12*|Episode Lazu[L // R]ite – 停滞 β -
フラトレス地下都市の奥深く、ファウスト博士のアトリエは異様な雰囲気に包まれていた。
棚には無数の薬草が詰め込まれたガラス瓶が並び、それぞれに古代アーキ語で記されたラベルが貼られている。部屋の隅には、鉄の大釜がゆっくりと泡立ち、淡い蒸気を放っていた。天井には無数の鎖と吊るされたランタンが揺れ、薄暗い光が壁に映る。
壁には神声文字が無数に刻まれ、古代の元素周期表が掛けられている。その傍らには、祖式錬金術の緻密な魔法式が描かれた黒板があり、そこには消えかけたチョークの跡が見えた。机の上には、積み上げられた魔導書、錬金術の記録、使用済みの羊皮紙が雑然と置かれ、金属製の器具が細かい反射を放っている。
まるで知識と研究の塊のような空間。
その中で、一人の男が静かに座っていた。
ファウスト博士。
今の時代では希少な存在となった、原初の魔法を使う祖式錬金術師――。
神経質そうな丸メガネの奥にあるのは、鋭くもどこか落ち着かない目。
彼は机の上に置かれたレコードプレーヤーに手を伸ばし、盤をセットする。
カチリ。
針が落ち、やがて優雅な旋律がアトリエに響き渡る。
「やはり、タイヨウシング・エラは素晴らしい……っ」
ファウスト博士は呟く。
「枝典神歌の『太陽の王国編』をモチーフにした歌詞。――そして。作曲者アナ・グラの、数学と魔法の黄金理論に組み込んだ音楽性が見事に調和している……、ァあ……いいっ……」
彼はため息をつきながら、ペンを手に取り、日記を書き始めた。
『ファウスト博士の日記
英雄歴 3062年4月14日――』
計画開始から一年。
ジェミニ計画は順調に進行している。
この一年をかけ、彼らの記憶を慎重に再構築した。
洗脳という手段は、実のところ一瞬で完了することも可能だ。
しかし、人間の脳は思った以上に狡猾だ。
急な変化にはすぐに違和感を覚え、排除しようとする。
それでは計画の根幹が揺らいでしまう。
だからこそ、じっくりと時間をかけた。
彼らの悲劇的な過去と外の世界の記憶はすべて消去し、新たな認識を植え付けた。
今の彼らはこう信じている。
・「外には恐るべき化け物『錆の魔女』が存在し、それから身を守らなければならない」
・「フラトレスは、希望のシェルターであり、この場所で守る術を学ぶことこそが使命である」
・「錆の魔女と人類の最終戦争によって、世界中の都市が滅び、多くの人類が亡くなった」
・「自分たちは、残された人類を救うための選ばれし英雄である」
これが、彼らの「今の真実」だ。
だが、計画の本質はここでは終わらない。
:戦い方を知らない者たちが初めて剣を握るとき
事を急いてはならない。
彼らに戦う術を教えるのは、まだ早い。
戦う術を持つ種族は、秩序を作り、自らを律することができる。
だが、守ることしか知らない種族はどうだろう?
彼らは、「守る」という行為の中でしか生きる術を学ばない。
戦い方を知らず、怒りを抑圧し、衝動を制御する手段を持たない。
それはまるで、広大な草原に生きる草食動物のようなものだ。
彼らは獲物を狩ることを知らず、外敵に立ち向かう方法も学ばない。
しかし、その状態のままでは、いざ危機が訪れたとき、無力のまま終わる。
では、もし彼らが初めて「戦わなければならない」と認識したとき、どうなるのか?
