後編
「サシャさん」
その日の夕方、バーに出勤すると、見覚えのある男性が客として来ていた。すぐにわかった。ミルヒシュトラーセ王国への旅の間、ついていてくれたおつきの男性だ。サシャの職場なのだ。偽名である『サーシャ様』ではなく『サシャさん』で呼んでくれたことにほっとする。
「……こんばんは」
久しぶりにお会いして、サシャの胸に浮かんだのは警戒心だった。
なんの用事でいらしたのだろう。あまり良いものではない気がした。
「唐突にすみません。少々用がございまして」
「サシャちゃん。お知り合いかい」
見知らぬ男性なのだ。マスターが心配してか、近付いてきて聞いてくれた。
「え、ええ。まぁ」
「マスターさんですか。すみませんが、サシャさんと少しお話がしたいのです」
おつきの男性が良い身なりをしていることはマスターもわかっただろう。衣服は王室でのものではないようであったが、庶民とは明らかに一線を画していたので。
なにかしらの、まさか王室付きの使用人などとは思わなかっただろうが、儲けている商家の人間かなにかくらいには思ったかもしれない。マスターは逆らうことなく「そうですか。……彼女の出番は遅くとも夜九時には必要なのですが、それまででもよろしいですか」と丁寧な口調で言った。
「かまいません。むしろお邪魔をしまして」
「いえ……」
マスターは不思議そうな顔をしていたが、それでも逆らうに値しないと思ったらしく、「じゃ、サシャちゃん。ちゃんと戻ってきてくれよ」と釘だけ刺して、バーから解放してくれた。
「内密ですので、こちらでよろしいですか」と連れていかれたのは馬車であった。ミルヒシュトラーセ王国で乗ったものよりは随分簡素であるが、この辺の貴族が乗るものくらいのクオリティはある。半分、お忍びのようなかたちでいらしたのだろう。
馬車には御者がついていた。おつきの男性より下の身分のようで、「お待ちしておりました」と丁寧にドアを開けて、彼とサシャを乗せてくれた。
内密と言われずとも、王家の関係者がこんなところまでいらっしゃること自体『内密』極まりなかったのでサシャは身を固くしてしまう。ちょこんと馬車の中の椅子に腰かけたサシャに、彼は「どうぞお楽に」と言ってくださった。
「シャ……、ロイヒテン様からのご用事ですの?」
そろそろと尋ねたサシャの言葉は否定される。
「いえ、キアラ様からのご用事で」
「……キアラ様?」
シャイの、いや、『ロイヒテン様』の妹様。サシャのことは気に入ってくれたようだったが。
どうして彼女の名前が出てくるのかも、なにかしらの用事があることもわからずに首をかしげたのだが、言われたことは爆弾であった。
「キアラ様が今度、ご友人と小さなお茶会を開かれるのです。そのとき、歌姫をしてくださらないか、と」
サシャは仰天した。自分が話した脚色があまりに過ぎたらしい。キアラ姫の中ではすっかりサシャは『歌姫のお姫様』かなにかになってしまったのだろう。
「いっ、いえいえいえ!?わたくしのような者には過ぎたお役目で」
思わずお行儀悪くもぶんぶんと手を振ってしまったのだが、彼はふところをごそごそと探ってなにかを取り出す。それは水色にうつくしい金色のレースの模様が入った封筒であった。
「キアラ様からのご依頼が書いておられるそうです。こちらをお読みになって、お返事を下さいませ」
「え、そ、その」
「急かすようですが、私も海を渡って帰らねばならぬのです。国に用もございます。明後日にはキアラ様へのお返事の封書を頂けないでしょうか」
確かにあまりに急な話である。サシャは黙り込んでしまう。
「キアラ様たってのお願いなのです。どうぞ、ご一考くださいますよう」
彼は慇懃だったが、断ることなど許さない、という響きを帯びていた。当たり前であろうが。ここでサシャからの良い返事を取ってこなければキアラ姫の機嫌を損ねてしまうだろうから。つまり、サシャはこの封書の中になにが書いてあろうとも、yesの返事をする以外ないのである。
ごくりと喉を鳴らした。請けないという選択はない。とりあえずこの封書を読んでみて、なんと返事を書くか考えなければ。
「……わかりました」
震える手で封筒を受け取った。裏には封蝋が丁寧に押して封がされている。紋はわからなかったが、ミルヒシュトラーセ王家のものに決まっていた。見てしまって更に手は震えた。
「お願いしますよ。……お時間を取らせました。お仕事なのでしょう」
「……はい」
それで話はおしまいになってしまった。彼はバーの入り口までやってきて「長々と失礼いたしました」とマスターに軽くお辞儀をして去っていった。
マスターはなにか聞きたそうな顔をしていたが、幸いサシャの出番の時間が迫ってきたので、サシャは誤魔化すように「急いで着替えてきますね!」とバックヤードへ走っていった。
どこか夢心地のままバックヤードで薄っぺらなドレスに着替え、簡単なメイクをして店に出た。今日はピアノの伴奏に合わせて力強く歌う。しかしどこか集中しきれなかった。
バックヤードの、自分のバッグに忍ばせた水色の封筒。
シャイは確かに『ロイヒテンの身分があるから、ややこしいこともたくさんあるだろう』と言っていた。
しかし、こんなに早く『ややこしいこと』が起ころうとは。彼と恋人関係になったことをちっとも後悔などはしていないが、少なくとも思っていたよりもずっと、ずっと大変な事態になってしまったのだと、やっとサシャは噛みしめた。
その日は歌を歌う夜の通常通り、零時には仕事が終わった。中休みにサンドウィッチを摘まんでいたので夕食は必要ない。さっさと帰宅したサシャは、シャワーを済ませてから例の封筒を手にした。
こんな豪華な封筒、見たこともない。
表面は水色。
縁取りはレース模様。しかし箔押し。
どこで売ってらっしゃるのかしら、なんて思ったけれど、市販品であるはずがないとすぐに思った。
裏の、封をしてある封蝋。これはきっと剥がせないだろう。思ってサシャはペーパーナイフを取った。そっと封筒の上部の僅かな隙間へナイフを差し込み、丁寧に切っていく。
綺麗に開けることができて、ほっとした。中身を取り出す手は震えたが。
中に入っていたのは、便せんが二枚。封筒より少し薄い、水色。しかしそれも箔押し入り。とても美しい。
クリスマスパーティーのドレスも水色であられたし、キアラ様は水色がお好きなのかもしれないわ。
思いながらサシャは便せんを広げた。
『親愛なる、サーシャ=アシェンプテル様』
宛名からして勿体ないものであった。一介の庶民に、本物のお姫様からこんなお手紙。比喩ではなくほんとうに手が震えた。それでも読み進めていく。
『今度、ヴァレンタインのお茶会をいたしますの。お友達を十名ほど招いて、ショコラをいただいて、お茶を飲みます。そのお茶会にお歌を添えていただきたいのです』
内容はおおまかにこのようなことであった。
