第六話 得度式 四捨五帰依
「一郎さん、その文字は?」
頭上からニヤーマの声がした。
一日に何度地面に倒れ込もうというのか、一郎は自分の情けなさに頭を抱えたくなった。
ニヤーマは今どんな顔で自分を見ているのだろうか。
場を整えてくれたクリスにも合わせる顔がない。
どこを見られても恥ずかしい。
――これが本当の裸一貫ってやつなのか
ニヤーマの足元で、一郎は額を地面に擦り付け、言葉を続ける。
情けなくても、ちゃんと伝えなければならない。
自分が何を出家に持ち込んだのか。
「も、文字ではございません。マレビトの、我が宗教の、ご本尊でございます」
「『我が』宗教?――ご本尊?」
おうむ返しをしたニヤーマの声色はどこか気が抜けていた。
何を言っているのか分からない、そんな様子だった。
「あなたは出家をなされたのでは?」
「はい」
ニヤーマに顔を上げるよう促された一郎は、恐る恐る彼女の顔を見た。
大岩壁を背に月の光を浴びるニヤーマ。
その目にも仕草にも、一郎を責め立てる様子はない。
だが居住まいを正した彼女の目を見ていると、性根の奥の奥を覗かれるような感覚に陥ってくる。
一郎は自分の呼吸が浅くなるのが分かった。
「一郎さん、よくお聞きください」
一郎は言われるがままに頷く。
ニヤーマは腹の前あたりで両手を編み、目を閉じて説教を始めた。
「覚者ジョードの像から、僧侶職の加護のみを賜りに来る者。
三捨の行を遊び半分で受けて逃げ出す者。
コウリャクハンとかいう連中は、儀式を終えたと思ったらひと月もせずに消えていきました。
本当に様々なマレビトがおりました。
ですが出家にあたり、信仰を表明して、なおかつご本尊を持ち込む者など聞いたことがなかった。
わたくしあなたの馬鹿正直さに、とても驚いております」
ニヤーマの言う通りだと思った。
自分は遊び半分で儀式を受けた連中と変わらない。
減点主義者の自分は、人一倍恥を知っているという自負があった。
「ですが、一郎さん」
ニヤーマは耳を真っ赤にしている一郎の後頭部を見ている。
そして、聞けと言わんばかりに声色を強めて言った。
「ジョードの教えは、ただひたすら自らを見つめること。入信にあたり何かを縛るモノでも、罰を与えるモノでもございません。それについては覚者ジョードから賜った加護でお分かりでしょう」
ハッとした。
これが彼女の本題なのだと気づく。
その瞬間、彼女のことも誠実な人だなと、腑に落ちた。
――ジョード教って思ったより優しいんだな
だが――自分の本題はそうではない。
「そういう問題ではないのです」
一郎はニヤーマが言ったステータスを確認するつもりもなく、彼女に食ってかかった。
「ジョード様ではございません。中途半端で小狡いわたしを、わたしの仏様が見ているのです!わたしの決意を、わたしの正念場を!」
一郎の熱を受け止めつつも、ニヤーマは涼しい顔をしていた。
むしろ――もっと吼えろと言われている気がした。
与えられたものにグタグタ言っている自分とは違い、彼女はすでに師たらんとしているのではないか。
「では、どうすると言うのです!」
お前の底を見せろ。
そう煽られているような錯覚。
一郎は体が真っ赤な鉄になったかと錯覚した。
自分の中から何かが飛び出そうとしている。
ニヤーマの喝に背中を押されるように、一郎は腹の底から声を絞り上げた。
「こ、このご本尊を――」
※
クリスにとって今日は悪くない日だった。
暇つぶしにウジウジしたおじさんの人生相談を聞いていたら、案外面白いやつだった。
宗教は違うが熱心に拝んでいるやつはもちろん嫌いじゃない。
こいつなら一人で頑張っているNPCの友人と引き合わせてもいいかもしれない。
さっきまではそう思っていた。
その情けないおじさんは、今や爆発しそうなほど顔を赤黒くして、何かとんでもないことを言おうとしている。
「こ、このご本尊を――」
『棄教』の二文字が頭をよぎった瞬間、クリスは駆け出していた。
しかし踏み出した足は、ニヤーマの苛烈な眼光で食い止められた。
そうだ、儀式の最中だった。
だが宗教仲間の一郎に、自分の紹介から棄教させたとなっては、クリスの神様がクリスを許さない。
――無作法失礼!
クリスが叫ぼうとした、その瞬間。
一郎が大きく息を吸い込んだ。
「――捨てます!」
静止はほんの一歩、間に合わなかった。
※
夜の帷は下りて、耳が痛いほどの静寂が場に広がっている。
一郎は背中に冷たい視線を感じた。
おそらく二つ。
クリスとニヤーマだ。
仏教は棄教を禁じてはいない。
だがわざわざ宣言するものでもない。
信仰を持つものからすれば、決して気持ちの良いものではない。
だが。
――だからどうしたってんだ
お前らじゃない。
俺は今、覚者ジョードと話してるんだ。
体に、血が巡る。
聞け、ジョード!
「そして、阿弥陀如来に誓います。必ずジョードの教えを我がものにすると!」
「「は?」」
「本尊捨てて四捨、阿弥陀如来に誓願し五帰依とする!わたしの四捨五帰依の行、覚者ジョード!お受け取りください!」
一郎が喚き上げたちぐはぐな祝詞は、五色の煌びやかなエフェクトを伴い月夜に放たれた。
光が淡く空に溶けた、その時、
――ピコン
と無機質なシステム音が鳴った。
一郎の体が薄く光り、程なく収まっていく。
クリスは棒立ちになって、ポカンとした顔で一郎を見ている。
一郎も訳が分からずクリスを見た。
自分が何を叫んだのか、よく思い出せなかった。
頭に登っていた血が体に巡り直している。
一郎は力が入ってすくんでいた肩をすっと下ろした。
ため息をついて左の手のひらを見た。
南無阿弥陀の文字は消えていた。
自分が阿弥陀如来を棄教したのか、それとも改めて帰依をしたのか、よく分からなかった。
「一郎さん、覚者ジョードから加護は賜りましたか?」
ニヤーマはおっとり穏やかに一郎に話しかけた。
彼女の表情はずっと変わらない。
さっきはあんなに恐ろしかった。
彼女はこの表情のまま、どんな存在にもなれてしまいそうな気がした。
一郎は畏まって返事をした。
「はい、少々お待ちを」
なんだか、疲れた。
体を起こして正座で座る。
目端にUIのメッセージが点滅しているのが見えた。
内容を確認する。
――職業『見習い沙門LV1』を獲得しました
――覚者ジョードから称号『パリグラハ』を賜りました
――属性『中庸』に属しました。
加護とは職業のことではないのか。
この称号のことなのか。
「ニヤーマ様、『パリグラハ』とはなんですか?」
ニヤーマはキョトンとした後、意を得たように手を叩いた。
弾けるような笑顔が少女のようだ。
「『欲張りちゃん』です。明日からよろしくお願いしますね!」
クリスはゲラゲラと笑っている。
確かに、大事なものを捨てたようで捨てていない。
家に戻ったら自分は仏壇の前で平気でお勤めをするだろう。
――お前は熱くなって言っただけってか
ジョードはお見通しってことなのか。
一郎は下唇を突き出して、後ろに倒れ込んだ。
その日から一郎の修行が始まった。




