悲しみの情景 3
『俺はカイン。お前は?』
――――前に出会った戦友は、俺を庇って戦死した。
『僕はルーヴァだ』
――――こいつはどんな死に様を、俺に見せてくれるだろう。
衝突する光と闇が多くの命を奪った天地大戦から数千年が経ち、悲しい傷跡は天界の記憶にのみ封印された。
長い年月をかけて穏やかな時間を再び手に入れた天界に、彼はたったひとりで存在していた。
誰も彼を知る者はいない。そして彼もまた自分について確かな事は何ひとつ憶えてはいなかった。
多くの時代を生きた。多くの名前を語った。望まない輪廻を繰り返すうちに、彼は自分の中にある小さな虚無に気付き始める。
何か大切なものを手放してしまったような喪失感。うわべだけの友情や仮初めの愛では決して埋める事の出来なかった胸の隙間。それが何であるのかを彼はずっと前から知っていた。けれど、思い出す事は出来なかった。
それを知るのは彼ではなく、運命の落し子を待つ『彼』だけなのだから。
彼女の名は、アーシェと言った。
星の宮殿に保護された数少ないエセルの生き残りだった彼女は、魔物襲撃によりすべてを失っていたにも関わらず、率先して他の怪我人の手当てを行っていた。
次々と運ばれてくる負傷者たち。片腕を無くした者や背中を深く抉られた者たちの中には、呼吸の浅い瀕死の者もいる。治癒魔法の追いつかない混乱に満ちた状況下で、アーシェの手伝いは大きな助けとなった。
魔道士としてではなく医者としてエセルの街に住んでいた彼女は、こういう時何をどうすればいいのか誰よりもよく知っている。帰る場所も家族も友も失ったが、今は悲しんでいる時ではない。傷付いた命を助ける為に、自分はここにいるのだ。
呪文の詠唱と苦しみ呻く声が木霊する室内に、突然荒々しい音が響き渡った。外側から豪快に扉を蹴り開けてずかずかと中に入ってきた男に、一瞬誰もが目を奪われた。
珍しい紫銀の髪と冷たい輝きを宿す淡いブルーの瞳。あまりにも整いすぎた顔からは、神に似た高貴さすら感じられる。息をするのも忘れて男に魅入っていたアーシェは、彼の肩に担がれている血まみれの人物に気付いてはっと目を覚ました。
「おいっ! 急患だ、急患っ。出来ればこいつを先に診てやってくれ」
他者の言葉を通さない強い口調で叫んだ男が、壁際の空いた所に抱えていた大荷物を静かに置いた。
「ルーヴァっ!」
血まみれの人物が自分の弟である事に気付いて、セシリアが唱えていた呪文を思わず中断した。取り乱したように駆け寄ってきたセシリアへ視線を向けて、カインが事の顛末を簡潔に話して聞かせる。
魔物を倒してここに戻ってくるまでの間、ルーヴァはずっと口を開かなかった。体温はみるみるうちに低下し、意識も不安定な状態が続いていた。時々怯えたように周囲を見回したかと思うと、今度はぶつぶつと聞き取れない言葉を呟く。星の宮殿が見える頃には、もう彼の意識は完全に途絶えていた。
「ルーヴァ? ルーヴァっ!」
弟の傍に座り込んで治癒魔法を施そうとしたセシリアを見て、カインが無駄だと言い放つ。戦いに長けた者でも治癒魔法の知識くらいは、多少なりとも身につけているのが普通だ。明らかに瀕死の状態であるルーヴァに対して、カインがそれを行わないはずがない。しかし、魔法はすべて拒否された。なぜだか理由は定かではないが、ルーヴァの体が魔法を避けてしまっているのだ。これでは手当てのしようがない。
「そんなっ」
目の前で拒絶された治癒魔法に愕然と肩を落したセシリアが、言葉を詰まらせて唇をきつく噛み締めた。魔法が効かないのならセシリアにルーヴァは治せない。魔法を拒絶する原因を調べている間に、ルーヴァは確実に死んでしまうだろう。時間はない。けれど、助ける方法も見つからない。
「私がやりますっ」
緊迫した雰囲気を破ってそう言ったのはアーシェだった。
「個室をひとつ貸して下さい。あと水と清潔なガーゼを出来るだけたくさん。なければ布でも構いませんっ。急いで!」
医者として、アーシェはルーヴァを助けなければと思った。しかしそれは、後に彼女自身をも巻き込む悲しい不幸を招き寄せる。ルーヴァを助けるという行為そのものが罪であるという事に、アーシェはまだ気付くはずもなかった。