キアラ姫からの手紙は子どもらしさが残っているが、上品な筆跡であった。立派なレディである。
そうだ、あと一ヵ月もすればヴァレンタインなのだ。
そのときにお茶会なんて素敵でしょうね。ショコラも美味しいことでしょう。
他人事のように思ってしまい、はっとして、いえいえ!とサシャは大きく首を振った。
そのお茶会を構成する要員として、自分が直面しているのである。勿体なさ過ぎた。
仕事にしている以上、歌に自信が無いとは言わない。下手ではないと思っている。
が、王室のお姫様のような上質なものに普段から触れているような方からしたらがっかりするようなものかもしれなかった。
ほんの少し、パーティーの隅でお話しただけだというのにお声をかけてくださるのは嬉しいけれど……。
サシャは思い悩んでしまう。断るという選択肢は無いのだが。
幸い、バーはヴァレンタインにはなんの関係もない営業である。土日にもあたっていなかったし、休みを取るのはそう難しくないはず。物理的にも退路を断たれて、サシャは、はぁ、とため息をついた。
便せんを丁寧に封筒の中へ戻す。デスクの上に置いた。
今日はもう眠ってしまおうと思う。
明日、レターセットを買ってこなければいけない。勿論キアラ姫からいただいたような上等なものなどこの街には売っていない。売っていてもなかなか手の出せないレベルの店でしか扱っていないはず。
しかし手持ちのレターセットでは少し心許なかった。なのでそれなりの、庶民の身であっては上質に部類するものを買わなければならなかった。
ピンクがいいわ。無地がいいかしら。それとも柄入り……。
寝支度を整え、ベッドへ入る。なかなか寝付けなかったが。
シャイはどう思っているのかしら。
何度目かもわからぬ寝返りを打って、サシャは思った。
そもそもこのことを知っているのだろうか。
でもシャイに相談している時間の余裕はなかった。明日は昼間、学校なのだ。朝から学校へ行き、夕方前に終わる授業のあとには街でレターセットを買って、そのあとはバーの仕事。
明日は歌う日ではないので早めに上がることができるが、夜は手紙を書かなければいけない。その翌日、今日訪ねてきたおつきの彼に手紙を預けるために。
手紙だって、さらさらっと書けてしまうものになるはずがない。数時間はかかるだろう。なのでシャイに逢うどころか連絡を取る暇すらとれるか危うかった。
まぁなんにせよ。
もう一度ごろりと寝返りを打って、サシャはそっとシーツを握った。
請けないといけないことに変わりはないのだから、仕方が無いわ。
お請けする旨のお手紙を出して、少し余裕ができた頃にカフェ・シュワルツェへ訪ねていこうと思った。もしくはシャイから仕事のおつかいやらでヴァルファーへやってくるかもしれない。
どっちにせよ、「妹様からお手紙をいただいたの」くらいは堂々と言って構わない。
そうしましょう。
決めて、サシャは目を閉じた。じんわり眠気が襲ってくる。それに身を任せれば、サシャはすぐに夢の中へと落ちていった。
「では、確かに」
二日後。サシャの完成させた手紙をまじまじと見て、裏側もひっくり返して、おまけに封がきちんとされているかまで確認してから、おつきの彼は受け取ってくれた。
「よろしくお願いいたします」
「近日中にご連絡いたします」
落ち合った、街の片隅。その挨拶を最後に、停めていた例の馬車に乗っておつきの彼とそのご一行は帰って行かれた。自分でおっしゃっていたように、忙しいのだろう。
これから隣町へ行き、そのまま港から船に乗ってミルヒシュトラーセ王国へ帰るのかもしれなかった。それはお疲れ様、なのだけど。
自分は今度、それ以上に『お疲れ様です』な事態になってしまいそうなのだ。見送ってから、盛大に肩を落として、はーっとため息をついてしまった。
手紙の返信。当たり前のように『わたくしでよろしければ、謹んでお請け致します』となった。それ以外ないではないか。
それに対するキアラ姫の返事も決まっている。『ありがとう。嬉しいわ』そのあとはきっと、お茶会の詳細についてのお話になるのだろう。場合によっては一度お会いして打ち合わせをしたりということもあるのかもしれない。
なんにせよ、心構えだけはしておかないと。
心に決め、その足でサシャはカフェ・シュワルツェへ向かった。シャイにひとこと報告をしておかなければいけない。事後報告になってしまったとしても。
コトの顛末に、当たり前のようにシャイは目を丸くした。サシャの来店時点ではただ嬉しそうな顔をしてくれたけれど。
「サシャ!いらっしゃい。俺、仕事中なんだけどデートのお誘い?」
シャイは今日、早番らしい。昼前だが既に店に出ている。
シュワルツェはランチも提供しているので昼は少し混むこともあるのである。なので今、長居はできなかった。
「いえ、なんていうか、そうね」
サシャの返事が濁ったのを聞いて、シャイは不思議そうに首をかしげた。
「まぁ、紅茶でも一杯飲んでいきなよ。俺の奢りで」
「ありがとう」
本意ではなくとも隠し事のようになってしまったので少々気は引けたのだが、サシャはいちばん隅のテーブルを借りて一杯紅茶をいただいた。
「実は、妹さんからお手紙をいただいたの」
「……キアラから?」
紅茶を運んできてくれたシャイに端的に話す。シャイはもっと不思議そうな顔をした。
公共の場で話して良い範囲で、そして言葉遣いでサシャは事情を説明していった。
「キアラさんがお茶会をされるそうで、そこで歌ってほしいとお願いされて」
お姫様に、そしてそのご依頼についてこんな言葉遣いで離すのは躊躇われたが、ここでは敬った言葉遣いで話すほうがおかしくなってしまう。
そんな言い方でも内容はちゃんと伝わったようだ。シャイはこれ以上ないというほど目を丸くした。
「……はぁ?あいつが?」
数秒後に間の抜けた声を出す。
「シャイは……聞いていなかった、のよね?」
その反応が既に答えだったが一応確認するように言ったサシャに、シャイは勢いよく言う。
「当たり前だよ!えー……マジかよ……。で?サシャはなんて返事を」
「お請けしますとお返事したわ」
「だよなぁ……」
それしかないことはシャイにもわかるはずである。シャイ、キアラ姫、サシャの関係と身分においてはそれしかない。
「あー……ごめん。あいつの我儘で……」
また数秒悩む様子を見せて、シャイは申し訳なさそうに言った。
今更どうしようもないのだろう。兄という権限でもストップはかけられないのかもしれない。
「私こそごめんなさい。シャイに確認しようと思ったのだけど、お返事を二日後にお手紙でくださいと言われてしまって、時間が無くて……」
「なんだそりゃ。強引にもほどがあるな。今度文句言っとかないと……」
ぶつぶつと言って、「悪いな。なんか……今度もう少し詳しく聞かせてくれ」と言ってくれた。流石にここでは話せない。
「ええ。お夕飯でもご一緒に」
「そうするか」
そこまで話してシャイは一歩引いた。声を潜めていた距離から通常のウェイターとしての距離に戻る。
