29|『始まりの白旗』
朝霧の残るテイルソニア中央庭園。
都市の中心に広がる幾何学的な美しさは、
夜の静寂から目覚め、ゆっくりと朝の光を浴び始めていた。
草木は、計算された配置のもと整然と並び、
石畳の小道は、まるで巨大な紋章を描くかのように交錯している。
噴水の水は、夜の冷気をまだ含みながら、
透明な流れを湛えて朝の陽射しを反射していた。
庭園を囲む荘厳な柱には、
神話的な意匠が施された彫刻が並び、
静寂の中、都市の歴史を物語るようにそびえ立つ。
そんな庭園のメインアプローチを、
キロシュタイン、ノア、ツキナの三人が歩いていた。
彼女たちの足音が、
まだ静かな都市の朝に、小さく響く。
29.『始まりの白旗』
――巨大な神殿の中を歩く三人。
キロシュタイン、ノア、ツキナの三人は、
メインホールへと進んでいく。
その両脇には、
アークステラの職員たちが整列し、
波を描くように、一斉に頭を下げていった。
まるで――、
一国の王にでもなった気分だ。
「うわ~、緊張するねー」
ノアは少し頼りない足取りで、神殿の床を踏みしめる。
やがて、
広大な円形のホールが目の前に現れた。
荘厳な建築、静寂に満ちた空間。
ホールの奥には、
アークステラの制服を纏った二人の人物が立っていた。
執政官、アニハ=サンタカージュと、
その秘書、ノイトぺセル・メンカリナンだ。
「クィンランカ、待っていたぞ。ノア、ツキナ、そしてキロシュタイン」
アニハは気さくに微笑みながら声をかける。
白銀と深碧のコントラストが美しい長衣を身に纏う、金緑色の髪の天使――アニハエル。頭上と背に浮かぶ黄金色の光輪は、彼女が高位の存在であることを表していた。しかし、どこか親しみやすさを感じるのは、彼女の表情や仕草に人間らしさが垣間見えるからだろう。
一方、アニハを守るように一歩前に立つ半天使族の秘書、ノイトぺセルは、常に戦闘に応じる構えを崩さない。彼女の姿勢は、まるで一瞬の隙も許さないような鋭さを持っていた。
「ク、クィンランカ!」
ノアがやや緊張しながら名乗る。
「フェイト・ノア=ユーリスニュアですっ!!」
ツキナも、
静かに一歩前へ出て、深く頭を下げる。
「……クィンランカ、はじめまして。ツキナと言います」
アニハは優しく微笑みながら、
二人と握手を交わす。
そして――、
神殿の荘厳な装飾に圧倒されていたキロシュタインは、
一拍遅れて前に出る。
「あ、クィンランカ、です」
「キロシュタイン・ヴォルケ・ベッカーです」
アニハは、
穏やかに頷く。
「うん、よろしくなのじゃ」
その声と共に、
キロシュタインの手が握られる。
白銀の手袋越しに、アニハの柔らかな温もりが伝わる。
「では、みなさん。お座りください」
ノイトぺセルが手を軽く動かし、
三人を円卓へと案内する。
壁沿いに配置された何段にも重なる長椅子、今は無人だが、星礼院主席会議が開かれればそこには、世界中の主席魔導師が集うことになる。この神殿がアスハイロストの中心と呼ばれる所以だ。
◇
――円卓の上に、静寂が落ちる。
キロシュタイン、ノア、ツキナの三人が席に着くと、
アニハが早速本題へと入ろうとする。
「――さて。四大悪魔、サンタキエロについてじゃったな」
だが、その言葉を遮るように、
キロシュタインがおもむろに立ち上がった。
アニハとノイトぺセルの目を真っ直ぐに見つめ、
そして、堂々と宣言する。
「その前に、ここで宣言したいことがあります」
はっきりとした声音。
ノアとツキナが、
驚いたように彼女を見上げた。
アニハは、
背筋を伸ばしながら興味深そうに尋ねる。
「なんじゃ?言ってみろ」
キロシュタインは一度深呼吸をし――。
