代替する死
――記憶の最後より少し橙がかった空の下、路地裏で永遠は目を覚ました。
ぼやけた視界の中、瞼を泣き腫らした穂香が永遠を見下ろしていた。
「とわ、ちゃん……よかった。目を覚ましてくれた! 本当に、本当によかった……!」
目を覚ました。
そうか。自分は目を覚ましたのか。
そして永遠の思考は行き着く。
「私、生きてる……?」
永遠の言葉に穂香は涙を流しながら何度も頷いた。
「もう……心配したんだよ。とわちゃんの身体、傷だらけで、血塗れで、本当にボロボロで。息だってしてないし、絶対死んじゃったと思ったんだから……っ」
「はは……ごめん」
穂香の言う通りだ。
ところが、どうやら自分は生きているらしい。
しかし何故だ。
イマーゴとの戦闘の中、自分は確実に心臓を貫かれた。そして感じたのだ。視覚、痛覚、触覚、あらゆるものが薄れ、意識が闇に飲まれていくあの感覚を。ただ気を失うのとはまるで違う、命が消えていく感覚を確かに味わった。
しかしながら今の自分にはあらゆる感覚がある。そして制服の下、地肌にあったはずのあらゆる傷がなくなっている。
回復した、というのか。あの状況から。これがソリテュードの治癒能力だというのか。殆ど不死と呼ばれる肉体の力だというのか。
にわかには信じ難い。だがしかし、自身の生存が何よりの証拠となっていた。
ならば信じるほかない。それに信じていいじゃないか。化け物と刺し違えたつもりが、またこうして親友の顔を見ることができたのだから。それはとっても嬉しいことなのだから。
そう永遠は思い、笑った。
「そっか。私は、死なずに済んだんだね」
その呟きに返事をくれたのは、穂香ではなかった。
「――いいえ。あなたは死んだわ」
言い放つ声。声のした方を見やった永遠の目に映ったのは、巨大な斧を携えた少女。
久遠だった。
「叶世……さん」
永遠の言葉が尻すぼみになったのは、久遠の眼差しが鋭かったから。とても怒っているようで、そして永遠を責めるような瞳をしていたのだ。
「どうして」
久遠が口を開く。
「どうしてイマーゴと刺し違えるような真似をしたの」
静かで、でも確かな怒気を秘めた言葉に永遠は戸惑う。
「どうしてって言われても……」
「そういう無茶な戦い方は止めなさいと、言ったわよね」
「で、でも。ああでもしないと穂香ちゃんを守れなくて」
ぎり、と。久遠が歯を食い縛る。
「だからあなたは何も知らないと言ったのよ」
突き刺さる久遠の視線。
「その子はあなたの友達でしょう。だというのに、それを守りたいと言いながら自分が死んでしまってどうするの」
「ちょっと待ってよ、叶世さん」
久遠の高圧的な言葉に、永遠はこらえきれず声を出した。
「私が何も知らないってどういうこと。それに私が死んだって……私は今こうして生きてるじゃない」
永遠には、久遠の言葉は何一つが噛み合っていないように思われた。
守りたい人を命懸けで守って何が悪い。第一、結果として自分は死んですらいないというのに。しかもだ。それを頑なに死んだと言うのは何の意図があってのことだというのだ。
だんだんと眉を顰める永遠を前に、その心情を受けて久遠はさらに表情を歪めていく。
「だから、そういうところが何も知らないって言うのよ……!」
とうとう久遠が声を荒げるかと思われたときだった。
「――おやおや、喧嘩はいけませんよ」
喜劇を鑑賞するかのように笑う男の声。
狭い路地裏に現れた影がその場にいた人間の視線を引いた。
久遠が目の色を変える。
「ジョーカー……っ!!」
そして即座に斧を銃へと変え、仮面の男へと突きつけた。
永遠に向けていた怒りとは全く異なる、憎悪の塊にも似た憤怒の眼差し。それが射殺さんばかりにジョーカーを串刺しにする。
しかし燕尾服の男に怯えた様子はなく、逆に愉しそうな笑いを漏らすばかり。
「永遠さんとだけではありませんよ。私との喧嘩もよして下さい、久遠さん」
「何をしに現れたの。今すぐ消えるか、それとも私に殺されるか、どちらか選びなさい」
「それは承諾致しかねます。私は永遠さんにお話があって来たのですから」
「私に、話?」
ぐるりと永遠の方を向いた仮面の卑しげな笑顔が、喜々として頷く。
