表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
飛べない天使  作者: 紫月音湖(旧HN・月音)
第3章 涙のかけら
36/83

望まれぬ子 4

 荒い呼吸を整える間もなく走り続けていた。

 立ち止まる事は出来ない。それは即ち、ディランの死を意味していたから。

 心臓が壊れてしまったかのように鳴り響いて、その煩い鐘の音にも似た鼓動音をディランは耳のすぐ側で聞く。


(……どうして? 僕、何もしてないっ。何もしてないのにっ!)


 震える足では上手く走る事さえ出来ず、ディランは何度も転びながらやっと井戸の影に身を隠す事が出来た。

 さっき洗い流したシャウルの血の臭いがまだかすかに残っていて、ディランは咳き込むのを堪えるように口元を両手できつく押さえ込む。咳の代わりに瞳から零れ落ちた大粒の涙は滑らかな頬を伝って、ディランの膝を冷たく濡らしていった。


「……殺したのは僕じゃないよっ! 何にも悪いことしてないのに……どうしてみんな僕のこと嫌うの」


 物心ついた時から、ディランはいつもひとりだった。誰も一緒に遊んではくれなかったし、大人たちもディランを怯えたような、あるいは憎しみに近い目で見つめていた。楽しかった記憶はひとつもなく、心の底から笑った事もない。母親の優しい笑顔も腕に抱かれた思い出も、ディランにはなかった。彼の存在を認め愛された過去が、ディランには何ひとつなかったのだ。

 体がぎくんと震えた。

 心のどこかでとっくの昔に気付いていたそれを改めて知らされたような気がして、ディランが涙の止まらない目をぎゅっときつく閉じる。


 ――僕は要らない子供。嫌われた子供。呪われた子供。

 ――誰も僕を必要としない。この世界にすら見捨てられた存在。

 ――受け入れてくれるのは、闇だけだ。


「違う! 僕はっ……僕は魔物なんかじゃないっ!」


 心に響く認めたくなかった本当の声を振り払うように、ディランが強く首を振る。その真後ろで、血も凍る冷たい声がした。


「お前は魔物だ、ディラン。村を脅かす魔物と同じなんだよ」


 振り返った先に鈍く光る、大きな斧。

 頭めがけて振り下ろされた斧を間一髪で避けたディランの右腕に、ずしりっ……と鈍い痛みが走った。


「ぐあっ!」


 小さな腕にはあまりにも負担の大きかった斧の衝撃は、そのままディランの体を遠くへと吹き飛ばした。一瞬にして鉛のように重くなった右腕は絶対に気を失わせてはくれない激しい痛みをディランに与え、それだけで彼の呼吸は止まってしまいそうになる。腕がまだついているのかどうかさえ確かめる事も出来ず、ディランはその場にがくんと膝をついて倒れこんだ。


(い……嫌だ。死にたくないっ)


 溢れ出す血と一緒に熱まで急速に奪われ、「死」と言う言葉に恐怖を覚えたディランが、涙に濡れた瞳をゆっくりと閉じかけたその時。


『ディラン! ディランっ!』


 遠い記憶の片隅で彼の名を呼び、腕を伸ばして泣き叫ぶエリザの姿を見た気がした。


「……か……さん」


『母さんがお前を助けてあげるから』


 消えようとしていた意識を傷付いた手で引き戻したディランの瞳が、かすかに生気を取り戻す。ぎゅっと強く握りしめた左手で体を支え、何とか顔を上げる事に成功したディランの視界が真っ白な優しい光に包まれた。かと思うと、ディランはいつのまにか自分の家の前に立ち尽くしていた。斧を振り下ろしたあの男の姿は見当たらず、深く切り付けられた右腕も、それがまるで夢だったかのように綺麗さっぱり元通りに戻っている。

 痛みこそなかったが体から失われた力は戻っておらず、一歩前に進み出たディランはそのままがくんと地面に座り込んでしまった。その拍子に自分の胸元へ吸い込まれるように消えていった白い光を目にしたディランが、さっき脳裏に浮かんだ覚えのない記憶をぼんやりとした頭の中に思い出す。


 空へ手を伸ばし、必死にディランの名を呼ぶ母エリザの姿を見下ろしていた事。

 出せない声で泣き喚いていた事。

 胸を埋め尽くす恐怖と不安と淋しさ。

 そして右腕から全身、小さな心臓にまで届いた死を意味する激痛と熱い涙の雨。

 その時自分を包み込んだ光と今さっきの光から同じ温もりを感じ取ったディランは、己の中に確かに存在するかけらが命を救ってくれたのだと言う事を知った。それと同時にかけらが自分の運命を狂わせていた事も。


