12 ゆうやみ
リンはヘルメスに連れられ、湖を後にする。
それが湖だということはヘルメスに教わった。
細い木々と光に囲まれた、石橋と同じ白い石で舗装された道を行くと、一軒の小屋を見つけた。廃屋というにはまだ新しく、家というには少々寂れている。
中に入れば外見を裏切ることはなく、傷だらけの床には埃にまみれた寝台が一つと、同じく埃を被ったたんすが一つ。かなり古いが、よく見ると部屋の様子はリンが今まで住んでいた居住区のそれと大して変わらない。勿論そこには人の住んでいる気配は無く、リンの期待はことごとく裏切られた。
あっけにとられたリンの後ろでヘルメスが息を吐く。
「あちゃ……人の住めるようなところじゃねぇなあ、こりゃあ」
そう言ってヘルメスはその小屋の裏手に回り、そして両手に何かを持ってリンの元へ戻ってきた。何も言わずに両手のそれらをリンに向かって放り投げる。
上手く受け止めようと前に出していた両腕を、刺すような痛みを感じて咄嗟に引っ込める。リンの腕に収まることなくそれらは床に転がった。
すすだらけで干からび、原形が予測できないほどボロボロに破れた何かと、木でできた筒のようなもの――その口の広いほうには取っ手がついていて、狭いほうは縁がささくれ立って触ると痛い。先ほど腕を刺した痛みはこれだったのか。しかし今度こそリンの腕の中で大人しくしているそれらを見ても、その正体は判然としない。リンはそのうちの、棘の無い方を親指と人差し指で軽くつまみ、ヘルメスに問う。
「何これ……」
「雑巾とバケツだ。見れば判るだろう」
判らないから訊いた。雑巾だと言われた方はまだしも、底の抜けたバケツはどう考えても使いようがない。
「修行の前にまず掃除だな。頑張れよ」
部屋を出て行きざま、肩をポンと叩かれ、リンは背中越しにヘルメスを呼び止める。
「え、一人で?ヘルメスは手伝ってくれないの?」
「当たり前だろ。自分の部屋は自分で掃除するんだ」
悪戦苦闘しながら掃除を終えて外に出ると日は沈もうとしていた。
「結局一日がかりか。修行は明日だなぁ……」
溜息を一つ落とし、水拭きされて木の匂いを濃くした床から頭を上げる。後頭部を締め付けられるような感覚を覚えて、一瞬目の前が暗くなった。
暫くして立ちくらみが落ち着くと、雑巾と同じ色になってしまった手足を洗うため、リンは湖まで歩いていった。ほとんど屈みながらの作業だったので、歩く度に膝がギシギシと音を立てる。
湖に着くと、朝とはまるで景色が違っていた。
木に囲まれた湖畔は影に呑み込まれている。青かった空は黄昏の赤、湛えられた雲は墨を入れられ、色が反転している。血と影に染められた世界。
恐怖感を抑えながら水の中に手を入れる。手をこすると汚れは素直に落ちた。次に足を浸け、リンは少し前方に石橋を見つけた。その上には、一つの人影。
(あの時の……)
沈みかけた太陽の逆光で顔は見えない。手早く足の汚れを落としてサンダルを履き、石橋まで歩いていった。
橋に足を乗せようとして、やめた。リンは見た。
人影はやはり、少年だった。一枚の布を肩から掛け、腰を布で縛っている。剥き出した肩から下、裾から覗く膝下。その肌はリンのそれとは似ても似つかない。
――酷い火傷の痕。
少年は気付いていないようで、頭を動かさず、ただ遠くの空を見ている。大きな風が吹き、影に染まった木々が俄かに騒ぎ出した。
風の声、大地のざわめき。リンは最近、同じ物を感じたことがある。あの音、この感覚。授業を投げ出し、シンバルドから逃げ出し、挙句、夜の草原に迷ってしまったあの夜ととても良く似ていた。
「シニタクナイ……シニタクナイヨ……」
風音に混じった別の声を、リンは聞いた。か細い、少女のような声だった。リンはいよいよ怖くなって、踵を返し、そのまま小屋を目指して駆け出した。