塔も、

 ゼーラ川を跨ぐエレル橋も、


 すべてが裏返しに、空を大地として存在している。

 

 ゼーラ川は流れ落ちることなく、

 逆さの街の中で揺らぎ、空を貫くように静かに横たわっていた。

 

 その水面には、星空ではなく、

 ブルクサンガの裏側の建物が映り込んでいる。


 都市の中心――そこには、

 ブルクサンガの象徴である大観覧車、ブルクサンガ・サンがあった。

 

 逆さに、しかし確かに回転を続けている。

 まるで、異なる世界の時間がここで交錯しているようだった。


 しかし、異常なのは、それだけではなかった。


 太陽の丘があるはずの場所――そこは、

 一面のシロユリに覆われていた。

 

 白銀の花々が風に揺れ、香り立つその景色は、

 一瞬の間だけ、神聖な静けさを帯びていた。


 だが、その美しさはすぐに異形の狂気へと変わる。

 

 首のない子供たちが、その丘で踊っていた。


 シロユリの間を回るように、無邪気に、楽しげに。

 ただ、顔のない彼らは、どこにも笑みを浮かべることができなかった。

 それでも、楽しげに、嬉々として踊り続ける。


 そして――、

 都市全体を侵食する、巨大な影があった。


 

 悪魔の王・サンタキエロ。



 その存在は、裏側の街に根を張り、

 無数の触手を這わせ、静かに世界を呑み込んでいた。

 

 黒くうねる羽根、大気を切り裂く巨大な角、

 地を穿つように広がる根のような触手。

 

 その全貌は、ただ圧倒的な「存在」としてそこにあった。


 ――。

 

 裏側の街の路上で、

 一人の少年が、

 真上に広がる表側の街に向かって手をかざす。


 黄金色の髪を持つ少年――。

 だが、彼の足元に伸びる影。

 その頭部の形だけが、不自然に歪んでいた。


 まるで、クロユリの花弁が開くように。


 少年は、目を細め、ゆっくりと息を吐いた。


 薄く微笑む。


「……さあ、幕を上げようか」


 風が吹く。

 黒雲がうねり、逆さの街の灯が、息をひそめた。


「ヴァルプルギスの夜が――始まる。」

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