プロローグ 身代わりの少女は火領の姫と出会う
なんてきれいな少女だろう。
初めて彼女を見たとき、そんなふうにフィルは思った。
馬からひらりと飛び降りて、彼女がフィルをまっすぐに見据える。姿勢の良いすらりとした立ち姿。紅い宝石を溶かしたような色の髪は後頭部で一つにすっきりと束ねられ、そのまま背中へと流れている。朝日を宿したような瞳がわずかに細められた。
「ウィルフォード?」
声も凛々しい姿にふさわしくよく通る──そんなことを思っていたら、後ろから小突かれた。
「ウィル様!」
小声で呼ばれ、フィルはようやく今の己の役割を思い出した。
自分は今、風領の領主の息子、ウィルフォードとしてここに立っているのだ。
少女を見返して、フィルも口を開く。
「ヒルデガルド様、ですか?」
演技ではなく、緊張に声が上擦った。二年振りに婚約者に会った、十二歳の少年の態度としては、まあ及第点ではないだろうか。
少女は──火領の三の姫は、フィルに名を呼ばれてにっこりと笑った。
「久しぶりね、ウィル。元気そうでよかったわ。随分と背が伸びたのではなくて?」
笑顔になると、目元の鋭さが和らいで愛らしい印象になる。と、彼女がこちらに歩み寄ってきた。縮む距離に、フィルの背を緊張のためだけではない冷や汗が伝う。
「ええと、はい。その、驚きました。ご挨拶は歓迎の宴のときと思っていたので」
しどろもどろにそう言えば、ヒルデガルドは小首を傾げて瞬きをした。
「あら、つれないのね。ヒルデ姉様に会えて喜んではくれないの?」
……姉様?
「えっと、あの」
姉様ってなんだ。ウィルフォードがそういう趣味とは聞いてない。いや、十かそこらの男児にとって、三歳年上の女の子なんて婚約者というより姉という感覚だったとしても無理はないが。
不意に腕を引かれ、後ろへたたらを踏む。
「火領統承三位のヒルデガルド様に、風の民のアウローラがご挨拶申し上げます」
フィルを庇うように半歩前に出たアウローラはウィルフォードの兄──風の領主の長男の婚約者だ。ここ一ヶ月、彼女はフィルにウィルフォードの身代わりとしての貴族の立ち居振る舞いを、ひたすら叩き込んできた。その師匠は、ヒルデガルドに負けないほど威風堂々と、彼女の前に立ち塞がっている。
──これでいいのか、立ち位置。
いくら将来の義姉とはいえ、挨拶途中の婚約者の前に別の女が挟まっているのだが。立ち位置はもちろんのこと、会話に割って入るのも普段のアウローラからは考えられない無作法だ。平民育ちのフィルの感覚では完全に喧嘩を売っている。
いや、無作法というなら前もっての予定、段取りをまったく無視して、馬でウィルフォードの館に乗り付けたヒルデガルドも負けてはいないのだが。
軽く目をすがめ、ヒルデガルドがゆっくりと首を傾げた。
「アウローラ殿は、ファビアン殿の婚約者だったわよね?いつからウィルフォードの侍女になったのかしら」
ぴくりとアウローラの肩が動いた。
「そのような事実はございません」
「あら、そうなの。ではなぜウィルフォードの館に?」
「それはこちらのお尋ねすることでございます」
ピシャリと、フィルに礼儀作法を叩き込む時にひらめかせていた扇子を思わせる勢いで、アウローラが言い返す。
「ご到着は昼、ウィルフォード様とのご挨拶は歓迎の宴の際と聞いております。いくら婚約者とはいえ、他領の──それも殿方の住居に勝手に踏み入るとは、どういうおつもりですか」
ヒルデガルドがゆっくりと腕を組み、胸を反らした。
「婚約者殿に早く会いたかったからよ。久しぶりに会う婚約者に対する情熱的な振る舞いは、火領では礼儀よりも優先されるべき誠意なの」
それなのに……と、ヒルデガルドがアウローラの肩越しに視線を投げてくる。フィルはビクッとしてアウローラの背に隠れそうになったが、すんでのところで踏みとどまった。
「ねえ、ウィル。三年ぶりに婚約者の顔を見て、他の女の陰に隠れるのがあなたの誠意?」
風の民は移り気だというけれど、とヒルデガルドはため息をつく。
彼女の言い分には一理あった。仕方ない。フィルは腹を括って一歩踏み出す。アウローラが何か言いかけるのを、視線を送って止めた。
「ヒルデ姉様」
少し迷ったが、思い切ってそう呼びかけた。どうやら正解だったらしく、アウローラに向かっていた、目のまったく笑っていない表情が、ちゃんと笑顔になってフィルに向く。フィルはそっと唾を飲み込み、自分も笑顔を作った。
「お久しぶりで少し緊張してしまいました。なにぶん、その……姉様が、とても綺麗になられていたので」
あら、とヒルデガルドが眼を見開く。後ろからアウローラの突き刺すような視線を感じた。
「成長したのは背丈だけではないのかしら。お世辞も言えるようになったの?」
好意的ではあるがどこか探るような声音に、フィルは気づかないふりでにっこりと笑う。
「お世辞なんてとんでもない、姉様が本当にお綺麗で、思わず見惚れてしまいました。無作法をお許しください」
そう言って腰を折り、目上の女性に向ける礼を取れば、軽やかな笑い声が降ってくる。
「こちらこそ、無作法だったには違いないわね。次はちゃんと先触れを出すわ。歓迎の宴とやらではウィルに迎えにきてもらえるのかしら?」
「恐れながら、ウィルフォード様はまだ十二歳でございますので、夜の宴への出席は後見が必要でございます」
フィルが勢いに任せて答える前に、アウローラが後ろから口を挟んできた。アウローラが言うならそうなのだろう。フィルとしても問題の姫君がこんなにグイグイくるとは思っていなかったので、少々作戦を練り直したい。
……なにせ自分はウィルフォードの身代わりとして、風の領の安定のために、このお姫様との婚約を解消しなければならないのだから。




