ディランの呪い 2
海賊船ブルーファングは驚くほど早く海を渡っていた。セレスティアを連れて帰る事のなかったロヴァルと、彼の悲しみを帯びた雰囲気に海賊たちは何も聞こうとはせず、ただ黙って船を聖地へと動かす。
海賊船にシェリルが乗っているからなのか、それとも闇の従者であるディランがいなくなったからなのか、海は不気味なほど穏やかでそこに巣くう魔物が姿を現す事はなかった。
窓から見える真っ黒に染まった海とは反対に、その上空はひとつくらい零れ落ちてきそうなほど所狭しと輝く星が闇を照らしていた。夜を待てずに空へ昇った月は、今では既に彼方へと姿を隠している。
隙間なく空を覆う星に見惚れて、その星のように瞳を輝かせていたシェリルが、夜空を眺める為に甲板へ出て一時間が経った。星を眺めるのに一時間は長すぎる。ましてやここは男たちしかいない海賊船。考えてカインは緩く首を横に振った。
「……考えすぎだな」
自分に言いきかせるように呟きながら、カインは意味もなく天井を見上げて小さく息を吐く。妙に落ち着かない気持ちに気付いていながらそれを無視しようとするカインは、やがていてもたってもいられなくなり、弾かれたようにベッドから飛び起きた。その途端。
「……カイン。まだ、起きてる?」
小さなシェリルの声が、遠慮がちにノックされた扉の向こうから聞こえてきた。外に出て行こうとしていた体を再びベッドに戻したカインは、そのあまりのタイミングのよさに驚いて、早くなってしまった鼓動を抑えようと深く息を吸う。
「ああ、どうした?」
まるで今ベッドから起き上がったかのように曇った返事をしてから扉を開けると、少し暗い表情をしたシェリルがカインを見てから小さく頭を下げる。
「ごめん。ちょっといろいろ考えちゃって」
部屋の中に入ってきたシェリルから、冷たい夜の外気がかすかに漂う。その冷たさを敏感に感じ取って、カインが呆れたように溜息をついた。
「お前、ずっと外にいたのか?」
「うん。ロヴァルとね、少し話をしてたの」
ロヴァルと聞いて、カインは表情が固くなったのを自分でも感じた。胸の奥で一瞬だけ燃え上がった冷たい炎を吹き消すように、カインはシェリルに気付かれないよう首を横に振る。そんなカインの様子にまったく気付きもしないシェリルは、ロヴァルと話していくうちに感じた胸の内の不安をぽつりぽつりと話し始めた。
「ねえ、ディランはあの時……ルシエル様って、言ってたわよね。それってアルディナ様の弟……カインの話してくれた、封印された地界神ルシエル様の事かしら」
「ルシエルは封印されたんだ。天界の墓には禍々しい気が未だに残っている。それに、女神の施した封印を解ける者がいるとは考えにくい」
「誰かが封印を解くのではなくて、その封印が解けかかっているなら?」
自分の胸の中にあった疑問を吐き出して、シェリルは闇の従者であったディランの事を思い出す。彼の凍った感情は、あの闇の雰囲気をシェリルの中に甦らせる。
「あの闇に……似ていたわ」
小さな声で呟いて、シェリルが両腕をぎゅっと強く抱きしめた。
「私を狙うのは、なぜ?」
「シェリル、今は夢のかけらの事だけ考えろ。他の事に頭を悩ませたって、答えなんか出ないだろ?」
「……うん。そうね」
曖昧に返事をしてカインを見上げたシェリルが、かすかに微笑んで頷いた。
「ごめん。何だか余計な事を話したみたい。部屋に帰る……あら?」
不自然に言葉を切ったシェリルが、半ば凝視するようにカインの左耳を見つめていた。訝しげに首を傾げたカインに合わせて紫銀の髪がさらりと揺れ、その下に隠されていたピアスがあらわになる。
「何だよ」
「……ピアスに、罅が」
「あ?」
シェリルに言われて、カインは左耳のピアスに指先で触れてみる。滑らかだった表面には斜めに大きく罅が入り、少し触れただけでその鋭い感触をカインの指先に与えた。
「あの時だろうな」
死者の影が爆発した時の事を思い出したカインは、親指でピアスをひと撫でしてからそのまま乱暴に髪をかき上げた。
「別にたいした事じゃない」
「綺麗だったのに」
まるで模様のように浮き出た罅を見つめて残念そうに呟いたシェリルに、カインは淡く笑みを零しながら部屋の扉を開けた。
「ほら、もう寝る時間だ。この分だと明日には聖地に着くぞ」
「ちょっと何よ、その言い方。私、子供じゃないんだから」
子供扱いされたような気分になり、むっと顔を顰めたシェリルが反抗的に言い返してカインを睨みつけた。その視線をさらりと流して、誰もが見惚れてしまいそうなほどの笑みを浮かべたカインが、シェリルの腕を掴んで自分の胸元へぐいっと強く引き寄せた。一気に頬を紅潮させたシェリルへすいっと顔を近付けて、カインが甘い声で囁く。