そして、
普段よりひときわ大きな声で、力強く言い放った。
「わたし、キロシュタイン・ヴォルケ・ベッカーは――!」
「ここに、コミュニオンを結成すると宣言します!!」
その瞬間、
ノアの派手なリアクションが炸裂する。
「えぇーーっ!?!?!」
ツキナとノイトぺセルは、
表情こそ変えなかったが――、
一瞬、息を呑んだ。
アニハはただ一言。
「……ほう」
わずかに口角を上げ、
楽しげな光をその瞳に宿す。
ノアが驚きと興奮の入り混じった様子で問いかける。
「ねっ、キロちゃん本気?! 本気の本当なの??」
キロシュタインは、
至って冷静な口調で答えた。
「本気の本当よ」
「わたしは、コミュニオンを結成する」
その確固たる決意に、迷いは一切ない。
ノイトぺセルが慎重な口調で尋ねる。
「どのようなコミュニオンにするか、青写真はあるのですか?」
キロシュタインは一拍置いてから、静かに首を振った。
「それは、まだ分からない――」
「けど、わたしは自分で選択したいんです」
「誰かの下について、とか、どこかのコミュニオンに所属して、とか」
「そんな生き方じゃ、名も知られないまま、物語の脇役として死んでいくだけ」
彼女の言葉に、
ノアとツキナがじっと耳を傾ける。
「……わたしは、世界に自分の意志を刻みたいんです」
「主人公になりたいとか、そんな贅沢は言わない」
「だけど――『生きてるッ』て、心から思えるような生き方をしたい」
「だから、自分のコミュニオンを結成するんです!」
(わたしは"選ぶ"んだ。誰かの命令で動くんじゃない)
(誰かの組織に入るんじゃなくて、自分の意志で、"自分の物語"を作る)
キロシュタインの力強い宣言を聞き、
アニハは楽しげに笑った。
「ひひひっ、面白い!」
「なぁ、キロシュタイン。仲間は決まっておるのか?」
興味津々といった様子で問いかけるアニハに、
キロシュタインは即答する。
「ノアとツキナは確定。あと、ラテルベルも」
「他は……アサン会長がいると頼りになるんだけど……」
指を差されたノアとツキナが、驚いた表情をする。
「えっ!? ノア、確定なの?! 断らないよ、断らないけど、急だなぁ!!」
ノアは内心わくわくしながらも、
勢いよく身を乗り出す。
一方のツキナはもじもじとしながら、
「……あの、獄卒って副業してもいいんですか?」
と、疑問を口にする。
ノイトぺセルが静かに答えた。
「それは、問題ないはずですよ」
キロシュタインは、
アニハの反応をじっと窺うように見つめる。
「それで――宣言したんですけど、正直、思い付きで……」
アニハは軽く腕を組み、
顎を乗せながら小さく頷く。
「いや、いい! 面白そうなのじゃ」
彼女のあまりに軽い承認に、
ノイトぺセルが小声で進言する。
「アニハ様。よくお考えになって――」
しかし、アニハはそれを手で制し、
にやりと笑った。
「わかった。ならば、結成に条件を与えよう」
「そうじゃな……、……六人」
「 キロシュタインを入れて六人仲間を集めるのじゃ」
「今すぐ結成!! より、こっちのほうが面白いじゃろう?」
キロシュタインは目を丸くしながら、
アニハの言葉を繰り返す。
「六人……ですね」
「わかりました……集めます!」
キロシュタインは、力強く拳を握った――。
◇
――キロシュタインのコミュニオン結成宣言から始まった会議は、
本題である四大悪魔・サンタキエロの話へと戻る。
キロシュタインがゆっくりと口を開いた。
「サンタキエロは、アニハエルさんと同じように、かつては天使だったんですよね?」
その言葉に、
アニハは軽く頷き、懐かしむように目を細める。
「ほう、よく調べておるな」
