悲しみの情景 1
夜を真似た漆黒の闇が、星に似た封印の文字の向こう側でざわざわと揺らめいている。ドーム状に天界を包んだ結界の外では、魔剣と闇の王の復活によって更に数を増した魔物たちが、赤い目をぎらつかせながら天界への侵入口を必死になって捜していた。束の間といえど一時の休息を得た天使たちは避けられぬ戦いの為に万全の準備を整え、天界には再びぴりぴりとした緊張感が漂い始める。
魔物が空を覆い光を奪ってから、どれくらいの時間が流れたのだろう。太陽は撃ち落され、闇が世界を支配しているようにも思えた。天界は徐々に光を失い、反対に闇は止まる術を知らずどこまでも膨張していく。それを象徴するかのように、五芒星の砂漠には暗黒の瘴気が激しく渦を巻いていた。砂漠の姿すら見えないほど大きく膨らんだ瘴気はアルディナの力によって辛うじて抑えられ、天界を蝕む事が出来ずその場に色濃く留まっている。
天界にありながら、もっとも邪悪で危険な場所。魔剣の封印が解け、地界ガルディオスへの道が開いたのだ。今はまだアルディナの力で止めてはいるものの、衰えを知らない地界の闇がいつ結界を破って溢れ出すか解らない。もし地界への道が完全に開いてしまったのなら、天界をドーム状に包んでいる結界が内側から破壊され、そこに待ち構える魔物が一斉に攻め込んでくるだろう。
けれどシェリルは、この道を通って地界へ行くと決めた。
『私、ガルディオスへ行きます。そこにカインがいるなら……会いに行かなくちゃ』
闇に捕われている間何が起こったのかをアルディナから聞いて、シェリルは迷う事なくはっきりとそう言った。自分がやるべき事、自分にしか出来ない事をシェリルは知っている。ルシエルの思いに応えられるのがシェリルしかいないのなら、同じようにシェリルの思いに応えられるのもたったひとりしかいない。
『地界への道を一瞬でも開けば、魔物はそこから侵入してくるだろう。私たちは結界維持と魔物撃退の為、天界に残らねばならない』
アルディナが何を言おうとしているのかを知り、シェリルはそこに集う四人の天使たちをひとりひとり見つめながら、最後に強く頷いた。
『……ひとりで、大丈夫です』
シェリルの真っ直ぐな瞳の奥で、アルディナが消えてしまいそうに儚い笑みを浮かべる。
『地界への道を開くと同時に、私はこの身を核とした結界を作る。これで一時的とはいえ、地界から溢れ出る闇を抑える事が出来るだろう。セシリアとリリスたち魔道士はその結界の維持に努めて欲しい。それでも防ぎきれなかった魔物の討伐に天界戦士を。指示はルーヴァ、頼む』
アルディナから直々に命を受け、セシリアたち三人が短く返事をして頭を下げる。その横に立つシェリルへゆっくりと手を伸ばして、アルディナが心を決めるように深く息を吸い込んだ。
『行こう。道は砂漠の墓標にある』
街の上空を忙しく飛び交う天使たちの姿は、白い小さな光のように暗闇に細い軌跡を描いていた。忌むべき場所を避けて飛ぶ彼らの瞳に、シェリルたちの姿が映る事はない。
ルーヴァの指示のもと準備を続ける天界戦士らは、そこでこの戦いの本当の意味を知る。たったひとりの人間に、すべての命運を委ねる事。そしてこれは闇の王を倒す為ではなく、救う為にある戦いだという事を。
伸ばされた手の細い指先を嫌うように、瘴気がざあっと音を立てて後退した。中に入ってきたアルディナに悲鳴を上げてざわめく瘴気は、しかし砂漠の結界から逃げ出す事が出来ずに大きく身を捩る。
光に浸食され消滅していく闇のように徐々に色をなくし始めた瘴気が、アルディナに触れてなるものかと次々に砂漠の中へ身を潜めていく。結界内だけが激しい砂嵐に遭い、その外で様子を見ていたシェリルたちの視界からアルディナの姿が完全にかき消された。
「アルディナ様!」