「……こんなのいらないよ」


 力の入らない手でごしごしっと目を擦って、重い体を引きずりながら立ち上がったディランは、母の待つ家の扉をゆっくりゆっくりと開いた。





 明かりもない暗い家の中に、エリザの姿は見当たらなかった。

 母さん、と音のない声で呟きながらぐるりと家の中を見回したディランの耳に、あの不気味な金属音がかすかに届く。


「ディラン、ちゃんと謝ってきた?」


 開けっ放しにしていた扉の向こうから聞こえたエリザの声に安心感を覚えて、誇りまみれの部屋へ駆け込んだディランの前に、相変わらず背を向けたまま何かを整理しているエリザの姿が現れた。途切れる事なく続く金属音の隙間に、ディランの嗚咽がかすかに混ざる。


「駄目だよ。みんなっ、僕の話……聞いてくれな……。僕を……殺っ、殺そうとっ!」


 母親の姿を見つけてほっとしたのか、それまで我慢していた涙がぽろぽろと零れ落ち、ディランの頬をくしゃくしゃに濡らしていく。その涙を拭う事もせず、そのままそこで泣き崩れてしまいそうになったディランを止めるように、エリザの声が金属音と重なって不気味に響き渡った。


「そうでしょうね。……お前は魔物の子ですもの」


 静かに言ってゆっくりと振り返ったエリザが、涙に濡れた瞳を大きく見開いたディランににっこりと微笑んで手招きをする。


「こっちへいらっしゃい、ディラン。お前に話す事があるわ」


 逆らえない口調に不安を感じながら、それでもディランはエリザへ救いを求めるように駆け寄った。母の温かく優しい腕の力を感じたかったから。ディランが助けを求め縋り付けるのは、もうエリザひとりしかいなかったから。


「お前の髪の色はあの人を思い出させるわ。私の愛したレヴェリック。優しかったレヴェリック。……でも、お前は彼の血を引いていない」


 ぽつりぽつりと話しながらエリザは自分の側に来たディランを後ろから抱きしめて、どこにも逃がさないように腕にきつく力を込める。そのあまりに強い力に痛みさえ感じて顔をエリザに向けたディランの頬が、熱い涙の雫を受け止めた。

 ディランを抱き遠くを見つめたまま静かに涙を流すエリザの唇が震えるように動いて、過去の悲しい出来事をディランに告げる。


「レヴェリックは殺されたわ。かけらを狙う魔物に。……そして、お前はあの人を殺した魔物の血を引く子供なのよ」

「……かっ、母さ」

「お前にこの気持ちが分かる? レヴェリックだと思って愛した相手が、彼を殺した魔物だったなんてっ。その魔物の血を引くお前をどうやって愛せと言うの?」


 ディランを捕まえたエリザの腕が、さらに強く力を増す。それは止まる術を知らないエリザの涙のように、ディランの体をきつくきつく締め上げていった。


「……愛せるわけがない」

「母さっ。……苦しっ!」


 力の出ない手で必死にエリザの腕を解こうともがくディランの体が、次の瞬間激しく床に叩きつけられた。

 騒がしい音を立てて床に散らばった薬瓶の破片や医療器具が、倒れたディランと同じ目線で鋭い光を反射した。その細い銀色の光をひとつ手に取ったエリザが、ディランを上から押さえ込むように体重をかけて圧し掛かる。


