第八話 薬師カショー
一郎は今日も今日とて崖に登る。
登攀スキルが上がったおかげか、崖の攻略は進んでいく。
岩棚に腰掛けた一郎は、昨日引き返した場所を見下ろしながら一息をついた。
ニヤーマから初日に授かった行は三つ。
登攀行、慈悲行、瞑想行だ。
戒はございますか、と心を躍らせて尋ねた一郎に、彼女は言った。
『ジョード教に戒はございません』
日々の摂生は『行』、つまりやるべきことをやっているだらしい。
お肉を食べない場合、やってはいけない『戒』を実行しているのではなく、他者を慈しむ『行』として食べないという理屈だそうだ。
『破り、破られる戒はなく、ただ各々が行を日々の生活に落とし込んでいくのが、我らジョード教徒でございます』
よだれを垂らして縛りを欲しがっていた一郎は目から鱗が落ちる思いだった。
そして行の匙加減は全て修行者の裁量に任されている。
どこまでやるかも自分で決めていいんだ。
体に染み付いた白黒思考に疲れた一郎にとって、夢のような修行であった。
「慎んで精進いたします」
一郎は静戒洞の低い天井で、ニヤーマに伝わるように大きく深くお辞儀をしたのだった。
※
「だからクリスには感謝してるんだよ」
そう言ってニコニコする一郎を、クリスは半目で見ていた。
またカショーの店で居合わせた帰り道、一郎が擦り寄ってきたのだ。
――夢のような修行? 『地獄』の間違いじゃないか
頭が痛い。
一郎みたいな目標設定の下手くそな完璧主義者が、答案のないテストを毎日やるなど、正気とは思えない。
だが、一郎が自分でそれに気づいていないとも思えない。
つまりこいつは好きでやってるんだ。
クリスは心の中で主に祈りを捧げた。
「で、分かりやすくおだててなんなんだよ?」
「へへ、さすがクリスさん」
一郎はペコペコして頭をかきながら、クリスに自分のデータを見せてきた。
◯職業クエスト『薬師への納品』1/3
依頼者 ジョード教座主 ラードリー・ニヤーマ
受領者 駆け出し沙門 パリグラハ・イチロウ
報酬 カショーより受け取ること
依頼内容 大岩壁の中腹に生える聖薬草を、薬師のカショーに納品し、報酬を受け取る。
「普通の職業クエストじゃん。これがどうしたんだよ」
クリスの戦士の場合は、戦技『スラッシュ』で角兎3体を倒す、シンプルなものだった。
聖薬草がかなり特殊だが、他の生産職の連中も似たようなモノだろう。
「さっきので納品30回目なんだ」
「はあ?」
すがるような目で訴えてくる一郎を無視して、クリスは目を皿にして依頼文を読み直した。
「何回も読んだんだよ。縦読み、斜め読みだってやった」
アイドル推してた頃を思い出したよ、と一郎は生気なく笑っている。
「きもい推し方するんじゃねえよ」
「ヒカリちゃんはキモくない!」
「お前だよキモいのは。薬草出せ薬草!」
一郎はブツブツ言いながらインベントリから薬草を取り出して、クリスに寄越した。
クリスが『上級鑑定』で薬草を見つめると、視界に対象のデータが現れた。
『聖薬草 品質C』
生息地 『ジョードの大岩壁』中腹にて採取
普通の薬草でなく、ちゃんと聖薬草だ。
ウィルポーションの材料になる高級素材。
クリス自身、一郎がカショーから報酬を受け取っているところも、数回見ている。
「この一回成功してるのはいつだ?」
「わからんなあ。俺、UI確認するのは三日に一回って決めてんだ。修行だからな」
そう言って鼻の下を擦る一郎に、クリスは腰に手を当て、ため息をついて言った。
「真面目にゲームやれよバカ」
「おまっ、バカってなんだよ!」
そのまま目の前の中年男性に指を突きつける。
「覚者ジョード様がご用意下さったシステムをちゃんと使わないのは、信者として、如何なものかと思うね!」
「――!」
はっ!とした一郎はすぐさま石畳の道の真ん中で五体投地をした。
周りのNPCは、ありがたそうに僧侶の礼拝の様子を拝みだした。
クリスは付き合ってられない、とばかりに期間イベントの喧騒に戻っていった。
※
――何度でも来たらええわい
カショーは内心を隠しながら中年男性を見送った。
カショーは在家のジョード教徒である。
そして他の教徒の例に漏れず、ニヤーマを大層敬っていた。
あの『奇跡』を超えて唯一残ってくれた彼女は、ジョード教徒たちにとって聖人なのだ。
彼にとって喫緊の課題は、我らがニヤーマが弟子として連れてきた、謎のマレビトの中年男性の扱いであった。
マレビトは観光客のようなものであって、同じジョードの世界の住人ではない。
何処の馬の骨か分からん者を、あの方に近づけてはいけない。
老人のたれた瞼の奥で、黒い瞳が爛々と燃えている。
あの男が弟子足り得る人間かどうか、確かめる義務がカショーにはあった。
老人が息巻いたところで、カウンターの向こうのドアが開く。
とぼけた面で欲張り野郎が店に入ってきた。
一日に何度来れば気が済むのか。
――この若造を試してやるわい!
――ジョード教徒として、許される範囲の意地悪でな!
老人は瞼の奥に敵意を隠し、いつものように狸寝入りを始めた。




