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飛べない天使  作者: 紫月音湖(旧HN・月音)
第5章 終わらない夜
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悲しみの情景 2

 漆黒に濡れた空間。そこはもはや闇ではなく、虚無に包まれていた。光は勿論、風も闇もない。シェリルの存在さえ留まる事を許されずに、指先からぼろぼろと風化していくようだった。それほどまでに自分以外のすべてを否定し、拒み続ける無の空間。

 そこは地界ガルディオスへ続く道の途中。地界神ルシエルの孤独が生み出した場所。己を傷つけるものも愛するものも何もない虚無の空間を、シェリルは瞳を閉じたままゆっくりと降下していく。意識はなく、ただ落ちていくだけのシェリルは、それでも細い両腕の中に銀色の剣をしっかりと握りしめていた。





 闇に残る銀の軌跡。


『お前もあの女も、神とは名ばかりだな。人以上に弱く脆い。特に、お前は』

「黙れっ!」


 嘲笑う闇を切り裂く男の怒号。


『存在理由を失ったか? ならば我らがお前に生きる意味を与えてやろう』

「ふざけるなっ!」

『強がっていられるのも今のうちだ。我らはお前を壊す術を有り余るほど持っている。そしてお前は、それに抗う術を何ひとつ持っていない』





 ぼろぼろに錆びた螺旋階段。赤茶けた細い手すりに吊るされた古めかしいランプが、足元を弱々しい光で照らしている。歩く度に軋む階段の終着点は闇に覆われ、道案内役に灯されたランプの炎だけが響く足音に揺れながらはるか下の暗闇まで続いていた。


 目は開けているものの心ここにあらずという感じで、シェリルの視線はひどく曖昧だった。瞬きひとつしない翡翠色の瞳の先に、大きな鏡が置かれていた。揺れる水面のように細い波紋を幾つも浮かべながら、そこに映る姿を容赦なく歪ませた鏡に、シェリルはなんの躊躇いもなく手を伸ばす。表情は依然としてぼんやりしたままだったが、意識は確実にシェリルの中に残っていた。

 指先が鏡に触れた瞬間、シェリルが眠るように瞳を閉じる。体は冷水を浴びたように一気に芯から凍っていった。





 大地を揺るがす轟音。

 なぎ倒される木々の間から飛び出した鳥たちが、逃げ場を求めて一斉に空へ駆け上がる。白い鳥の群れを追うように空高くまで伸びあがった土煙の中から、ぬらりと光る鱗に覆われた巨大な体が現れた。どす黒い巨体にびっしりと張り付いていた鱗は火傷のように赤く爛れて、所々が無惨に剥がれ落ちている。

 長い舌をでろりと出して額の傷を舐めながら、巨大な黒い魔物が血色の両目で辺りをぎろりと睨みつけた。その視線を受けて、シェリルが思わず息を止める。瞬間、シェリルの後ろで厳しい声が木霊した。


「気を抜くな! 奴はまだ死んではいない!」


 凛と響いた男の声にシェリルが振り向くより早く、真下の森の中に蹲っていた魔物が、牙を剥き出しにした口を開けて紅蓮の炎を吐き出した。炎は空中にいるシェリルの体を通り抜け、その後ろで武器を構えていた戦士たちめがけて容赦なく襲い掛かる。不意打ちの攻撃に多くの者が倒れる中、ただひとり青い髪をした男だけが魔物の後を追い、空から森へ降下していった。


「隊長!」

「君は負傷者の保護を。誰もこの先へは踏み込むな!」

「しかし……」

「君たちでは手に負えないっ」


 そう言って森の奥へ姿を消した男を見つめながら、シェリルはこの光景が過去の出来事だという事を確信する。なぜなら、今シェリルの目の前を通り過ぎていった男の顔には見覚えがあったから。そして彼の瞳は、まだ失われてはいなかったのだから。




 傷は決して浅くはなかった。迫る炎から仲間を守ろうとして張った結界が仇となった。呪文を最後まで唱えられず、未完成の結界は炎を前にしていとも簡単に崩れ落ちたのだ。咄嗟の判断で魔力を溜めていた右手を盾に炎をせき止めはしたものの、衝撃に耐え切れずルーヴァはそのまま弾き飛ばされてしまった。

 あの炎には神経を麻痺させる毒が含まれていたのだろう。炎を止めたルーヴァの右手からは、すべての感覚が失われていた。これでは武器を扱う事も出来ない。


「……ちっ」


 苛立った表情で舌打ちをして、ルーヴァは自分の右手を睨みつける。多くの天使の命を奪った魔物。やっと追い詰めた絶好のチャンスを、ここで無にする訳にはいかない。視線の先に蠢く魔物をぎろりと睨みつけて、ルーヴァは残った左手にサファイア色の短剣を握りしめた。






 彼は、そこにいた。

 いつからそこにいるのか、何をしていたのかはまったく覚えていなかった。

 気がつくと、視界の隅で見知らぬ男が魔物と戦っていた。

 多くの時代を生き、幾多の名前を持つ彼が『カイン』として目覚めた瞬間だった。





 高く響いた金属音と共に、サファイア色の短剣が円を描きながら宙を舞った。武器を失い一瞬躊躇したルーヴァの隙を逃さず、魔物が全力を振り絞って体当たりする。魔物の決死の攻撃にルーヴァは勢いよく吹き飛ばされ、真後ろの大木へ激突した。衝撃は重く、内臓や骨が粉々に砕け散ってしまったかのような耐え難い激痛がルーヴァの全神経を震わせ、彼は立ち上がる事も出来ずにそのままぐったりと木にもたれかかってしまった。