「その通りじゃ」
彼女は遠い過去を思い出すように、言葉を紡ぐ。
「奴はかつて『無垢を司る天使』じゃった――」
「天界での評価も高く、七大天使の座を継ぐ可能性もあると云われていたな……」
アニハは、
言葉を区切るように小さく息を吐く。
何か引っかかることがあったのか、
彼女は、
キロシュタインをじっと見つめ、こう続けた。
「のぅ、キロシュタイン」
「その……天使名のアニハエルで呼ぶのはやめてほしいのじゃが」
アニハの意外な言葉に、
キロシュタインは軽く首を傾げる。
「え?」
その横で、
ノアが天使名に興味を持ったように、にこりと微笑む。
「えー、アニハエルって名前、ちょー可愛いと思うよぉー!」
その純粋すぎるコメントに、
アニハは思わず頭を抱えた。
「アニハエル三世、それが私の正式な天使名なのじゃが――」
「先代のアニハエル二世が、色々と破天荒じゃったせいで……」
「アニハエルという天使名は曰く付きとされているのじゃよ」
ツキナがぼそっと尋ねる。
「……アニハエル二世さんは、何をしたんですか?」
その問いに、
アニハは少し言葉を整理するように間を置き、
そして、静かに答えた。
「天使族だけが使えた魔法『人形塑躰術』の技術を天界から盗み、」
「その上、逃げた先の地上世界で人間の男と駆け落ち婚をしたんじゃよ……」
一瞬、沈黙が落ちた。
思ったよりリアルな話だった。
高位の天使族とはいえ、
やることは人間と変わらないらしい。
キロシュタインは鋭く勘づき、声を上げる。
「それって……アンヘルヴェルトの――」
「あの人、人形塑躰師だし、半天使族だし……」
「あれ? もしかして正解?」
キロシュタインの推理に、
アニハは静かに頷く。
そして、ノイトぺセルが代わりに答えた。
「そうです」
「アンヘルヴェルト・ノヴェルは、アニハエル二世のご子息です」
その言葉に、
ノアが驚いたように手を打つ。
「へぇー!! そこが繋がるんだねー!」
アニハは、
一つ咳払いをしてから、話を元のレールへ戻した。
「――で」
「無垢を司る、つまりは子供を守る天使じゃったサンタキエロが、」
「なぜ、悪魔の王になったのか」
アニハは、
軽く目を閉じて言葉を続ける。
「……簡潔に言えば、それは戦争のせいじゃ」
「奴は毎日のように繰り返される戦争の中で、」
「無情にも亡くなっていく子供たちの姿を見続けた」
「そして、深く……絶望し、やがて心を病んで――」
「堕天し、悪魔と化したのじゃ」
その言葉が重く響いた、次の瞬間。
ホールの中を――
ヒュゥゥゥ、と一陣の風が吹き抜ける。
突如として、時間の流れが変わった気がした。
――冷たい気配。
――空間の歪み。
――空気が、わずかに重くなる。
キロシュタインは瞬時に察知した。
これは――「何か」が現れる前触れだ。
「……?」
ノアも異変に気付き、
ツキナがそっと手を動かす。
アニハが微かに笑いながら、
ホールの奥を見やる。
その視線の先――。
扉の奥に、
ぼんやりと揺らぐ影。
それは人の形をしていた。
だが、
どこか歪んでいる。
次の瞬間、
影が――
ゆっくりと、ホールの中へ足を踏み入れた。
ホールに漂っていた静寂が、
揺らいだ。
その影は、ゆっくりと形を持ち始める。
まるで、世界の理を無視して"存在そのもの"がそこに現れるかのように。
長い髪が静かに揺れた。
その髪は、まるで朝焼けの光を含んだかのような淡い金色。
そして――、
黒い翼がゆったりと動く。
まるで風そのものが形を成したように、
彼はただそこに存在していた。
サンタキエロ。
四大悪魔のひとり。
だが、
その姿に、戦いの気配は一切ない。