「じゃ、悪いけどランチそろそろ混むから、俺戻るな。良ければランチも食っていくか?」
「ありがとう。でも、さっき朝ご飯を食べてきたから」
「そっか。じゃ」
そのあとは紅茶をいただきながら、ぼうっと彼の働く様子を見てしまった。その様子はほんとうに、ただのカフェウェイターにほかならない。それも優秀な。
しかし彼の中身は王子様。
妹様は、お姫様。
その彼女のお茶会。
きっと今、飲んでいるようなものではなく以前お招きされたときのような最高級品の紅茶とかカップとか……そのようなものが並ぶはず。そこで自分が歌うなんて。
シャイに話したことで一気に現実味を帯びてしまって、サシャはシャイに出してもらった紅茶を見つめた。自分にとっては、シャイが淹れてくれるこの紅茶が一番美味しいのだけど。と思いながら。
「キアラ様たってのお願いで、水色のドレスがよろしいと」
「……はぁ」
気の抜けた声で、サシャは目の前のテーブルに広げられたカタログを見つめた。向かいの席には貴族の、控えめではあるが明らかに庶民ではない衣服の女性が腰かけてページを繰っていく。
貴族の使うような、部屋を丸々借り切れるような高級カフェ。勿論、以前お邪魔したお城のような最高級品ではないが、庶民のサシャからしたら過ぎる装飾の施されている豪華なテーブルと椅子が設置されていた。このような慣れないようなところで打ち合わせとなっている次第。
あれから、一週間もあとには次の手紙がやってきた。キアラ姫からの『嬉しいわ』『ありがとう』『詳細をおつきに伝えさせるわ』との手紙と共に、王室の使用人の方が二人やってきた。
例のおつきの男性だけではなく、もう一人は妙齢の女性。キアラ姫付きのメイドだそうだ。
『水色のドレス』。カタログに載っているものは色が様々であった。が、この形で水色で仕立てるということらしい。
「キアラ様はどちらかというとふんわりされた雰囲気のドレスを好まれますからね。サーシャ様にはもう少し色っぽいものをと」
確かにキアラ姫はまだ少女も良い年齢であるし、かわいらしい雰囲気のドレスが良く似合う。実際、ミルヒシュトラーセ王室舞踏会でもふんわりした膝丈スカートのドレスを着ていた。
しかしサシャにと指されたものは随分色っぽかった。王室のドレスだ、上品ではあるものの、胸元がかなり開いていてスカートもしゅるっとタイトなもの。
「い、色っぽいなんて」
「歌姫様ですから」
表現に動揺したのだけど、メイドは、しれっと言う。確かにバーで着るドレスもどきもこういう形が多いけれど、あのような王室などで着るとなるとためらってしまう。
「これなどキアラ様が気乗りされておられましたわ」
「そ、そう、ですか……光栄です……」
結局言われるがままにそのドレスにすることになり、採寸は前回測ったものをそのまま使うとのことで免除された。
ドレスも決まったあとは詳しい打ち合わせに入る。
ひにちはヴァレンタイン当日。ランチタイムとティータイムを過ごすという、聞いてみれば、まぁ、『女子会』であった。女の子のやりたいことは庶民も上流階級も、そう変わらないということの模様。
ランチの間は出番がないが、催し物の一環として食休み後あたりに二、三曲歌ってほしいとのこと。
「お歌はこちらがよろしいと言われておりましたわ。練習など大丈夫でしょうか」
紙に書いたリストを見せられたが、それは意外なリストアップだった。もっと高尚な歌……聖歌のような……を想像していたのだが、意外や、街でヒットしているポップスばかりである。これならバーでも何度も歌っている。
「……なんだか意外ですね」
言ってしまってから、はっとした。馬鹿にしたように聞こえてしまっただろうか。
しかしメイドはしれっと答える。
「キアラ様は姫様ですし、お客様もご親戚や貴族のお嬢様ですが。少女であられる方々のプライベートの集いですわ。このようなお歌を好まれるのは当然かと」
それもそうである。王室開催の公的イベントではないのだ。あくまでも『超・高級女子会』と思っておけばいいらしい。
「そ、そうですよね……。大丈夫です。これとこれは歌ったことがありますし、こちらも楽譜はすぐ手に入るかと」
指を指して示していく。
「そうですか。では譜面のご用意などは不要ですね。こちらではなにが必要でしょうか」
「では、譜面台と、あと失礼ですが間に飲ませていただくお水などございましたら……あと……」
普段仕事で使っているものがあるにはあるが、バーの備品なので持ち出せやしないし、王室にはふさわしくないだろう。なので思いつく限りの必要なものを紙に書いていく。幾つか並び、それ以上思い浮かばなかったので「とりあえずこのあたりがあれば、お仕事は可能かと」とサシャはメイドに提出した。
「ではこちらをご用意いたしましょう」
打ち合わせは一旦終了となり、メイドがテーブルの上の呼び鈴を鳴らして使用人を呼んだ。
『メイド』といっても、それは『王室付きメイド』。今、この国では上流階級の部類にも入るので、むしろ『メイドさん』と呼ぶほうが失礼かもしれない。
「サーシャ様。お飲み物はなににいたします?」
「で、ではお紅茶を」
思いつかなかったので無難に返事をすると、メイドはしれっと「ではわたくしはブラックコーヒーをお願いしますわ」と言った。使用人がすぐにふたつのカップを持ってくる。どちらもあつあつの飲み物が入っていた。
「それにしても、どうしてわたくしなのでしょうか」
用事も済んだので、流れで世間話になってしまった。この〆のお茶を飲んだら解散であろうが。サシャは疑問を口に出す。
「言いましたでしょう。キアラ様たってのお願いですと」
メイドはコーヒーになにも入れずに飲みながら、しれっと言った。
「それはそうなのですけれど。……キアラ様は、私が高貴な身分などではないとお分かりだと思いますが」
「好奇心旺盛なお方ですからね。サーシャ様が歌姫をされていると聞いて『私、違う意味のお姫様にお会いしたわ』と、舞踏会のあとから随分はしゃがれておりましたよ」
少女にしたら、物珍しいのもあるだろうが興味を引く出来事や話だったのだろう。
そのあたりはやはりシャイに似ている、とサシャは思った。身分など気にしない、それより好奇心を優先してしまうカジュアルな気質。そういう性格も影響しているのだろう。だからこそサシャのことも気に入ってくださったのかもしれなかった。
「そう、なのですね……。あの、お礼を申し上げてくださいませ。身に余る光栄です」
サシャは今度は心から頭を下げた。シャイの妹様だという以外にも、素直なキアラ姫の気持ちが嬉しかった。メイドはやはり素っ気なく「お伝えしますわ」と答えただけだったが。
まさかもう一度海を渡ることになろうとは思わなかった、とサシャは思ったものだ。
厳密には前回の『行き』『帰り』、そこからの『今回の行き』で三度目なので、往復を一度とカウントすれば二回目というわけだ。そんな回数はともかく、船にも随分慣れた。