「なら、確かめてやろうか?」
「え……えっ?」
「お前が大人の女かどうか、俺の部屋で……」
一瞬呼吸すら出来なくなり、シェリルの顔が更に赤く染まる。
「……っ! 嫌――っ!」
船がひっくり返るくらい大声を上げて、シェリルがカインを思いきり突き飛ばす。激突にも似た衝撃に数歩後退したカインが顔を上げると、そこにシェリルの姿は既になく、ただ慌てて駆けて行く足音だけが船内に乾いた音を響かせるだけだった。
水平線から昇った太陽が海を照らし始める頃、カインの予想通り海賊船ブルーファングは聖地へと到着した。海賊船から小船に乗り換えて洞窟内部へ入り込んだのは、シェリルとカイン、そしてロヴァルの三人だけだった。
藍晶石の洞窟をぐるりと見回し、先日ここを訪れた時の事を思い出したロヴァルが、その記憶を振り払うかのように緩く首を振った。
「行こう。最深部までは十五分くらいで着く」
そう言って歩き出した三人は、藍晶石に喰われる事なくどんどん奥へ進んで行った。
美しい藍色に包まれた空間は、中に埋め込まれた多くの人間の姿を鏡のように映し出す。そのあまりに不釣合いな光景を見つめていたロヴァルの思考が、無意識に再び過去へと戻りかける。それを慌てて押し留め、戒めの意味も込めて拳をぎゅっと強く握り締めた。
セレスティアとの未来を望んでいたのに、幸せを信じていたのに、時はセレスティアを連れ戻し、ロヴァルはたったひとりで取り残されている。セレスティアと一緒に消えた藍晶石のかけらは、セレスティアを少しでも幸せにしているだろうか。何も出来なかったロヴァルの代わりに。
「ここだ。その左側の道を進んで、次の分かれ道を右に曲がれば守護獣のいた場所に辿り着く」
似たような道のひとつを指差して先に進んだロヴァルの後ろで、シェリルは今まで感じた事もない神々しさを肌に直接感じ取る。
夢のかけら。女神アルディナが最初に降り立った地に残された思い。
早くなる鼓動を深呼吸で鎮めながら、シェリルは守護獣の待つ洞窟の最深部へと足を踏み入れた。
暗闇に差した一筋の光。それは世界誕生を告げる女神の声。
『ごらん、ルシエル。世界が動き出そうとしている』
闇に浮かぶ金色の光と、風に流れた静かな声音。慈愛と不安に満ちた瞳は、彼女の隣に佇む銀色の影に向けられる。
『世界はここから時を刻む。闇を生み出す人が入る限り、私はこの世界を護り続けて行こう。私たちは守護者なのだから』
闇だけの世界に新しい太陽が昇る。希望の光が大地を照らし、また数え切れないほどの不安が影となって誕生していく。眩しい光がそこに佇む金と銀の影を照らすより先に、二つの影はそれぞれ天と地に吸い込まれるように消えていった。
深い深い藍色の空間。壁や床、そして天井までも埋め尽くす透き通った藍晶石は漣のように揺れながら、最深部へ辿り着いたシェリルたちを出迎えた。
広いだけの空間は深い藍色に包み込まれ、まるで海中へ迷い込んだような感覚にシェリルは思わず身震いする。
人を埋め込んでいない純粋な藍晶石。守護獣により守られている空間。夢のかけらが眠る場所に違いないであろう洞窟の最深部、そこは邪悪な影の侵入を一切許さない、強力で神聖な力に満ち溢れていた。
どこまでも続く藍色の空間、しかしそこにロヴァルが見たという守護獣の姿は見当たらない。
「おかしいな。確かにここだったはず」
独り言のように呟きながら辺りを見回すロヴァルにつられて、シェリルもぐるりと藍晶石の群れを見渡してみる。守護獣が身を潜められそうな場所はどこにもなく、藍晶石の壁もシェリルたちを映すだけで他には何の変化もない。
「まさかディランが先回りを?」
言いながら壁を覗き込んだシェリルの後ろで、藍晶石に映ったカインが首を横に振った。
「ここにこれだけの神聖な力が残ってるんだ。あいつが来たとは思えない」
「それはそうだけど」
藍晶石に映るカインから再び自分へと視線を戻して、シェリルは小さく溜息をついた。俯き加減に首を前に傾けてもう一度溜息をつこうとしたシェリルは、自分の胸元で淡い光が点滅している事に気付いて閉じかけていた瞳をぱっと大きく見開いた。
「えっ?」
その声に気付いたカインが声をかけるより早く、シェリルの胸元で輝いていた三日月の首飾りが、その白い光をあっという間に大きく膨らませた。時々強く点滅する天使の羽のように真白い光は、やがて藍晶石に埋め尽くされた空間を飲み込んでシェリルの視界からすべての色をなくす。
「カイン! ロヴァル! どこにいるの?」