彼の表情は穏やかで、静かで――。
まるで、
今この瞬間だけ世界が安らいだかのような錯覚を覚えるほどだった。
白の長衣が、ホールの光を柔らかく反射する。
黒の翼が、
まるで夜の闇を引き連れるように、ゆるやかにたゆたう。
彼の歩みは、
決して急がず、遅すぎず、自然な流れの中にあった。
空間に満ちるのは、
ただ、ゆったりとした時間。
その場にいた誰もが、
言葉を発することなく、
彼の歩みを見つめていた。
その一歩一歩が、世界に"何か"を刻むようだった。
まるで――、
神話の一頁が開かれる瞬間を、誰もが目撃しているかのように――。
◇
「――え、誰? この人」
ノアが訝しげに首を傾げる。
キロシュタインは、
確信はないものの、静かに断言した。
「この男は、おそらく……サンタキエロよ」
「まさか、ヒトの姿にもなれるなんてね」
その言葉に、
サンタキエロは穏やかに微笑む。
そして、
キロシュタインにゆっくりと手を差し出した。
キロシュタインは椅子から立ち上がり、
その手をしっかりと握る。
「――キロシュタイン、か。君は強い子だね」
サンタキエロの手は、
意外なほど温かく、柔らかい。
だが、
その指先には何か深い感情が宿っていた。
二人は短く握手を交わし、
それから円卓へと腰を下ろす。
サンタキエロも、
当然のように空いていた椅子に座った。
ノイトぺセルは警戒心を隠さず、
鋭い視線をサンタキエロへと向ける。
しかし――。
アニハは、
むしろ余裕すら感じさせる微笑を浮かべ、
彼を見つめていた。
そして、
懐かしむように、ゆっくりと口を開く。
「久しぶりだね、サンタキエロ」
「最後に会ったのは……千年くらい前じゃったかな?」
サンタキエロも遠い記憶を辿るように、
静かに目を細める。
「……もうそんなに前、か」
「あの頃のワタシは未熟だったな」
彼の穏やかな声が、
ホールの空気をさらに静謐なものにする。
そして、
短い沈黙が場を包む。
やがて――。
最初に沈黙を破ったのは、
キロシュタインだった。
「アンタの目的はなんなの?」
「ブルクサンガの街で、何をしようとしているの?」
サンタキエロは、
その問いにすぐには答えず、
ほんの少し考える素振りを見せた。
そして、
静かな声でゆっくりと語り出す。
「――ワタシは、子供だけの世界を創るつもりだ」
「暴力も競争もない、平和な世界……」
「束縛する者も、奪う者も、傷つける者もいない――そんな世界を」
「創る」
その瞳には、『憂い』が満ちていた。
決して穏やかな声を崩さず、
しかし、どこかに狂気を孕んでいる。
これが、
狂気を司る悪魔の王・サンタキエロ。
その底知れぬ異質さに、
しかし、キロシュタインは屈しなかった。
彼女は真っ直ぐに視線を向け、
さらに問いを投げかける。
「そんなのアンタのエゴよ。それに――、」
「同じようなことをして、対摂理・ジェミニ計画で失敗したじゃない」
キロシュタインは、
アルミナから聞いた計画の名前を口にする。
箱庭の中で平和に育てられたフラトレスの子供たち。
しかし、その理想郷が永遠に続くことはなかった。
サンタキエロは、
その言葉にわずかに眉を寄せ、
次の瞬間、
ほんの少しだけ怒りを滲ませた声で答えた。
「……オセとワタシを一緒にしないでほしい」
「あいつの計画は、最初から平和の崩壊を目的にしていた」
「ワタシの理想とは、根底から違う――」
サンタキエロの感情が揺らぐ。
それを逃さず、
キロシュタインは負けじと声を張る。
「じゃあ……じゃあッ!! なんでわたしのお姉ちゃんを殺したの!!!」
「ソルトマグナを襲った理由はなに?!」
「プホラとメフィストを裏で操っていたのも、アンタでしょ!!」
