ディランの呪い 1
ここはとても暗い。ここはとても寒い。
私はここで何をしているんだろう。誰か、大切な人を待っていたはず。藍晶石を、愛の証しを持ち帰ってくる愛しい人をずっと待っていたはず。
彼が帰ってきたら優しく抱きしめて「お帰りなさい」って言って、笑顔で出迎えるの。
――――それなのに、どうして私の手は真っ赤な血に染まっているんだろう?
『セレスティア。お前が何者でも構わないと……』
すべてを破壊してしまいそうな激しい絶叫を、耳元で聞いたような気がする。
カザールを揺らす地響きと、熟れた果実のように弾け飛んだ死者の影。横殴りの風に吹き飛ばされそうになったシェリルは、体を隠していた木にしがみ付いて突風が行き過ぎるのを待っていた。
死者の影だった破片を含みながら激しくうねる風はシェリルの視界を真っ黒に染め、そこに見えていたカインたちの姿をあっという間に覆い隠す。
「カイン! ロヴァル!」
状況を把握できない視界に不安を覚え、シェリルが渦巻く瘴気に向かって何度も呼びかける。けれど返って来るのは、消えゆく死者の叫び声だけだった。
「やだ……カイン! カイン!」
カインたち三人を飲み込んだ瘴気の渦は徐々に薄れ始めていたが、そこにカインの姿を見つける事は出来ない。
「カインっ!」
いてもたってもいられずに叫んだシェリルが、思わず足を前へと踏み出した。その背後で。
「そう何度も呼ばなくたって、ちゃんと聞こえてる」
いつも通りの不敵な声音に勢いよく振り返ったシェリルは、そこにいたカインの姿を確認するなり、体中の力が抜けたようにその場へぺたんと座りこんだ。
「何よ……。無事なら、早く返事してよ」
「何だよ。お前、俺が簡単に死ぬとでも思ったのか?」
多少傷は負っているものの相変わらずな笑みを浮かべてそう言ったカインは、地面に座り込んでしまったシェリルへ手を伸ばし、軽々と立ち上がらせた。
「そう言う事じゃなくて! 私……また、ひとりになったのかと……」
カインを見上げたまま、怒りとも喜びとも取れない曖昧な表情を浮かべ、シェリルが言葉を濁しながら呟いた。その小さな声を弾き飛ばす勢いで、消え行く瘴気の中からロヴァルの悲痛な声が響き渡った。
「セレスティアっ!」
その叫びに驚いて振り返った二人の目に映ったのは、ぴたりと動きを止めたセレスティアと、彼女の前で小刻みに震えるロヴァル。そして、セレスティアの胸に深々と突き刺さったカインの剣だった。
失った右腕から零れ落ちた最後の影は、セレスティアの中に潜んでいた魔物の気を連れて風にかき消されていく。血管が透けるほど大きく膨れ上がっていた腕も、血のようだった赤い目も今ではすべて元に戻っていた。
「セレスティア! お前……っ」
ふらりと真後ろへ倒れそうになったセレスティアを腕に支えて、ロヴァルが今にも泣きそうな声で名を呼んだ。
「……良かっ、た。私……あなたを、殺すところだったわ」
小さく開いた口から途切れ途切れに言葉を紡いで、セレスティアはそっとロヴァルの頬に指先で触れてみる。
温かい熱。それはセレスティアが失ってしまったもの。
胸に剣を突き立てても、その傷口から溢れ出すはずの血が、セレスティアにはなかった。既に死んでいるセレスティアが、剣を突き刺す事でもう一度死ぬ事はない。
胸に深々と刺さった剣は、セレスティアを闇の呪縛から解き放つものだった。それは即ち、あるべき姿に戻ると言う事。
「私……時の流れに、戻ります」
静かに、けれどはっきりとした声音でセレスティアが言った。その言葉が何を意味するのか、ロヴァルはあえて口にしなかった。
「……ひとりで?」
「元に戻るだけよ。……それに、本当なら絶対にありえない思い出が出来た」
にっこりと微笑むセレスティアの瞳から零れ落ちた涙を、ロヴァルは手のひらで包み込むように拭い取ってやる。その手の感触に目を閉じながら、セレスティアがそっと頬をすり寄せた。
「……セレスティア。俺たちは、ずっと一緒だ」
強い声でそう言ってロヴァルが右手に取り出したのは、藍晶石のかけら。遠慮がちに降り注ぐ太陽の光を受けて光るそれは、ロヴァルの瞳の色を思わせる。その色とロヴァルを重ねて見つめたセレスティアの耳に、ロヴァルの声がはっきりと届いた。
「結婚しよう」
「……ロヴァル?」
「この藍晶石は指輪の代わりだ。お前が持ってろ。……ずっとだ」
力なくぐったりとしたセレスティアの手を取って藍晶石を握らせたロヴァルは、そのままセレスティアへと静かに唇を落とした。触れた唇からロヴァルの愛を感じて、セレスティアの胸がじんと熱くなる。それはセレスティアの視界を歪ませ、大きく開いた瞳からぽろぽろと涙を溢れ出させた。
「……ロヴァル」
「愛してる。セレスティア、お前は?」
優しく尋ねられ、セレスティアが小さく頷いた。
「……ええ。私も……私もよ、ロヴァル」
頬から零れ落ちた涙は、淡い光を纏いながら、ふわりと空へ上昇する。それに合わせてセレスティアの体が少しずつ光に包まれ始めた。
「愛してるわ」
消えそうな声で確かにそう呟いたセレスティアは完全に光に包まれ、ロヴァルの瞳に輪郭さえ映らなくなる。何度も何度も愛していると呟く声はだんだんと小さくなり、やがてそれすらも消えてしまった。