「母さっ……! やめて……どうしてっ」


 何よりも信じていたものが、ディランの中で悲鳴を上げて砕け散る。

 幼い少年を助ける者は、どこにもいなかった。

 この世界で彼を認めてくれるものは、誰ひとりいなかった。

 信じて縋った母でさえ冷たい目を向け、闇に属する魔物ですらディランではなくその中に取り込まれた涙のかけらを欲している。


 彼は限りなくひとりだった。

 誰からも愛されず、認められず、必要とされない。


「ディラン。お前は生まれてきてはいけなかったのよ。この世界に……お前は要らない」


 涙に濡れた瞳が絶望に大きく見開かれた。その瞳の中でエリザがさっき手に取った銀色の光を放つ一本のナイフを、ゆっくりとディランの上に振り上げる。


「いっ、やだ! ……嫌だっ、死にたくないよっ!」

「恨むならどうか私を恨んで。あなたを止める事が出来なかった私を……。ディランを愛せなかった私を……恨んで、そして罰して。…………レヴェリック」


 ディランにレヴェリックの姿を重ねて見たエリザの頬からぼろぼろと零れ落ちる涙は、ディランの顔に熱い雫の雨を降らせた。


 震える白い手に握られた銀色のナイフ。

 凍ったように冷たい瞳。

 そしてそれとは反対に、感情を表す熱を持つエリザの涙。


 真実と嘘の入り交ざったこの呪われた村で、ディランが唯一理解する事の出来た真実。それは残酷に振り下ろされた銀のナイフ、それだけだった。



『母さんが、お前を助けてあげるから』



「……母さ……っ!!」


 涙で歪んだ視界を切り裂くように現れた美しい銀色の軌跡は、消え行くディランの意識の中にいつまでもはっきりと焼きついていた。


 救いを求めて伸ばされた手。力なくぱたりと落ちたディランの小さな手に、彼の胸を深々と突き刺したナイフを握らせたエリザが、その刃先を自分の喉元にぴったりと押し当てた。鋭い刃の切っ先がエリザの白い肌をぷつんと刺して、彼女の喉に鮮やかな赤い花を咲かせていく。


「……あぁ、あなた。その手で私を、罰して下さい」


 辛うじて瞳を開いていたディランの視界が、色鮮やかな美しい赤一色に染まった。


『お前は要らない子』


 遠くの方でエリザの声を聞きながら、ディランはこの時やっと母親の温かい腕に包まれた。

 鮮血の花を咲かせた、エリザの……温かい腕に。






 冷たい石の祭壇に無造作に放り投げられた動かないディランの体。

 エリザと己の血で体は真紅に染まり、胸に空いた傷口からは今でも細々と血が流れ続けている。

 儀式場には村人全員が集まっていた。そして短い命を終わらせた少年の体を祈るように見つめながら、静かにその時を待つ。

 彼らが待つのはディランの中に取り込まれた涙のかけら。

 ディランは死んでもなお、村人たちに必要とされる事はなかった。


 ごうっと激しい風がディランの体を中心にして渦を巻き始めた。それに合わせてディランの胸元の傷口から淡い光がちらちらと見え隠れし、それを目にした村人たちが歓喜の声をあげて喜びをあらわにする。

 涙のかけらを取り戻し、これでやっと村も前のように平和な時を迎えられると誰もがそう信じて疑わなかったその瞬間――――。

 鼓膜を突き破るほどの激しい轟音が村全体に響き渡った。それとほぼ同時にディランの中から完全に姿を現した涙のかけらが、目も開けられないほど真っ白な光を炸裂させた。







『このまま死んでゆくのを、お前は受け入れるのか?』


 もうないはずの意識の中でディランは黒い闇と向かい合っていた。


『……――――誰?』

『お前は光ある世界では生きてゆけぬ。黒に染まった我と同じように、闇の中にだけお前の安息はある。誰もお前を責めない。殺さない。お前を捨てる事などないと誓おう。このまま無念に死んでゆくか、我と共に闇に生きるか……――――決めるのはお前だ』

『……ぼ……僕はまだ、生きていてもいいの……?』


 震える唇を噛み締めて、ディランが縋り付くように黒い影へと手を伸ばす。その指先を引き寄せるようにして闇の中から現れた、幻影にも近い白く綺麗な男の手を、ディランは一生忘れないと心に誓った。


『我らは光に捨てられた者。光は闇を憎み、我らを拒む。……我はルシエル。お前は?』

『…………ディラン』







 村に響いた轟音は弱々しく衰えていた結界の崩壊を告げるものだった。

 願ってもない結界消滅、その機を逃さず村へ攻め込んだ魔物たちによってフィネス村は壊滅。生存者はたったひとりもいない。

 鮮血に染まった儀式場の祭壇はディランの血によって真紅に塗り替えられていたが、その祭壇の上に放り投げられていたはずのディランの遺体は、どこにも見当たらなかった。


 そして村人たちが求め魔物たちが欲した涙のかけらは、最後まで見つける事が出来なかった。






 ――――僕はあなたにとって必要ですか? ……ルシエル様。


『お前は……我と似ている。届かぬ光に焦がれ、求め、拒絶された我に』

『僕、ずっとルシエル様と一緒に行きます。僕を助けてくれたのは、あなただけだったから』

『……気紛れかも知れぬ。余計な期待は我に持たぬ方が良い』

『それでもいいんです。僕は確かにあの時、嬉しいと感じたから……』


 ――――あなたに出会えて、本当に嬉しいと思うのです。僕のすべて、ルシエル様。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