戦いを知らずに育った者が、初めて戦闘を経験したとき、人間は制御不能な捕食者へと変貌する。
戦争を知る者は、戦いを「目的のための手段」として理解する。
だが、戦争を知らない者は、「本能としての戦い」に取り込まれる。
戦いを制御することを学ぶ前に、暴力の快楽を知ればどうなるか。
彼らは、抑圧からの解放によって、極限の攻撃衝動を生み出す。
これは、私が導き出した理論の結論である。
だからこそ、彼らが十二歳になるまでは、平和な世界を与え続ける。
戦いを知らないまま、心を抑圧し続けるのだ。
そして、最後の扉が開かれたとき、彼らはどんな力を解放するのか。
それを知るのが、私の役目であり、対摂理・ジェミニ計画の最終到達点である。
:彼らの変化と計画の進行
オパール姉妹のクロとシロ。彼女らは他の双子よりも過酷な経験をしている分、現実を疑う能力が優れていた。そして、ラズライトのアル(アルミナ)は、想像以上に注意深く、賢しい子だ。
この三人の記憶の書き換えには時間がかかった。
しかし、それもついに完了した。
今の彼らは、過去を忘れ、
ブリキ人形の住民たちに疑念を抱くことなく、私を博士と呼んで慕っている。
あとは、彼らが十二歳になるのを待つだけだ。
フラトレスの中で、穏やかに、平和の中で、時を停滞させながら。
計画は、順調だ――。
Dr.Faust
12*.Episode Lazu[L // R]ite – 停滞 β -
フラトレス地下都市。
エリア:「プラネタリウムの箱庭」にて――。
「なあ、エル。他の惑星にさ、オレたちが住める場所ってないのかな?」
ぼさぼさの天然パーマをしたエメラルドは、左手にコーラ、右手にスナック菓子を抱え、だらしない格好のままプラネタリウムの天空に映し出された無数の星を眺めていた。
この一年で、彼はずいぶんと幸せ太りをした。
たぽたぽと膨らんだお腹が、笑うたびに小さく揺れる。
突然の問いかけに、エル(ラテルベル)はおどおどとしながら口を開く。
「いっ――あ、あるとおもう! 住める場所っ!! だって宇宙は広いもん!」
「だよなぁー。その星みつけたら、もう錆の魔女とかこわくないよな!!」
エメラルドはスナック菓子の粉がついた指先を軽く払うと、満足げに笑った。
「もうっ、エメラルドくん、ばっちいよ!!」
エルが眉をひそめ、じとっとした視線を送る。
しかし、当の本人は気にも留めず、能天気に笑い続けていた。
エメラルドがぽいと投げたペットボトルのゴミは、無重力のようにゆっくりと床へ落ちた。
すぐにブリキ人形の清掃員が現れ、カシャン、カシャンとぎこちない動きでそれを回収する。
エルは、その光景をじっと見つめた。
光り輝く星の投影を背景に、整然と動く無機質な人形たち。
なぜか、胸がちくりと痛んだ――。
◆◇
エリア:「お菓子工場の箱庭」には、三人の少女の姿があった。
アメシストとシトリンの姉妹、そして、アクアマリンだ。
ここは、まるで夢の世界だった。
地面も、空も、川も、家も――すべてがお菓子で作られた空間。
カラフルな砂糖の道を歩き、ふわふわのマシュマロの丘を越え、どこまでも甘い香りに包まれながら、三人の少女たちは持ってきたかわいい柄のブリキ缶に、お菓子をいっぱい詰め込んでいた。
アメシストは、クッキーを家のドアから剥がして取り、川に流れるチョコレートを塗る。
シトリンは、飴玉が実る木から、色とりどりの飴をもぎ取って缶に詰め込む。
そして、三人の中で年長者のアクアマリンは、空からふわりと降り注ぐバニラアイスの雪を、せっせと缶で受け止めていた。
甘い。美味しい。甘い。楽しい。
ここを訪れる子供は皆、思考を停止させ、ただ純粋な甘い欲に溺れる。
「ねぇ、みんな!! お菓子あつめたら、つぎのばしょに行こっ!」
舌足らずな口調で、シトリンが呼びかけた。
「まだ! いまパフェ作ってるから、まって!」
シトリンの姉、アメシストが、チョコまみれの手を振りながら応える。
「ああ……ああっ、また落としちゃった……!」
アクアマリンは、バニラアイスの雪集めに四苦八苦していた――。
◇◇◇
フラトレス地下都市――中央吹き抜けの回廊。
夜の帳がフラトレスを包むころ、三人の影が静かに吹き抜けの周りに立っていた。
この場所は、フラトレスの中心。
箱庭の層が無限に積み重なり、無数のエスカレーターが蜘蛛の巣のように交差する巨大な空間だった。彼らが立つ回廊からは、その複雑な構造が一望できる。下を見れば、まるで終わりのない迷宮のように箱庭が続く。ひとつひとつの箱には、違う景色が広がっていた。
学校、遊園地、病院、教会、森のような箱庭さえあった。