二月の半ば。まだまだ冷えるのでサシャはコートの上に毛皮のストールを羽織っていた。
こんな、庶民の身には高級品も極まる毛皮製品などサシャは身に着けたことなどなかったのだが、シャイに贈られたのだ。「海の上は一番寒い時期だよ。風邪を引いたら困る」などと。
真っ白いそれは、うさぎの毛なのだという。少し可哀想な気もしたのだが、普段から肉や魚を食べて生きている以上、そのようなことはいえない。暖を得るために必要なことだ。感謝して優しく扱うのが一番の恩返し。
高級で上質なだけあって、毛皮のストールは、普段使っているマフラーなどとは比べ物にならないあたたかさだった。確かにとても助かる、と思う。冷えがちな首元がとても暖かい。
今回はコートまで新調してもらってしまっていた。『貴族の娘』が同じ服を着てお客に行くのはおかしいことだそうだ。
そういうものなのね、くらいにサシャは思って、ありがたくもらっておいた。
今回のコートは真冬であることもあり、ひざ下まであるロング丈だった。色は茶色。レースが控えめについている。中はあかるいピンク色のワンピースだが、脱がなければ見えないほど、しっかり身を覆ってくれる作り。
このように防寒も万全に整え、やってきた二度目のミルヒシュトラーセ王国。船を降りて、前回と同じように馬車に乗せていただいて走る。天気は生憎曇りだった。
雨でも降るのかしら。
サシャが空に視線を遣ったのに気付いたらしいおつきの男性が「雪になるかもしれませんね」と言った。
雪。
サシャの暮らす国では雪が滅多に降らない。今年はまだ、二度ほどちらちらと舞ったくらいである。
しかし聞いた話によると、ミルヒシュトラーセ王国はもう少し雪の多い国だそうだ。積もることもあるのだとか。だからこそ防寒防寒と、口を酸っぱくして言われたわけだが。
「雪のヴァレンタインになれば、キアラ様やお客様は喜ばれるかもしれませんね」
おつきの男性も少しはサシャに慣れてきてくれたようで、そのような話もしてくれる。
確かに雪の舞うヴァレンタインなどとてもロマンティックである。雪をしっかり見たことはほとんどないし、降るところを見られたらいいなぁ、などサシャは思ってしまった。
もっとも、降りすぎれば交通機関などに影響が出るという話くらいは聞いていたので、帰れなくなってしまうと困るのだが。
「サーシャ様!」
馬車が止まり、おつきの彼の手を借りて降りて、前回と同じく衛兵にご挨拶をして中へと入ろうとしたのだが。
開いた玄関の奥。たたっと誰かが駆けてきた。
サシャは度肝を抜かれてしまう。キアラ姫ではないか。お姫様みずからお出迎えなど。
「待ち望んでおられたのですよ」
うしろからメイド……以前、サシャが泊まったときにお手伝いをしてくれた娘だ。彼女がうしろからやってきて、彼女も嬉しそうに言った。
「いらっしゃい!歓迎するわ」
キアラ姫は目を輝かせてサシャの前に立ち、あまつさえ、きゅっと手を握ってくれた。これも防寒のひとつとして手袋をしていたことを後悔してしまうほどに、嬉しい。
「あ、ありがとうございます。勿体ないことですわ」
「いいえ、私、またお会いしたいと思っていたのよ。我儘を言ってごめんなさい」
「そのようなこと、ございません。身に余る光栄です」
やりとりをしているうちに「玄関先は寒いですから」と中へ入るようにメイドに促されてしまった。そこでお城内部へお邪魔して、前回と同じ客室に荷物を置いてから、キアラ姫にお茶をと招かれる。
城の中はじゅうぶんなほどに暖房が効いている。暖炉の火の回りが良いのか、熱を逃がさないような構造なのか。どちらもあるのかもしれない。
実際、キアラ姫などは特に厚着にも見えないワンピースを一枚でさらりと着ているようだ。基本的に、外に出ないお姫様そのとおりの服装であった。
「うふふ、街中の流行歌なんて俗なものって父上はおっしゃるのだけど。特別なお茶会なのだと母上が黙っていてくださるとお約束してくださったの。だからとても楽しみよ」
あれからもう一度手紙を交わして歌う曲を決めていたので、キアラ姫は心底嬉しそうに笑う。確かに王族の方にはあまりふさわしくない歌であろう。そのためもあり、サシャが選ばれたというのもあるのかもしれなかった。
「サーシャ様、明日はよろしくね」
「ええ、わたくしこそ。精一杯歌わせていただきます」
明日のことだけでなく、そのあとはキアラ姫に質問責めにされた。
サーシャ様は普段どのようなおうたを歌われているの。
学校とはどのようなところなの。私は家庭教師からしかお勉強を習ったことがないの。
お友達はどんなお方なの。
身分が露見しないように、しかしまるで嘘にもならないように慎重にサシャは答えていった。
キアラ姫はとても楽しんでくれたらしい。メイドが「そろそろお夕食ですから」と呼びに来るまでおはなしは続いた。
楽しくはあったが気を抜けないお話だったのでサシャは気疲れしてしまい、お客として出されたお夕食をいただいたあとには客間のベッドでぐっすりと眠ってしまった。
まるで冬のつめたい空気の中、ぽかんと浮かんだ温室に幾輪もの花が咲いたようだった。
ピンク、イエロー、ブルー。様々な色のドレスをまとった少女たちが、きゃいきゃいとおしゃべりをしている。その様子をサシャは部屋の隅から見守っていた。
お客様たちのランチタイムも終わったと呼ばれ、出番はもうすぐなのでサシャは謹んでお部屋にお邪魔した。ドキドキする。ひとまえで歌うのなんて慣れているはずなのに、目の前のお客様の質がまったく違うのだから。かかってくるプレッシャーはけた違い。
はしゃいでいる少女たちはどの娘も綺麗に着飾り、髪もメイクも完璧。キアラ姫と同じくらいの年頃の娘ばかり。
サシャも学校でキアラ姫や目の前の女の子達と同い年くらいの娘と接する機会はあるが、若い女子というものは身分に関係なくかしましいものである模様。おしゃべりで部屋の中はいっぱいに満たされていた。ドレスアップが豪華なだけで、きっと中身は普通の女の子なのであろう。
「では、ここでお歌のお時間です。ご紹介しましょう。サーシャ=アシェンプテル様。キアラ姫のお兄様、ロイヒテン様のご婚約者様です」
司会役をしているキアラ姫付きのメイドが司会席で言い、椅子に腰かけた少女たちの間から、まぁ、という感嘆の声があがった。ぱちぱちと拍手がされる。サシャは歌を歌うために用意された簡易のステージである壇上にのぼり、お辞儀をした。
「サーシャ=アシェンプテルと申します。この度はキアラ姫にお誘いを受けまして、拙いながらも何曲か歌わせていただきます」
挨拶をしながらサシャはちょっと誇らしくも思ってしまった。ロイヒテン様の婚約者と紹介されたことで。この国ではそういう設定なのだ。