光に捕われひとり置いていかれたような気がして、シェリルが慌てて手を伸ばす。その指先が、少し湿った髪の毛のようなものに触れた。
『よくここまで辿り着いた。神の落し子よ』
穏やかな声と共に、辺りを包んでいた白い光が左右へ流れた。徐々に藍色を取り戻していく視界の隅にカインとロヴァルの姿を見つけてほっと息を吐いたシェリルは、二人のそばへ駆け寄ろうとしていた足をぴたりと止める。
シェリルのすぐ目の前に、さっきの光とは違う白い影が揺らめいていた。影はゆらゆら揺れながら少しずつその姿をあらわにした。
長く伸びた白いたてがみ。細い背中から生えた四枚の翼。かすかに金色の輝きを放つ蹄と同じ色をした一本の角。汚れなき純白の中に浮かび上がる深い藍色の両目が、目の前のシェリルをじいっと見つめ返した。
「そいつだ! シェリル、早くそいつから離れろっ!」
美しい容姿とは裏腹に、その守護獣の持つ凄まじい破壊力を思い出したロヴァルが大声を張り上げた。
声ともつかない高く鋭い音が空間全体に響き渡り、壁や床の藍晶石がざわざわと騒ぎ始める。その音に紛れて、さっき聞いたあの声が再びシェリルたちの頭の中に響いてきた。
『我は夢のかけら。女神の眠りを覚ます第一の力。お前たちの来訪を待っていた』
ロヴァルのただならぬ声に思わず剣を抜いて身構えていたカインは、守護獣から敵意を感じない事に気付いて静かに剣を引き戻した。攻撃する事を止めたカインからシェリルへ視線を移し、静かに目を伏せた守護獣の体が柔らかな青白い光に包まれた。
『我を受け継ぎ、女神を目覚めさせよ。それがお前の使命でもある』
「使命?」
『そう、お前は選ばれた落し子なのだ』
その言葉に顔を上げたシェリルの前で、青白い光に包まれていた守護獣の姿が完全にそれと溶け合い、そして崩れ落ちた。
『時の定めに導かれた落し子よ。混沌の時はすぐそこまで来ている。己を見失うな。そして……闇を照らす光となれ』
空気に溶け込んだ澄んだ声音が辺りに響き渡ると同時に、どこからともなく冷たい海風が流れ込んできた。守護獣を包んでいた青白い光がその風にさらさらと解け、シェリルたちの前に新しい姿を現した。
「……夢のかけら」
目の前の少し高い位置に浮かんだ藍と白の混ざった小さな丸い石を見上げて、シェリルが確信したように言った。それに答えるかのように、夢のかけらも間隔をあけて控えめに光を放つ。
「やっと登場だな」
言って大きく息を吐いたカインが、シェリルに振り返って小さく首を動かした。
「ほら、早く取れよ。それとも手が届かないか?」
「大丈夫だと、思う」
頷いて、頭上近くに浮かんだ夢のかけらの前まで歩を進めたシェリルだったが、さっきから頭の中をかき回している守護獣の言葉に不安を覚えて立ち止まった。
シェリルの事を選ばれた落し子と言い、混沌の未来を告げた守護獣。何かとてつもないものを相手にしているような気がして、シェリルが背筋をぞくっと震わせた。
「シェリル?」
「ごめんなさい……何でもないわ。この為にここまで来たんだもの、大丈夫」
夢のかけらへゆっくり手を伸ばすシェリルを見ていたロヴァルは、ふいに背中の傷がずきんと痛むのを感じてむっと眉を顰めた。気のせいではなく、痛みは次第に激しさを増してくる。内側から鋭い爪で肉を掻き毟られているような痛みは瞬く間に全身に広がり、ロヴァルはびりびりに痺れた指先が冷たく凍っていく感覚にぎりっと歯を食いしばった。
(何、だ。この痛みは……っ?)
体中から冷や汗が溢れ出し、息すら奪う痛みに耐えかねたロヴァルが、その場に片膝をついて蹲る。藍と白の混ざった夢のかけらが淡い光を放つ度に、激しい痛みがロヴァルを襲った。
――かけらを落し子に渡すな。
体の奥で別の男の声がした。
「ぐあああっ!」
突然聞こえた悲鳴に驚いたシェリルが、夢のかけらへ伸ばしていた手を引き戻した。振り返った先に、体を震わせて蹲っているロヴァルの姿が見える。
「ロヴァル!」
慌ててロヴァルへ駆け寄ったシェリルが、彼の肩に手を置いて覗き込むようにしゃがみ込んだ。
「ロヴァルっ! どうしたの?」
『随分と手酷くやられたね。僕の治療代は高くつくよ』
守護獣から受けた背中の傷を治療したのがディランだった事を思い出して、ロヴァルがかっと目を見開いた。
痛んでいたのは傷ではなく、そこにかけられていた黒の呪い。
「駄目、だっ! ……俺から離れてくれっ!」
「え?」
絶叫に近い声で叫ばれて一瞬体をびくんと震わせたシェリルの前で、ロヴァルの背中がばきばきっと音をたてて中から真っ二つに引き裂かれた。