この吹き抜けは地上から円形の穴が貫くように開いており、真上を見上げれば夜空が広がっている。
星々は濃紺の天幕に散りばめられ、流星が時折その静寂を裂く。名も知らない星座と、ぼんやり明るい半月。工場プラントの巨大なシルエットもまた、夜の影となって静かにそびえ立っている。
三人のうち、クロが吹き抜けの手すりにもたれながら、不機嫌そうに呟いた。
「錆の魔女をさっさと倒して、こんな世界、早く抜け出してやる」
彼女の声は硬く、灰色の髪が月光を浴びて淡く輝く。
「クロはまたそんなこと言って……。12歳まで平和に暮らすって、博士に言われたでしょ?」
シロが少し困ったように言った。
クロとは対照的に、彼女の髪は柔らかく風に揺れている。
夜の静寂がその声を包み込むようだった。
「でも、なんで待つ必要があるんだろう」
ふいに、アル(アルミナ)が口を開く。
彼は吹き抜けを見下ろしながら、少しだけ眉を寄せた。
「それに、そんな化け物、本当にいるのか。声もしないし、ここを襲撃されたこともない」
この一年間、錆の魔女の存在を示すものは何もなかった。
「アルくんも、疑いすぎじゃない?」
シロがアルを見上げる。彼女の銀の瞳には、どこか迷いが浮かんでいた。
「ねっ! 12歳までに強くなって、それで錆の魔女を倒すんだよっ!」
シロは励ますように胸の前で両手をぎゅっと握る。
「強くなるって言っても、なんの勉強もさせられてないけどな」
クロが短く吐き捨てる。
その言葉に、アルは静かに頷いた。
「そうだな……。魔法の勉強もなければ、戦う術も教わってない。武器だって与えられてない。ただ毎日、夢の国で幼稚な遊びを繰り返すだけ。これで『選ばれた英雄』って言われても……」
クロは、手すりを強く握る。
「おかしいよな。こんなの……本当に私たちは『英雄』なのか?」
誰も答えない。
彼らの周りには、ただ静かに動くエスカレーターの音だけが響いていた――。
◆◇◇
フラトレス地上部――。
工場プラントの中心にそびえ立つ鉄星炉。
その巨大な円筒形の炉は、天を突くほどの高さを誇り、外壁には脈打つように光る魔法紋が刻まれている。ゆっくりと回転する外装部が、炉の脈動とともに幾何学的な光を投影し、内部に明滅する無数の機械の影を浮かび上がらせていた。
炉の内部は、まるで神殿のような異様な空間だった。
天井は見えず、無数の巨大なクレーンとハンガーが組み込まれ、膨大な機械部品が所狭しと吊り下げられている。炉の中央には、魔法起動機兵――カルディアの開発が進められていた。
巨大なハンガーの中心部。
そこに、鋼鉄の塊のような機体がそびえ立つ。
高さ25メートル。
影の中に潜むそのシルエットは、人型をしているが、人ではない。あまりにも巨大で、あまりにも威圧的なその姿は、まるで巨神の彫像のようだった。
カルディアの装甲は、層を成すように重ねられた聖鉄によって覆われている。
多重装甲の構造が、まるで炎のごとく層を成しながら、堅牢な防御と機動性を兼ね備えていた。
各所に鋭角的なパーツが組み込まれ、流れるようなシルエットの中にも鋭い突起が混在している。その形状は、あたかも炎が天を貫くようなデザインを意識したもののように見えた。
頭部には、王冠のような構造体が配置され、その中央には、まだ輝きを見せない眼のレンズが埋め込まれている。――腕部は、力強い造形でありながらも洗練されていた。
手甲には炎を象った意匠が施され、各関節には推進用のエンジンノズルのような機構が備わっている。
脚部は、大地を踏みしめるための強靭な造りとなっており、ヒール部分には逆関節のサポートユニットが付属していた。
背部には、展開可能なユニットが組み込まれ、今はその形状を静かに閉じているが、いずれ開けば太陽の翼のようなシルエットを形作ることだろう。
そこで働く作業員たちは、魔法駆動のパワードスーツを装着していた。
彼らのスーツは、浮遊ユニットを搭載し、炉の内部を自在に飛行しながら、重く巨大な部品を軽々と運び込むことができる。スーツの動力源には、小型の魔法起動円盤/ディアノイアが搭載されており、飛行中には魔法陣のような紋様がかすかに発光していた。
「第七装甲、搬入完了!」
無線が飛び交い、パワードスーツを着た作業員たちがカルディアの胴体部分へと装甲を取り付けていく。部品が炉の奥から運び込まれ、クレーンがゆっくりと精密な動作で組み上げを進める。
全体像はまだ闇に沈んでいる。
しかし、確かに、その機体は形を成していた。
作業が進む中、炉の中央に立つカルディアの頭部がわずかに傾ぐ。
そして――。
眼が、淡く輝いた。
ほんの一瞬。
まるで、機体が自らの誕生を悟ったかのように。