勿論、婚約などしていない。でも、ロイヒテン様……ではなく、シャイとは恋人同士になったのだ。まるで間違っているわけではない。それを祝福してもらえたように感じてしまったのだ。
「サーシャ様はお店で歌姫をされているの。プロの方なのよ」
何故かキアラ姫のほうが自慢げに言い、サシャは気後れしてしまう。
「き、キアラ姫……荷が重くなりますわ」
そのやりとりが可笑しかったのか、うふふ、と上品な笑いがその場に溢れ、そのあとすぐにピアノとバイオリン、そしてフルートの演奏で歌の時間がはじまった。こんな上等なBGMで歌えるなど夢のよう。
しかしそれに感嘆できたのもはじめだけだった。今ばかりはサシャの意識は歌に吸い込まれる。
ここはバー。いつも歌っている場所。そのように言い聞かせて、頭の中は、歌うべき歌詞とメロディ。
はじめの一曲は、少女が幼馴染の少年に恋をする、甘くもほんのり切ない歌。かわいらしく、しかし想い人に伝えるようにやさしい声音で歌い上げる。
歌いながら思った。
私はほんとうに歌うことが好き。
それを噛みしめられるような時間だった。ほんのりとしたさみしさも同時に浮かんだのだけど。
私は歌姫。『姫』と名がついていても、目の前に腰かけている少女たちとは違って、場末のバーで歌う、ただの庶民の娘。
でもまるで否定はしない。バー・ヴァルファーで歌姫をしていたからこそ、そこへおつかいにやってきたシャイと知り合うことができたのだ。つまり、二人を引き合わせたのは歌であるともいえる。
そういう意味では、サシャにとって歌や、歌姫という仕事は誇るべきで大切なものなのであった。
サシャが歌う間、少女たちの中には、サシャの歌声に合わせて頭や肩を揺らしたり、くちずさむような動きを見せる娘もいた。
二曲目が終わったとき。唐突にキアラ姫が立ち上がった。少女たちだけでなく、サシャもちょっと驚いてそちらを見る。
「ねぇ、皆さま。サーシャ様の歌われた、お歌。おうちでは反対されているでしょうけれど、こっそり歌ったことがあるのではなくって?」
思わせぶりに言ったキアラ姫の言葉に、少女たちはくすくすと笑い合う。
それはそうだろう。貴族などの、身分の高い生まれではポップスなどを大っぴらに歌えるほうが珍しいのかもしれないのだから。
ポップス。貴族の大人にとっては、特にプライドの高い大人であれば俗も過ぎる存在であろう。
「せっかくの機会よ。……ねぇ、サーシャ様。皆で歌うのはどうかしら?」
「まぁ。それは良いですね」
この空気にも慣れていたサシャはその突飛な提案もするっと受け入れてしまった。生来の大胆な気質が顔を出していた。
「でも楽譜が……」
歌詞の載っている楽譜は、サシャ用の一枚しかないのだ。よって言ったのだが、キアラ姫は胸を張る。
「うふふ。実は用意させたのよ。人数分ね。……持ってきて頂戴」
「かしこまりました」
メイドも承知していたようで、さらっと紙を持ってきて少女たちに配っていった。
楽譜を見つめる少女たちの瞳は、皆きらきらとしていた。
良いおうちの娘だけあって、こういうところは抑圧されたりするのね。
サシャは目の前の様子を見て思い知った。
キアラ姫や、貴族のお嬢様。庶民の娘として、お嬢様やお姫様は、何不自由なく育てられて羨ましい、なんて思ったことは当然ある。
綺麗なドレスを着て、仕事をしなくてもご飯が食べられて、良いお勉強だって受けることができる。なんて恵まれた生まれなのだろうと。
でもそればかりではないのだ。
サシャたち、街で暮らす庶民の女の子たちが普通に触れたり手に取ったりできるものが、彼女たちは逆に手にできないこともある。なにごとも一長一短。サシャは噛みしめる。
「皆さま、このようなおうたを大っぴらに歌うのは初めてよね。このおうたを知らない方もいらっしゃると思うわ。だから、まずはワンフレーズずつ、サーシャ様の歌うのに続けて歌うのはどうかしら」
楽譜を握りしめて場を仕切るキアラ姫が一番楽しんでいただろう。
キアラ姫の提案通り、サシャとBGMの楽団は少しずつ歌を進めていった。少女たちの歌声は拙く、おそるおそる、という様子ではあったが、確かに楽しんでくださっているのが良く伝わってきた。
サシャは彼女たちにわかりやすいように、常に歌うよりも丁寧に、はっきり発音するように心がけて歌った。ゆっくり、ゆっくりの進みで一曲が終わり、最後に皆で通して歌った。
それはただの街中流行のポップスであったのに、なによりも尊い歌のようにサシャには聴こえた。そしてこのような楽しみ方で歌を歌うのは初めてだ、と。
皆で楽しむ歌の時間は、あっという間だった。
「ああ、こんなに声を張り上げたことは無いわ。とても面白かったけれど、喉がからから」
笑いすぎたようで涙すら滲ませながら、キアラ姫は満足そうなため息をついた。少女たちも同じだったようで、口々に楽しかったといい合う。
そこへタイミングよく、お茶が運ばれてきた。
香り高い紅茶に、今日のメインのスイーツ。
ショコラのケーキ。高級そうなトルテも。ショコラのものだけでなく、パイやタルトもたくさん並べられた。
今度は違う意味で少女たちが湧きたつ。
「サーシャ様もご一緒にいかが?」
誘っていただいたものの、そこまで甘えるわけにはいかない。彼女たちには彼女たちの世界があるだろうし。
なのでサシャは「いえ、わたくしは」と言いかけたのだが、そこで不意にまったく違う声がした。
「お邪魔するよ」
この場には居る者とはまったく違う声。でもサシャにとっては一番大切なひとの声だった。
「シャ、」
咄嗟に呼びそうになって、口をつぐんだ。しかし一秒も経たずに言いなおす。
「ロイヒテン様!どうしてこちらへ」
驚いたのはサシャだけではなかった。キアラ姫も目を丸くする。
「お兄様ではありませんの!どうされましたの?」
「サーシャを迎えに来たんだよ」
ロイヒテン様は、きっちりと『ロイヒテン様』の格好をしていた。
今日は深い青色の服。かっちりと詰襟のものだ。そして『ロイヒテン様』の常であるように髪を持ち上げて固めていた。
「ロイヒテン様!」
「お目にかかれるなんて光栄ですわ」
お客様の少女たちも一気に騒ぎはじめた。そんな彼女たちにロイヒテン様はにこにこして、「いつもキアラがお世話になっているね」とカジュアルに挨拶をする。
「酷いわ、お兄様。内緒でいらっしゃるなんて」
キアラ姫がぷぅっと膨れる。ペースを乱されるのは苦手なのだろう。
「ははは、驚かせたくてね」
しかしロイヒテン様は軽くいなして、キアラ姫の頭を優しく撫でた。
「……わたくしも驚きましたわ」
サシャはなんとか言った。実のところ、驚きのあまりに心臓が口から出そうになったのだ。
「ほら、サーシャ様だってこうおっしゃっておられるのに」
「悪かったよ」
やりとりをして、もう退場かと思ったのだが、そこでキアラ姫が違う爆弾を落としてきた。
「サーシャ様、今日はありが、……いえ、お義姉様。ありがとうございました」
ぺこりとお辞儀までされる。
えええ!?