怒りと悲しみが混ざり合った声が、
ホールに響き渡る。
キロシュタインの鋭い視線が、
サンタキエロの心を射抜く。
しかし、サンタキエロは、
ゆっくりと目を伏せ静かに言葉を紡いだ。
「……あれは、メフィストの仕業だ」
「メフィストはワタシが生み出した子供の一人――」
「あいつを生み出すために使ったリンネホープには、」
「ひどく人間を憎み、否定する、破壊の感情が刻まれていた」
「そして。メフィストと契約したプホラは、」
「メフィストの声に導かれ、欲望を刺激された結果――」
「あのような……暴力的で、残酷な男になってしまった」
「ソルトマグナのことは……ワタシも怒りを覚えているよ」
「しかし、元を辿ればメフィストを生み出したワタシのせいだ」
「……本当に申し訳ない。あんなことになるとは思わなかった――」
キロシュタインの拳が震える。
行き場をなくした憤り。
この怒りを、どこにぶつければいいのか。
彼女は、
思わず壁に拳を叩きつけた。
拳に、血が滲む。
「キロちゃん!!」
ノアが驚き、すぐに駆け寄る。
そして、
自分の服の袖でキロシュタインの拳を拭った。
ノアの袖が、血で赤く染まっていく。
キロシュタインは小さく息を吐き、
ノアに短く謝る。
「……ごめん」
そして、
再びサンタキエロを見据えた。
「……ブルクサンガの裏側。そこにプホラがいるんでしょ?」
「もし、アンタがそこの管理人なんだとしたら――」
「――プホラを外に出して」
「わたしが、この手で殺すから」
キロシュタインの鋭い眼差しが、
サンタキエロの表情を貫く。
サンタキエロは、
しばし沈黙したあと、
決心したようにゆっくりと口を開いた。
「――キロシュタイン」
その声は、
まるで静かな湖面に波紋を落とすかのように穏やかだった。
「ワタシは、ずっと自分の理想に疑問を抱きながら生きてきた」
「何が正しいのか。何が間違っているのか」
「もはや、狂気を司る悪魔の王となったワタシに――」
「それを語る資格などないのかもしれない」
サンタキエロは、
一瞬だけ言葉を切る。
そして、
深く息を吐いたあと、
静かに、しかし確固たる意志を持って続けた。
「……だが、ワタシは絶対に諦めない」
「ならば、正しいやり方で決着をつけようじゃないか」
「お互いの怒り、悲しみ、憎しみ――正義をぶつけ合おうじゃないか」
その声には、
どこか儚さと決意が入り混じっていた。
そして――。
彼は、
静かに宣言する。
「……聖戦だ」
「そこで、プホラとメフィストを出すと約束する」
その言葉がホールに響いた瞬間、
ノイトぺセルが勢いよく立ち上がる。
「聖戦は、コミュニオンとコミュニオンの戦争です!!」
「あなたたちは――」
ノイトぺセルが言いかけたその時、
アニハがゆっくりと手を上げ、制した。
彼女は、
近くに控えていたアークステラの職員へと視線を向ける。
そして、
迷いのない声で命じた。
「きみ、旗を持ってくるのじゃ」
「何も描かれていない白い旗を」
執政官の命令を受けた職員は、
一礼し、すぐさま神殿の奥へと駆けていった。
ノイトぺセルは、
戸惑いを隠せないまま小さく尋ねる。
「アニハ様……よろしいのですか?」
しかし――。
アニハは、
迷いなく頷いた。
「――よいのじゃ」
しばらくして――、
白旗を手にした職員が戻ってきた。
アニハは、静かにそれを受け取り、
キロシュタインとサンタキエロに差し出す。
そして、二人は並んで腰を下ろし、
無地の白布に筆を走らせ始めた。
「……キロシュタインさん。絵も上手いんですね」
ツキナがそっと呟く。
キロシュタインは、
手を止めることなく淡々と答えた。