シェリルの声をも飲み込んだ砂漠は幾つもの闇の帯を絡ませながら、まるで何かに引き寄せられているかのように、瞬きする間もなく地中深くへ吸い込まれる。後に残ったのは魔剣をなくしたただの砂漠と、その中央に立つアルディナの姿だけだった。
「シェリル。ここへ」
すっと手を伸ばして、アルディナが静かにシェリルを呼んだ。解っていた事なのに一瞬息を詰まらせたシェリルが、アルディナを見つめたまま無意識に身構える。
「気をつけてね、シェリル。彼はカインであると同時に闇でもあるわ。危険だと感じたなら、すぐ戻る事。いい?」
いつもとは明らかに違うセシリアの声音に、シェリルの体が更に緊張する。かちかちになった体を動かしてぎこちなく頷いたシェリルを見て、リリスがふっと柔らかく微笑んだ。
「そんなに緊張してちゃ、何も出来ないわよ」
「……うん」
「解ってると思うけど、ルシエルを救うのは憐れみや涙ではないわ。大切なのは貴女の気持ちよ。……さぁ、シェリル。カインを連れて戻ってらっしゃい」
ぽんっと叩かれた肩から温かい力が流れ込んで、シェリルの中から余計な力が消えていく。リリスの言葉に心までもがふっと軽くなり、シェリルはその優しい力を体中に感じながら祈るように目を閉じた。
「……じゃあ、行って来ます」
一言ずつ言葉を噛み締めてそう言ったシェリルがにこりと微笑んで、アルディナの待つ砂漠の中央へ走っていった。
瘴気の消えた砂漠はそれでも冷たい憎悪を剥き出しにして、足を踏み入れたシェリルの意識を体から引きずり出そうと、目には見えない触手を伸ばしてくる。体の内側にべたりと張り付く触手の不快感は、涙のかけらを求めて降り立ったあの呪われた地で感じたものとよく似ていた。
「ムーンロッドを」
アルディナに言われて、シェリルは右手に握りしめていた銀剣を差し出した。剣を受け取り、もう片方の手でその刃に触れたアルディナが、すうっと瞳を閉じて呪文を唱え始める。その音はアルディナの唇から響いては来なかったが、空気の僅かな乱れから呪文を感じ取った剣がぽうっと淡く輝いて、滑らかな刃の表面に薄紫の古代文字を浮かび上がらせた。
「この剣がシェリルの周りに結界を作る。これで下等な魔物や闇は近付けないはずだ」
剣をシェリルに返して、アルディナが深く息を吸い込んだ。
「地界への道を開く。準備はいいか?」
「……――――はい」
はっきりと返事をしたシェリルを見て、アルディナが緊張していた表情をふっと和らげる。目を凝らしてよく見ないと解らないほどかすかな微笑を浮かべたまま、アルディナはシェリルの隣に佇むカインの姿を思い、その幻を瞳に焼き付けるようにゆっくりと瞼を閉じた。
「ルシエルが……」
そこで一度言葉を切って、アルディナはおもむろに自分の髪の毛を一本だけ引き抜いた。光の糸にも似た髪の毛はアルディナの手の中で黄金に輝く一本の剣へと姿を変え、辺りは突如として降り注いだ光の粒子に包まれる。
「ルシエルがカインとして過ごした時間は、無駄ではなかったのだな」
光の雨を見上げていたシェリルが、静かに呟かれたアルディナの言葉を耳にして視線を戻した瞬間。アルディナの手に握られていた黄金の剣が、乾いた砂の大地めがけて勢いよく突き立てられた。
――刹那。
大地を覆っていた砂が、消えた。
それはあまりにも突然の出来事で、シェリルは瞬きを終えるか終えないかの内に、アルディナと二人荒野の真ん中に立ち尽くしていた。
「深淵に惑う闇の渦」
凛と響いた言霊に続いて、辺りの空気が鈴を鳴らしたかのように振動を始める。黄金の剣を中心として渦を巻き始めた風が、かすかに響く鈴の音に共鳴して脈打つように大きくうねった。
「其は狂気」
アルディナの言葉に合わせて、風の中から一本の細い線が北へ伸びる。
「其は涙」
次いで飛び出した二本目の線は、金色の光を纏いながら東へ。
「其は孤独」
三本目はゆっくりと、水が流れるように南へ。