サシャは内心、絶叫していた。この場でそんなはしたない声を上げるわけにはいかないので、なんとか飲み込んだが。
「え、あの、キアラ、様。なにを」
「ああ、そうだな。いつかそうなるだろう」
しどろもどろでなんとか言ったのに、ロイヒテン様ときたら、しれっとそんなことを言うのでサシャは心臓が高鳴るがあまり失神しそうになった。
「え、ええと、そのようなことは、まだ」
それでもキアラ姫は許してくれない。
「あら、だってお兄様に抱かれてくちづけされていたじゃない。クリスマスパーティー。私、拝見したのよ」
くらり。
サシャの意識が揺れた。
まさか見られたなんて。
あの一瞬。ほんとうに、まさか、だ。
「あれは、ご婚約者様だからされたのではなくて?」
少女とはいえども立派な女性。見る目は確かなようだ。今度はロイヒテン様に尋ねている。
きゃぁ。
くちづけですって。
耳にした少女たちが一斉におしゃべりをはじめる。頬を紅潮させて楽しそうに。こういう話になれば盛り上がってしまうのは、年頃の少女として当然。
しかし今のサシャにそれを気にする余裕などなかった。なにも言えずにいるサシャをよそに、ロイヒテン様とキアラ姫は楽しそうに話を続けている。
「勿論だよ。俺はそんな軽い気持ちでサーシャに接したりしないからな」
「まぁ、お兄様ったら自信満々でいらっしゃる」
兄妹はくすくすと笑い合った。サシャは混乱のしきりだったが、ロイヒテン様に手を差し出されてしまった。
「さ、サーシャ。俺たちはあちらでお茶でも飲もうじゃないか」
「そうね。サーシャ様、あ、いえ。お義姉様。今日はほんとうにありがとう。とても楽しかったわ」
あれやこれやと。
落ち着かないままにサシャはロイヒテン様に手を引かれて、少女たちの集う部屋をおいとますることになったのだった。
お茶を飲むと言った割には、ロイヒテン様がサシャを連れて行ったのは、城のバルコニーだった。ガラス張りの窓は閉ざされているので寒いということはない。けれどそこから見える景色は寒々しかった。
「悪かったね。驚かせて」
「ほんとうですわ。わたくし、心臓が止まるかと思いまし……」
言いかけたところでロイヒテン様がストップをかけてきた。
「普通に喋っていいよ。人払いをしたんだ。しばらく誰も来ない。今は『サシャ』と話したくて」
『サーシャ=アシェンプテル』ではなく、『サシャ』。
そして彼も『ロイヒテン様』ではなく『シャイ』になる。
「……それなら。もう、ほんとうに驚いたのよ。いらっしゃるならいらっしゃるって言ってほしかったわ」
要求通り、素の喋り方をしたというのに、シャイには笑われる。
「くくっ……いきなりサシャになったな」
「シャイがそうしろと言ったのよ」
「そうだけども」
数秒笑ったあとに、シャイは真面目な顔になる。
「キアラのお茶会も気になったんだけども。サシャに話しておきたいことがあってさ」
「……お城でなければ駄目なの?」
お城、というか、この国というか。サシャが住み、シャイがカフェで働くあの国ではだめなのか。そのほうがいくらでも都合がつけられるというのに。
サシャの疑問は当然のものだったろうが、シャイは言った。
「まぁ、駄目じゃないけど……。ここで話すのがふさわしいかと思ったんだ。そしたらキアラがサシャを呼び出したなんて言うもんだから、便乗させてもらったってわけさ」
だから追っかけてきて、王子のカッコ、したんだ。
そのような前置きのあとにシャイはサシャにソファを勧めてくれた。短い話でないのはわかったのでサシャは大人しくソファに座る。隣にシャイも座ってきた。
「話ってのは。クリスマスパーティーのときに女性が挨拶にきたろう。ほら、金髪をアップにして、サシャにつっかかってきた……」
「……ああ。エリザベータ様、だったかしら」
そう、とシャイは端的に肯定した。
「その節は悪かったね。俺の事情で巻き込んで」
「いえ。それより、どうしてなの?」
シャイはここまでよりもっと真剣な顔になった。
「そう、その話をサシャにしておくべきだと思ってたんだ。でも機会がなかなかなくて。気軽に話せることじゃないし」
釣られてサシャもごくりと喉を鳴らしてしまう。シャイの、そして多分王家のなにかしらに関わると察したので。
「彼女はね、以前、俺の婚約者だったんだ」
シャイの話はそこからはじまった。切り出しから既にサシャの心臓は冷えてしまったけれど。
婚約者。元、とはいえ、一時期、愛しあっておられたのでは。そう思ってしまって。
確かにあのときの彼女の口ぶり。なにかしら、恋が絡むような関係だったような言い方だった。それなら、シャイからもそういう感情があっても。
サシャの抱いた不安など十分承知で切り出しただろうシャイは、すぐにそれを否定してくれる。
「サシャが思うような関係じゃないよ。父上が決めたんだ。それはもう、俺がまだ十にもならないくらいの頃にね。その頃、彼女の家は羽振りのいい貴族で」
いくつかその頃の話をしてくれて、そのあと。
シャイはちょっと悲しげに言った。
「でも、……気の毒だが、お家が没落してしまった。これは国家の話になるからはしょるよ」
「ええ」
サシャはそれだけ言って、シャイの話を促した。まだただのシャイの恋人であり、この国ではあくまでも『婚約者のふり』であるサシャに踏み込んでいけない領域だろう。
「それでその……没落の理由が穏やかじゃなくてね。だから……ほら、俺の父上に一度サシャも会ったろう。あのとおり父上はプライドの高い方だ。彼女との婚約をさっさと破棄してしまった」
ごくりとサシャはもう一度、唾を飲み込んでいた。これは機密事項レベルでないにしても、スキャンダルの類にはなるだろう。緊張してきてしまう。
「実のところ、これは割合最近のことなんだ。まだ数年しか経っていない。勿論、俺も成人に近付いていたから彼女と結婚するものだとばかり思っていたさ。彼女もそのつもりだっただろうし」
そので一旦、声は切られた。言い淀んでいるのがわかる。
「でも、……。いや、言い訳にしかならないんだけど。政略結婚だと思う気持ちばかりだった。だから女性として見てはいたけれど、自発的に恋心を抱いたわけじゃない。……いや。本当に言い訳だな。ごめん、今の恋人に話す内容じゃないかもしれない」
「……いいえ。きっと私は知っていないといけないことよ」
「ありがとう」
シャイはちょっと困ったように、でもほっとしたように微笑んで、続けた。
確かにあまり面白い話ではない。けれど、このままシャイと付き合っていく上では知っていないといけないのだ。目を背けることのほうが、いけないこと。
「だから、彼女が言いたかったことは多分。俺のことを『家の事情が変わればすぐに恋仲の女性を捨てる男だ』だろうと思う」
息が止まりそうだった。
シャイはそんな男性ではない。わかっていた。
けれど、少なくとも彼女にとっては、エリザベータ様にとってはそれは事実なのだ。彼女の立場からしたら、そう捉えて当然である。ほんとうに愛していたのなら、父に逆らってでも、駆け落ちでもしてほしいと。そう願っていたのだろう。
しかしロイヒテン様はそれをしなかった。
婚約破棄を呑んだ。
それがエリザベータ様にとっては許せないことだったのだろう。
そしてそれをしなかった理由は『彼女に対する想いがそこまで強くはなかった』ということ。
しかしおそらくエリザベータ様は少なからず。いや、きっととてもロイヒテン様のことを想っていた。
そのすれ違いだ。
サシャは俯いてしまう。
彼女の嫌味な態度。今なら理由がわかる。
深い悲しみから来るもの。それに裏切られたという憎悪、ほかにも彼女しか知らない感情がたくさん、たくさんあるのだろう。
確かにサシャはあのとき彼女にそういう態度を取られ、嫌な思いをした。けれど今では彼女のことを嫌な女性とばかりは思えなかった。
むしろ彼女の感じた感情を思うと心が痛んで涙のひとつでも出そうだ。自分も同じ立場であったなら、彼女と同じような気持ちになっただろうから。
「彼女の言うこと、間違っちゃいない。事実だ。俺はそういう男だ」
「違うわ。……」
シャイの言葉をサシャは否定しようとした。
けれど言葉が出てこない。なにか、なにか言わないといけないのに。
それでもなにも出てこなかった。軽々しい言葉など、言ってはならないので。
「でも俺は、……サシャに恋をした。はじめて自分から好きになった女性だったんだ。こんな話のあとじゃ、信憑性なんてないな。でもほんとうのことだ。俺の気持ちだ」
サシャはなにも言えなかったが、きちんと聞いているのは伝わっているのだろう。シャイは続ける。なにか、遠くを見るような眼になった。
「初めて会ったのは、国を飛び出して、庶民のふりをしてカフェに勤めた俺がヴァルファーへおつかいに行ったときだったな。正直、小汚い店だなぁとか思ったよ。悪い、失礼だけど。でもそこで歌っていたサシャに、目を奪われてしまったんだ」