「セレスティア。セレスティア……俺はいつでもそばにいる」
腕に抱いた乙女の体はふっと軽くなり、代わりに硬い骨の感触をロヴァルに与えた。かしゃんっと音を立ててセレスティアの胸に突き刺さっていた剣が地面に転がり、その音を合図にしてセレスティアを包んでいた淡い光が風にほどけて流される。光の中からかすかにのぞいた骨が、その姿をロヴァルに見られまいとするように風にぼろぼろと崩れて、光と共に空の彼方へ舞い上がっていった。
『愛してるわ、ロヴァル。私、あなたを忘れない』
消えた光を追うように空を見上げて、ロヴァルが拳をぎゅっと握りしめる。その手に残るものは、もう何もなかった。
いつものように風は吹き、太陽はその光を降り注いでいた。しかし崩壊した教会の残骸や深く抉られた地面、なぎ倒された木々が、すべては夢ではなかったのだと言う事を静かに物語っている。
ディランが敵であった事も、そしてセレスティアがもういないと言う事も。
セレスティアを抱えたままの姿勢で空を見上げていたロヴァルの背後で、どう声をかけようかと戸惑いながら、シェリルがカインへと目を向ける。何かしらの答えを待つシェリルの視線に気付いて顔を向けたカインは、小さく首を傾げてくるりと身を翻した。
「カイン?」
ロヴァルを置いてすたすたと坂を下りて行くカインに慌てて手を伸ばしたシェリルは、彼を引き止めるどころか逆に腕を掴まれてそのままずるずると引きずられて行く。
「ロヴァルを置いていくの?」
「しばらくひとりにさせてやれ」
静かにそう言ったカインが、少し強引にシェリルの手を引いて教会を後にした。
「……でも」
ぽつりと呟きながらシェリルが何度も後ろを振り返って、そこに佇むロヴァルを見つめる。
「やっぱり、そばにいてあげた方が」
「自分の恋人が目の前で死んだんだ。今は止めとけ」
「……そう?」
思ってもみないシェリルの答えに、今度はカインが驚いてシェリルを振り返る。そこにいたシェリルは真面目な表情でカインを見つめながら、小さく首を傾げていた。
「お前だってそうだろ?」
「……私、よく分からないわ。……でも、あの時は誰かに支えて欲しかった。ひとりではいられなかった。あの気持ちが、そうなのかしら」
小さな声で呟いて目を伏せたシェリルを見て、カインはシェリルが家族を失った時の事を言っているのだと悟る。
幼い頃からアルディナ神殿で生活をしてきたシェリルは、父親以外の男と親しく接する機会もなかったのだろう。そんな彼女が異性関係に疎いと言う事は、考えなくても容易に想像できた。だからこそカインに抱きしめられたり、時には顔を近付けただけでシェリルは驚くほど顔を真っ赤にさせるのだ。
「カインは? カインもやっぱり、そっとしておいてほしいと思うの?」
真っ直ぐに見つめられ、カインの胸が意味もなく早鐘を打つ。と、突然目の前のシェリルがぐにゃりと歪み、そこに金色の影が現れた。それを見た瞬間、体中の血がざわざわと騒ぎ始め、頭の中では誰のものか区別のつかない声が響き出した。
『俺はいつも失ってばかりだ』
自分の心の声にも似た言葉をやけに冷静に受け止めて、カインはふっと笑みを零した。
(俺が何を失うと言うんだ? 俺には……何もなかったはずだ)
呆れたように心の中で呟いたカインが、目の前のシェリルをぼんやりと見つめる。
(失うものなど、何も……)
そう、あの日からずっとひとりで生きてきたのだから。
「聖地へ行きたいんだろ。連れてってやるよ」
後ろで聞こえた静かな声に、シェリルたちがはっと顔を上げて振り返った。ロヴァルのまだ少し赤い目を見て、シェリルが思わず視線を足元へ落す。
「あの洞窟は複雑に入り組んでる。俺が奥まで案内してやるよ」
それだけ言って二人を追い越したロヴァルが、先に坂道を下りていく。
「ロヴァル、あの……あんまり無理しないで」
「動いてないと、気が狂いそうだ。……悪い」
心配して声をかけたシェリルに一瞬足を止めたロヴァルだったが、そのまま一度も振り返る事なく街へと続く坂道を駆け下りていった。
「――――ルシエル様」
暗い闇に包まれた空間に、冷たく澄んだ声が響く。己を取りまくねっとりとした闇に身を委ね、ディランは静かに瞳を閉じた。肌に触れ、そのまま染み込んでくる闇の触手は決して不快なものではなかった。
光ある世界で彼を必要としてくれたものは、誰ひとりいなかった。魔物を生み出し、人を惑わす、誰からも忌み嫌われた闇だけが、ディランを優しく迎え入れてくれる。まるで愛し子を抱く母のように。
否。
それは、母だったのかもしれない。
「早く、あなたを自由にしてやりたい」
ルシエルの意識体が抜け出すほどに、封印は確実に解かれようとしている。後は、体が目覚めるだけだ。
「その姿をこの目に……」
まだ見ぬ主の姿を瞼の裏に思い描きながら、ディランはふっと笑みを零した。
姿だけなら見ているのかもしれない。
心の奥で静かに呟きながら、ディランは脳裏に浮かぶ高貴なる銀の影に思いを馳せる。冷たい闇に、深く深く包まれながら……。