 咳き込んだ拍子に吐き出された大量の血液が、衣服を真紅に染め上げていく。武器を失った左手を固く握り締めて、ルーヴァはゆっくりと近付いてくる魔物を鋭い目つきで睨みつけた。


(やっと追い詰めたんだっ。ここで負ける訳には……)


 ぎりっと歯を食いしばって、ルーヴァは魔物を睨みつけたまま、残った魔力を左手に集中し始めた。神聖すぎて恐ろしくもあるその力は、命を削る聖魔力。ルーヴァの左手に宿ったそれが青い龍の姿を象って、敵を威嚇するように大きく口を開けたその瞬間。


「自分の命までかけて戦う相手か?」


 真上から聞こえた突然の声に、ルーヴァがはっと目を見開いた。その視線の先、二人の間に音も立てずに降り立った声の主は、どことなく創世神を思わせる神々しさを身に纏っていた。


「き……君は一体」

「黙って見てな。こいつは俺が殺ってやる」

「戦うつもりか? 無茶だっ。負傷しているとはいえ、奴はエセルの街を壊滅させた魔物だぞ!」


 ルーヴァの言葉に耳を貸す様子もなく、男は魔物と向かい合ったまま右の手のひらから銀色に輝く剣を召喚させる。本気で戦うつもりの男にぎょっとして、ルーヴァが更に大声を張り上げた。


「本気かっ? 死ぬぞ!」

「怪我人が良く吠える。俺が死ぬって言う根拠は、どこにあるんだ?」


 うんざりしたように答えて、男がルーヴァへ視線を移す。


「大体、俺は死ぬ気がしない」


 断言してにやりと笑みを浮かべた男に、ルーヴァは何か得体の知れないものを感じていた。


 エセルは有能な魔道士たちを育てる為に造られた街のひとつで、天界の戦力の一片を担っていた。同じ目的で造られた他の街より小規模な運営ではあったが、そこに集う者たちは熟練した魔道の使い手ばかりで、魔物による多少の攻撃など心配の対象ではなかった。

 それが、たった一夜にしてほぼ全滅。僅かな生き残りは星の宮殿へ保護された。

 ルーヴァは戦士たちの中でも特に能力の高い者だけを集め、その精鋭部隊の隊長として魔物討伐に出向いたのだった。しかし魔物の圧倒的な力を前に、彼らはその攻撃を相殺するだけで精一杯だった。やっとの思いで魔物に致命傷を負わせる事が出来たが、それまでに失った仲間の数は予想をはるかに超えていた。


 ルーヴァの右手を麻痺させたあの炎は、死に際の一撃だったはずだ。しかし死を目前にしてもなお、力の衰えない魔物にルーヴァは苦戦を強いられた。天界戦士一の実力を持つ彼でさえ倒せない魔物を、この男は簡単に倒してやると言ってのける。どうやって。


 男の後ろ姿を困惑した表情で見つめていたルーヴァが瞬きをしたその一瞬に、魔物は男の剣によって頭部をはね飛ばされ、悲鳴を上げる事もなくあっけなく倒されていた。轟音を上げて崩れ落ちていく魔物をぽかんと見ていたルーヴァの前で、男は何事もなかったかのように大きく伸びをしてみせる。


「死んだのは俺か? それともあいつか?」


 動かなくなった魔物の巨体を指差して尋ねた男に、ルーヴァが不自然な笑みを浮かべて緩く首を左右に振る。


「……君は……」


 そこで言葉を切って、ルーヴァは今さっき目にした光景を頭の中で整理しようとする。けれど彼が見たのは魔物を切り裂く銀の軌跡の残像だけで、気がつくとすべてはあっという間に終わっていたのだ。

 安堵したのか混乱しているのか、曖昧な表情のまま溜息をついたルーヴァの上に、ふっと影が落ちた。人の気配を感じて顔を上げたルーヴァの前に、男が不敵な笑みを浮かべて立っていた。


「君のおかげで助かった。……ありがとう」

「お前、死ぬつもりだったのか?」


 問われて、ルーヴァが男から視線を逸らす。


「……解らない。けれど、どうしても倒さなければと思っていた」

「どっちにしてもそのままじゃ確実に死ぬだろうな」


 恐ろしい事をさらりと口にして、男がルーヴァに手を差し出した。

 その手のひらには、男を変える希望があった。仲間を信じ、大切なものを守り、たったひとつの愛に気付く力を秘めていた。それが『カイン』である証。


「お前の帰る場所へ連れてってやるよ。どこかで野垂れ死にされても困るしな」

「……」


 目の前に差し出された手を暫く見つめていたルーヴァだったが、思い直したように男へと視線を戻すと、疲れきった顔にかすかな笑みを浮かべた。


「……それじゃあ、悪いけどよろしく頼むよ。えぇと……」

「カインだ。お前は?」

「僕はルーヴァだ。……突然の出会いに救われたよ。実はもう、動く事も辛くてね」


 苦笑しながらそう言って、ルーヴァはゆっくりと左手をカインへ伸ばす。お互いの手が重なり合った瞬間、二人の間には確かな友情が芽生え始めていた。

 そしてこの時から、カインの時間も運命と共にゆっくりと動き出す。今はまだ『カイン』としての人格に、何の疑いも持たないまま。


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