ああ、きっと彼の眼にはあのときのバー・ヴァルファーの様子や、初めて目にしたサシャが浮かんでいるのだろう。唐突に、くすぐったい気持ちを覚えた。
「ごめん、失礼なことばっかり言う。確かにサシャのそのときの身なりは良いものじゃないと思った。客も酒飲みばかりで、いい環境じゃなかったと思った」
見ていてくれたのだ。サシャがシャイときちんと出会う前。初めて知った。
「でも、歌うサシャはほんとうに楽しそうだったんだ。心から歌うことを楽しんでる、って顔をしてた。勿論、歌も俺の心に響いたよ。あんな綺麗な歌、俺は聴いたことがなかったんだ。王室の、まぁ……高尚とか言われてる、そういう音楽よりもなによりも、『生きている歌』だったんだから」
とつとつと話し、そこでシャイはやっと視線をサシャに向けた。サシャの好きな琥珀色。今は硬かった。
「そのあと、サシャとちゃんと知り合って、仲良くなって……っていうのは話すまでもないな」
笑ってくれた。無理に笑った、という顔だったが。
「うん、つまりこれが俺の事情だ。今まで黙っていて悪かった」
「……そんなこと、ないわ」
サシャの言葉は喉に引っかかったようになっていた。
喉が熱い。涙でも零れそうだ。
彼の抱えていたものの重さやら、自分に恋をしてくれたことへの嬉しさやら、それから家の複雑な事情と婚約についてやら。
ほかにもたくさんの事実や感情が胸に迫ってきて、ついにこらえきれずにぽろっと涙が零れた。シャイはもちろん慌てたようだ。
「悪い。失望、したか……?」
「違うわ」
サシャは零れた涙をぐいっと拭った。泣き顔など見せたくない。
「私のこと。抱えているものをすべて話しても良いと思うくらいに想ってくれるのでしょう」
まっすぐにシャイを見つめる。シャイも硬い眼で見つめ返してきた。二人の視線が交わる。
「……そうだ。知っていてほしかった」
とくとくとサシャの胸が熱くなっていく。また涙が零れそうだったけれど、ぐっとこらえて、サシャは笑った。無理にではあったけれど、嫌な意味で無理をしたわけではない。
「それなら、私は嬉しいわ。シャイのこと、きちんと知れて」
「……ありがとう。泣くほどつらいだろうに」
その言葉は自分を慮って言ってくれたものだとわかっていたから、サシャはもう一度笑うのだ。
「つらさだって、愛しているひとのことなら受け入れるわ」
「……ほんとうに、サシャは強い女性だね」
不意に、シャイが立ち上がった。手を差し伸べて、サシャのことも立ち上がらせてくる。
促されるままに立ち上がったサシャは即座に、腕に抱き取られていた。ぎゅう、と痛いほどに強く抱きしめられる。
けれどそれもきっと、シャイの抱いてくれる気持ちの強さ。サシャは安心して彼の背中に腕を回した。とくとくと伝わってくる鼓動が心地いい。
「初恋が実って、俺は幸せだ。……愛してる」
「私もシャイを愛してるわ」
当たり前のように言い交わし、しばらくそのままでいたのだが、シャイがふと声音を変えた。
「気付いてたかい。外」
「外?」
サシャは窓に背中を向けていたので、外は完全に見えない位置であった。なので、シャイから少し離れて振り向く。見えたものに、思わず「わぁ」と感嘆の声をあげてしまった。
ちらちらと白いものが降っている。
雪だ。
これほど降っているのを見たのは、今まで生きてきて数えるほどしかない。
うつくしかった。とても。
「雪。サシャの国ではあまり降らないだろう。ゆっくり見るといい」
見入ってしまったサシャを少し可笑しく……いや、愛しく思ったのだろう。シャイはそう言ってくれる。
「綺麗なものね」
「雪遊びでもしていくかい」
「それも楽しそうだわ」
言い合い、くすくすと笑う。
シャイのこと。
抱えている事情を知った今、楽しい気持ちや嬉しい気持ちばかりではない。
それでも自分で言ったように、『つらい気持ちだって、愛しているひとのため』。
だから、いい。
今はつらく感じられることすら、幸せなことなのだから。
雪を眺めていた視線をそらして、シャイのほうを見る。シャイも気付いたようにサシャに視線をくれて、視線がまたぶつかった。どちらともなく、微笑を浮かべる。
触れ合ったくちびる。まるで心ごと触れ合うような、深くやさしいものだった。
異変が起こったのは、二月も終わりそうなあたたかくなってきた日のことだった。
「こんにちはー」
その日サシャはヴァルファーのおつかいでカフェ・シュワルツェへ赴いた。例によって店で使う茶葉が切れそうになったためである。
大概出勤しているシャイがいると思ったので、サシャはうきうきとドアを開けた。いつもどおり、真鍮のベルが、からんからん、と鳴ってサシャを迎えてくてる。
でもそのあとは違っていた。今日かかった声は「いらっしゃいませ」だったのだから。
あれ、いつもならドアを開けるなりシャイがすぐに気付いて、「サシャ!いらっしゃい!」と言ってくれるのに。
「いらっしゃいませ」を言ってくれたのは、顔見知りのウェイターだ。シャイの同僚の男性。
「おつかいにきたんです」
「ああ。茶葉だね」
言ったものの、シャイを呼ぶでもなく茶葉の並んでいる棚へ誘導されようとしたのでサシャは不思議に思った。
「あの。シャイは今日、お休みですか?」
交際をはじめてからすぐ、シャイはカフェスタッフに「サシャちゃんと恋人同士になったんだー」と報告していたそうだ。まったく惚気が激しくて困るもんだよ、なんてウェイターの同僚のひとたちやマスターにからかわれてサシャは恥ずかしい思いをしたものだ。
しかし、今日はなんだか扱いが違う。
「……えっ」
シャイより少し年上の同僚ウェイターは驚いたようにサシャを見た。
「シャイなら先週、店を辞めたよ?」
「……えっ?」
今度驚くのはサシャだった。
なにを言われたのかわからなかった。意識が空白になる。
「知らなかったの?」
言われてやっと、はっとした。それほどまでに意外過ぎる言葉だった。
やっと頭に彼の言葉の意味が染み込んで、じわりと嫌な感覚が胸の中へ広がった。
サシャは頷く。それしかできなかったのだ。
「……そう……」
彼は不審そうにサシャを見てくる。
シャイはあれだけデレデレとサシャとのことを話していたのだ。そのサシャが、一週間以上、シャイがカフェを辞めたことを知らないなどおかしい。そんな目をしていた。
そういう眼で見られても困ってしまう。だって、それを一番おかしいと思うべきで、実際今その状況になっているのはサシャだったのだから。
「……そう、だったんですね」
あまりに意外な状況に戸惑いながらも、サシャはやっと気を取り直した。
「え、えっと……どうして……」
「俺は知らないな……マスターなら知ってると思うけど。でも唐突だったな」
むしろそんなサシャを可哀想に思ったのか。彼は優し気な声になって言ってくれた。内容はなんの救いにもならないものだったけれど。
「……そう、ですか……」
それだけ言って俯いてしまったサシャを気遣うように、彼は軽く覗き込んでくれて、「とりあえずおつかいはこれだよね」と茶葉の缶を出してくれた。
「はい……」
受け取って、代金を払って、カフェをあとにする。まるで道がぐにゃぐにゃとやわらかくなってしまったように、帰り道は心許なかった。
どういうこと。
カフェを辞めたって。
それで私になにも言ってくれなかったって。
そういえば。
サシャは思った。
確かに一週間以上、シャイはヴァルファーにもおつかいへきていなかったのだ。これまでそんな頻度がさがることはなかったのに。
それどころかそれ以上にやってきて、ヴァルファーのマスターに「このサボり常習犯め」なんてからかわれるくらいだったのに。
交際をはじめてからはマスターやスタッフに「デートならよそでやってくれよ」なんてもっとからかわれるくらいにだったのに。
それが、一週間以上ない。もうひとつ、不安材料が増えてしまった。
大体、プライベートでも確かにしばらく……そういえば一週間以上は会っていなかったのだ。
その間になにかあった、のだろう。
私、なにかしたかしら。
サシャの思考はそこまでいってしまった。
やっとヴァルファーの前にたどり着いたけれど、スタッフ専用の裏口前で、サシャは少し佇んでしまった。ぎゅっと茶葉の入った袋を抱きしめる。
今までならシャイが用意してくれていた、それ。今は違う。
なにかがおかしい。とてもおかしい。
サシャの胸の中の嫌な感覚はどんどん広がっていった。
そしてそれはどこでも裏付けられていった。
入ったことはなかったが、一応シャイの暮らす家の場所や部屋は知っていた。小さなアパートである。外階段がついていて、白い建物。そこそこ、綺麗。
なので翌日、そこまで行ってみた。建物は確かにあった。
けれどシャイの住んでいた、二階の一番はしっこの部屋の前には『入居者募集中』の紙が貼ってあった。
それを見たときは息が止まりそうになったものだ。
もう、ここに住んですらいない?