「其は悪夢」
最後は乾ききった荒野の西へ伸び、それぞれの線は意思を持つかのごとくそこから右へ滑り、隣り合う線の先端と重なり合う。砂漠だった場所を囲うように細い金色の線で描かれた円が、淡い光を放ち始めた。
「月を汚し堕としめたるは、闇の王」
呪文とも詩とも取れる不思議な旋律で奏でられるアルディナの言霊はそれだけで魔力を孕み、枯れ果てた荒野に巨大な光の魔法陣を形成させた。
「凍った其の手に絶望と虚無を望むなら、我が身を喰らいて来るがいい」
深々と突き刺さったままの剣が、言葉に合わせて一瞬だけ真紅に染まる。かと思うと、まるで何者かに引きずられたかのように、黄金の剣がずるりと地中へ吸い込まれた。
「闇を裂き、此れを制する絶対の名を、四肢に刻みて朽ち果てよ」
剣を飲み込んだ大地は左右に大きく揺れ動き、その震動から弾き飛ばされるようにして、魔法陣に組み込まれていた文字が空中へと移動した。それは見る間に赤く輝いて、シェリルたちの前方、北の方角から時計周りに色を変えたかと思うと、硝子が砕けたような悲鳴を上げて光った順番に弾け飛ぶ。
「我が名はアルディナ」
硝子の悲鳴よりもはるかに小さなアルディナの声は、けれどその場に混在するどの音よりも凛と強く木霊して、シェリルはその厳格な響きに思わず体を震わせた。
粉々に砕け散った文字の破片は朱金に煌きながらアルディナの肌に髪に纏わりついて、シェリルの前からアルディナの姿を完全に覆い隠していく。アルディナが小さな虫に食い尽くされているような錯覚。そのおぞましい幻覚を自分の中から追い出そうとして、シェリルが強く頭を左右に振った。
「地界へ続きし道を開く、唯一無二の剣である」
アルディナを包む光の侵食と共に、それまで静かに続けられていた呪文が薄い唇の先で終わった。
封印を解き、地界への扉を開くのはアルディナ。アルディナは封印解除の魔法を全身に纏って、扉を開く為の鍵となる。扉は現れた鍵を受け入れるだけでいい。
「……シェリル。――――弟を、頼む」
静かに一言だけ呟いたアルディナが、シェリルの返事を待たずに剣と同様ずるりと地中へ吸い込まれた。鍵を受け取った不完全な扉は、失われた呪文を今度は反時計回りに刻み込んで、大地に再び光の魔法陣を形成させた。
真紅に煌く魔法陣の中央にただひとり取り残されたシェリルが、見開いた翡翠色の瞳にじわりと蠢く闇の触手を捉えた瞬間、足元の乾いた大地が轟音を上げて縦にばっくりと引き裂かれた。
「きゃあっ!」
大口を開けた大地の裂け目に成す術もなく落下したシェリルの体が、その向こうで妖しく蠢いていた闇の影にすっぽりと覆い隠されて完全に消えた。
べったりと張り付いた暗黒の触手は体の内側にまで染み込んで、シェリルのすべてを侵そうとする。振り払っても群がり来る触手の中に、逃げ道などひとつもなかった。思考は闇に遮断され、奪われようとする意識の片隅でシェリルが最後に見たものは、洪水のように溢れ出す闇をせき止めた藍色に輝く水晶の結界と、その中に閉じ込められた彫刻のように美しいアルディナの姿だった。
それは不思議な光景だった。例えるならば、光射す海底を思わせる深く静かな夜の色彩。
封印の枷を失い狂ったように溢れ出した闇は束の間の自由を得てすぐ、藍色に揺らめく巨大な水晶へ再び閉じ込められていく。逃げ道を塞がれ激しくうねる闇によって藍から黒へ一気に色を変えた水晶の中央には、何者にも汚す事の出来ない創世神の姿があった。
核であるアルディナを倒さない限り、水晶の結界が完全に破壊される事はない。周囲に集う魔道士たちの役目は、この結界を維持する事。戦士たちの役目は、地界の闇に引き寄せられてくる魔物を退治する事。そして落し子は地界神を救う為、たったひとりでガルディオスへと降りていく。
今、この瞬間に、最後の戦いが幕を開けた。