「はい。永遠さんがソリテュードになって以来、初めて命を落とされました(、、、、、、、、、、、、)のでご説明をと思いまして」
永遠は一瞬、言葉を失った。
衝撃、その文字通り頭を殴られたような感覚が永遠の意識を支配したのだ。
だって、目の前の男が言ったのだから。
「私が、命を……?」
それはつまり、死んだということか。久遠ばかりでなく、この男までそう言うのかと。
そういった衝撃。けれど、久遠に続いてジョーカーにまで反論する気には、永遠はならなかった。複数の相手に同じことを言われては、そうなのかと、本当に自分は死んだのかと思わずにはいられなかったからだ。
呆然とする永遠に対してジョーカーは頷き、
「ええ。しかしご心配なく。今そうして生きていらっしゃるように、ソリテュードの肉体はほぼ不死ですから」
そして優しく語りかける。
「つまりソリテュードは、一度死した後に再び命を蘇らせることができるのです」
なるほど、そうだったのかと。永遠は納得した。
そうであれば心臓を貫かれ死へと誘われたあの感覚にも、そして今ここに生きている事実にも合点がいく。死んでも死なない。そういった意味での、ほぼ不死か。そんな能力がソリテュードにあったなんてと、永遠は改めて自身の人間離れした部分に驚愕した。
……だが、すぐに浮かぶ疑問。
死んでも死なないというのなら、何故久遠は自身が一度死んだことに怒ったのだ。あれほどの叱責を受ける理由が見つからない。そして先ほど目の当たりにした暮乃朱音というソリテュードの死。死んでも死なないはずのソリテュードが死ぬという矛盾を、既に永遠は確認しているのだ。
これらにつき永遠が口にするより早く、ジョーカーは言った。
「但し、無償かつ無限にとはいきません。あくまでほぼ(、、)不死ですから」
どういうことだ。先に認識した内容と事実の間に相違があるのかと、永遠は首を傾げた。
「それはどういうこと。私が生き返るために、何かが必要だってこと? だとしたらそれはなんなの」
訊ねながら、永遠は背筋に嫌な汗をかいていた。
だって男の仮面に彫り込まれた笑顔が酷く気味の悪いものに見えたから。
笑いではなく、嗤い。そういう顔。
それが永遠を見下ろす。
「ええ。おっしゃる通りです。貴女の蘇生には対価が必要だ。そして、それが何なのかと言えば――」
そこでジョーカーはわざとらしく腕時計を確認する。
そして「ああ」と一言零し、喜悦した声音で告げた。
「――もう時間だ」
なにが、とは永遠は訊けなかった。
言うより前に、それはもう起きたのだ。
「う……っ……あぅ……っ!」
突如として、永遠の傍らにいた穂香が苦しみ始めた。
胸を押さえ、腹を押さえ、声にならない呻きを上げる。
「穂香ちゃん? どうしたの。大丈夫!? ねえ大丈夫!?」
混乱する永遠。
当たり前だ。今の今まで自分の隣できょとんとしていた友人が、まるで刃物で刺されたかのような苦悶の表情を浮かべたのだ。焦らずにはいられなかった。
この苦しみ方、ただごとではない。きっと一刻を争う事態に違いない。
「そうだ……救急車。救急車を呼ばなくちゃ!」
制服のポケットを弄り、学生鞄を漁り、必死に携帯電話を探す永遠。
しかし、そんな彼女とは対照的にジョーカーと久遠はやけに静かだった。
目を背け、悲痛な面持ちで唇を噛む久遠と、相変わらず飄々とした仮面の男。
やっと鞄から携帯電話を取り出した永遠に、ジョーカーは言った。
「呼ぶ必要はありませんよ」
その言葉は、焦燥する永遠の声を荒くした。
「そんなわけないよ! だって穂香ちゃん苦しそうだもん! 早く病院に連れてかなきゃ大変なことになっちゃうよ! だいたいどうしてあなたはそんなにぼうっとしていられるの!? それに叶世さんだってどうしてそんなに――」
永遠の言葉になどまるで耳を傾けず、嗤う仮面は言う。
「そういえば永遠さんが致命傷を受けたのは腹部と胸部でしたよね」
それが一体どうしたというのだ。
いい加減にこらえきれず目の前の男を怒鳴りつけようとして。
永遠の目は悶える穂香の腹部に留まった。
「――え」
じわりと。何かが穂香の制服に染みわたっていた。それは止まることを知らず、次から次へと溢れてくる。そして遂には腹部を押さえる穂香の手をも染め上げたそれは。
真っ赤な血に他ならなかった。