「術紋を描く練習をしてたら自然と上手くなってたのよ」
筆先が、布の上を舞うように滑る。
旗の中央に描かれていくのは――シカの紋章。
筆を走らせながら、
キロシュタインはふと問いかける。
「ねぇ、ノア、ツキナ」
「これは仮だけどさ。コミュニオンの名前、何にする?」
ノアは、
何かを思い出したように人差し指と小指を立て、
オルデキスカのサインを額に当てた。
そして――。
「やっぱり、オルデキスカっ! でしょー!!」
その声は、
まるで祝福のように、ホールに響いた。
隣りでツキナも、
ぎこちなくオルデキスカのサインを真似する。
「……オルデキスカ?」
ツキナの疑問に、
ノアは嬉しそうに頷く。
「そう。ツキナちゃん、これはね」
「魔女の祈りって意味で――」
一方、円卓の向かい側では――。
サンタキエロが、
同じように旗に紋章を描いていた。
その旗には、
悪魔の象徴である黒いヤギと、シロユリ。
深く沈んだ黒と、
純粋な白の対比。
それは、
彼が抱く理想と現実の矛盾を象徴しているようだった。
数十分後――。
キロシュタインは、
筆をそっと置いた。
彼女は、
旗をじっと見つめる。
その瞳には、
わずかながら達成感が滲んでいた。
正式なものではない。
それでも――、
彼女は今、確かに何かを形にした。
向かいでは、
サンタキエロも筆を置いていた。
そして――、
アニハが静かに立ち上がる。
「――では、聖戦の旗立式を行う」
その言葉と共に、
ホールの空気が引き締まる。
―――― ◇◆◇ ――――
――神殿の裏庭。
朝の陽光が、静かに庭園を照らしていた。
夜明けの名残を留めた冷たい空気が漂い、
無数の旗と石柱が立ち並ぶ。
ここは、決戦を誓う者たちが旗を掲げる場所。
そして今――、
新たな戦いの火蓋を切る儀式、
旗立式が執り行われようとしていた。
アニハ=サンタカージュが、
荘厳な雰囲気の中、静かに前へ出る。
「それでは、旗立式を執り行う。両者、前へ」
その言葉を受け、
キロシュタインとサンタキエロが、
それぞれの陣営を代表して進み出た。
キロシュタインの手には――。
白地に、シカの紋章が描かれた旗。
その角は天空を指し、
まるで未来を切り開こうとする意志を象徴していた。
サンタキエロの手には――。
漆黒のヤギとシロユリの紋章。
二人は、互いに旗を掲げる。
その瞬間、
庭園を吹き抜ける朝の風が旗を大きく揺らした。
アニハの声が、
清らかに、そして厳かに響く。
「星の掟に従い、互いの命を尊重せよ。――己が正義に誓えるか」
キロシュタインは、旗を握る手に力を込め――、
迷いなく宣言した。
「誓います!!」
サンタキエロもまた、
静かに頷き、穏やかな声で言う。
「――誓う」
両者は、旗を交差させるように突き合わせる。
その動作は、
まるで互いの決意を重ね合わせる儀式のようだった。
ノイトぺセルが、
無表情のまま前へ進み出る。
そして、
落ち着いた声で告げた。
「では、旗を突き刺してください。」
キロシュタインとサンタキエロは、
それぞれの旗をしっかりと握り直し、
そして――。
同時に、地面へと突き立てた。
旗布が大きく揺れた。
その瞬間、世界が動き始める。
風に煽られ、
陽の光を浴びながら、二つの旗が翻る。
キロシュタインは、
自分の旗がしっかりと地面に根付いたことを確認し、
静かに息を吐く。
サンタキエロは、
わずかに目を閉じ、
旗の揺れをじっと見つめた。
朝の空気が、張り詰める。
誰もが立ち尽くし、
ただ、翻る二本の旗を見つめていた。
それは、これから始まる戦いの象徴。
それは――この物語の、始まりの白旗だった――。