「ううぅ……痛い……痛いよ……!」
穂香の表情に偽りなどない。この血は、確かに彼女自身から溢れている。つまりは彼女の腹部に、ぽっかりと穴が空いてしまっているのだ。
「どうして」
どうして穂香の身体に傷がある。彼女のことは自分が身を呈して守りきったはずなのに。大体、さっきまで穂香は平気な顔をしていたじゃないか。まさか唐突に身体に穴が空いたというのか。そんな馬鹿な。そんなことがあり得るはずがない。
永遠の混乱は大きくなるばかりだった。
「なにが……一体なにが起こっているの……!」
「それが対価です」
永遠の言葉に、燕尾服の男が答えた。そして淡々と続ける。
「ソリテュードは不死。ですからソリテュードである永遠さんの死を、貴女と親しい関係にある人間、今回はその子が肩代わりしてくれるのですよ」
「なによ、それ……?」
死を肩代わりする。
そんな言葉信じられなかった。
だってそれは。永遠の死を穂香が肩代わりするということは。
「それじゃ穂香ちゃんは……っ」
「ええ」と、無情にもジョーカーの首が縦に振られる。
「この後、彼女に待ち受けているのは死以外の何物でもありません」
なんとも軽い言葉。しかしそれは、永遠にまるで身体が押し潰されてしまうかのような途方もない絶望感を与えた。
「ううっ! うぐううあっ……!!」
男が言うと同時に、穂香の苦しみ方が一段と増す。咳と一緒に、その小さな口からは大量の血が溢れて止まらない。やがてはその場に伏し、穂香は顔を上げることもできなくなった。
「み、穂香ちゃん! そんな、ああ……!」
みるみるうちに弱っていく穂香。
目に涙を浮かべて、しかしやたらと彼女に触れることもできず永遠の手は宙を泳いだ。
「嫌だよ穂香ちゃん……そんな……死なないで……死なないでよ穂香ちゃん……!」
震えた永遠の声を聞いて、仮面は嗤った。
「それは無理な話ですよ、永遠さん。だって貴女は死んでしまったのですから。けれど貴女は生きているのですから。余ってしまった貴女の死を、貴女以外の人間が引き受けなければならないのですから」
醜悪な声。けれど男の言葉など、もはや永遠の耳には届いていなかった。
永遠の鼓膜を揺らすのは、痛みに苦しみ、死への恐怖に怯える友人の呻きだけだった。
永遠の視界に映るのは、制服を真っ赤に染め、どろどろの血を吐き、もう視界の定まらない友人の姿だけだった。
永遠の瞳に溜まっていた涙は、遂にはぼろぼろと零れ始めていた。
「お願い……お願いだから……誰か穂香ちゃんを助けて……っ」
いくら涙を流せども。いくら祈りを捧げようとも。その声は決して誰にも届きはしなかった。
「さあ――」
言い渡される、非情で、無情で、残酷な、死の宣告。
「――もうさよならだ」
ジョーカーの言葉に合わせたように、穂香の背中に赤黒い液体が染みていく。先刻永遠を死に至らしめた傷が、穂香の心臓に、肺に、穴を空けたのだ。
「がふっ」
泡沫と共に彼女の口から飛び出した真っ赤な液体が、永遠の顔に、衣服に、無数の斑点を創った。
もう呼吸もままならない穂香が、過呼吸みたいな音を喉から漏らしながら、それでもなお顔を上げ、その手を永遠へと必死に伸ばす。
「……と……とわ……ちゃ…………」
苦悶に満ちた表情で。
声にならない声で。
意識のほとんどを失った状態で。
それでも穂香は、永遠に助けを求めたのだった。
「穂香ちゃ――」
咄嗟に永遠は手を伸ばした。
だがしかし。
その手が穂香の手を掴んでやれることはなく。
気がつけば、穂香の手は永遠の膝をなぞり、アスファルトに落ちていて。
気がつけば、穂香の顔は痛みに歪んだまま、アスファルトに落ちていて。
気がつけば、穂香の声はたった少しの呻きすら、もう聞こえはしなかった。
「…………いや」
永遠は、信じたくなかった。
「……いや」
けれど目の前のそれは告げていた。
「いや」
大切な幼馴染である少女が。
友人である少女が。
親友である少女が。
御木本穂香が。
――死んでしまったのだということを。
「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」
それから永遠は、わけも分からず叫び続け、我を忘れるほどに泣き続けた。