このアパートにではなく、この街に。
数分その場から動けなかったくらいだ。
震える足であとずさり、転げ落ちないようにしっかり手すりを掴んで階段をおりた。
カフェ・シュワルツェにもう一度訪ねて、今度はマスターにシャイのことを聞いても同じだった。
「はっきり理由は言わなかったんだよ。ただ、『きちんと働かないと思った』なんて言ってたよ」
マスターも困惑した様子で言ったものだ。
「別にウチだってしっかりした店だし、シャイだってちゃんと働いてたのに、それ以上なにか……ってのはおかしいと思ったんだけどね」
シャイのその『理由』は当然のように、サシャに王家のことを連想させた。
まさか、国に帰ってしまったのだろうか。国でなにかしらの職務に就くために。
サシャのその発想は、まぁ順当だっただろう。この街から消えたシャイは、国に帰ったという可能性は非常に高かった。
そこまで想像して、まずサシャは、それなら王室宛てに手紙でも書けばいいのかと思った。シャイ宛てか、もしくはほかのひと宛てにでも。
でもそこで思い知った。
渡す相手、持って言ってくれるひとがいない。今まで手紙のやりとりをしたことはあるけれど、そのどれもが、おつきの一行経由だったのである。今はそんな、自分とミルヒシュトラーセ王室を繋ぐ存在はない。
一応、郵便を出すことはできるだろう。調べればミルヒシュトラーセ城の住所、というか手紙の宛先くらいはわかるはず。
けれどそれが無事届いたり受理されたりするかというと、大いに疑問だった。こんな不審なもの、と破棄されてしまう可能性もある。それにそれでは時間がかかりすぎる。
では、直接訪ねていけばいいのか。もう二度もお邪魔しているし、門番の方だって衛兵さんだって、私のことを見知っているはず。門前払いはされないわ。
思ったものの、そこまで辿り着くまでが問題であることに思い至ってサシャは途方に暮れた。
ミルヒシュトラーセ王国に行くまでは、まず隣町まで馬車に乗って行き、そこから更に港行きの馬車に乗り、そしてそこから船だ。船だって数十分で着くわけではない。おまけに船旅など安いものではない。
つまり……サシャの身分や稼ぎでは、ミルヒシュトラーセ王国まで行くための交通費がかかりすぎるのである。
計算してみたけれど、丸々一ヵ月近くの生活費が飛んでしまうことになってサシャは途方に暮れた。お城に入れてもらえるかわかりもしないのに、これほどのお金、ぽんと出せない。
どうしよう、それでも愛するひとを探しに行くべきなのか。
そこで、ずっと抱いていた不安が迫ってくる。
シャイは自分になにも告げずにいなくなった。
それはまさか。
……考えたくなかった。
ただ確かなのは。
シャイはサシャになにも告げずに、サシャの前から綺麗に消えてしまったということだった。
三月になってすぐに、学校の卒業式があった。最高学年であったサシャは卒業である。高級な学校でもないので卒業試験もそう難しくはなく、集中できない試験勉強でもパスできてしまった。
ビスクやストルと卒業証書をもって笑い合って、でも泣き合って「これから毎日会えないの、寂しくなるね」なんて言い合ったけれど、サシャはどこか空虚だった。
いちばん大切なひとが居ない。
シャイが綺麗さっぱりこの街と、サシャの前から消え失せてからもう一ヵ月近くになる。
あれほど想っているといってくれたのに。愛しているといってくれたのに。
はじめの頃こそサシャは毎晩、独りのベッドで泣いた。
居なくなってしまったシャイ。自分のことをもう想ってくれなくなったのではないかと、当然の不安が毎晩こみあげてきて。
でもシャイが、以前キアラ様のお茶会の日、バルコニーの部屋で話してくれたことが原因だとは思わなかった。
あのときのシャイは『自分はそんな男だ』と言った。元婚約者の女性に『家の事情が変わればすぐに恋仲の女性を捨てる男だ』と言われても仕方がないと。
しかしサシャはそれを否定した。その気持ちは今も変わっていない。
きっとなにか事情があるのだ。
シャイはそんなひとではない。だから、こういう状況にならざるを得ないなにか事情が。
それでも不透明すぎるその事情がいつか明かされるかはわからない。
最近ではもう、涙も出ない。泣くことにも思い悩むことにも疲れてしまったのだ。
これからどうしていいのかもわからなかった。
卒業後は、バー・ヴァルファーの仕事を増やして続けることにしていた。そうすれば食べるには困らない。慣れた仕事であるので心配もない。だから行き先に困るということは無いのだけど。
行き先に困るのは、シャイを想う気持ちだ。
帰ってきてくれるのを待っていたらいいの。
それとももう無かったことにすればいいの。
秋の終わりから、この春のはじめまでたくさんあった、シャイとの出来事。変わった関係。通じ合ったはずの気持ち。
全部、全部夢だったのかとすら思ってしまうこともあった。
そして一番大きい気持ち。
ただ、……寂しかった。
「いってきますね」
バー・ヴァルファーでの日中仕事も慣れてきた。バーの整備をしたり、食事の仕込みをしたりという裏方仕事だ。
今までも手伝いくらいはしていたのでなにも苦労することはなかった。ただ、することや携わる時間が増えただけなので。
今日は買い出しだ。隣町までではなく、すぐそこの市場まで。届けてくれる食材も多いが、香辛料や調味料など、大量消費しないものは直接買いに行く。今日もそのクチである。
ええっと、必要なのはシナモンと粉末ココナッツ……。それにカリー粉?新メニューにカリーでも入れるつもりなのかしら。異国の料理である、カリーライス。美味しいとは聞いていたけれど、ヒットするかは少々疑問だった。
市場へ向かう道の途中。
不意に、きゃぁっと歓声が上がった。なにがあったのかとそちらに視線を向けて、サシャはびくりとする。心臓が喉から出るかと思ったくらいだ。
「王家の馬車じゃありませんこと!?」
がらがらと大きな音を立てて、馬車が走ってくる。ワインレッドに塗られて黄金の装飾が豪華な、明らかに貴族以上のお家の馬車である。街の人々も貴族ではなく王家だと思ったようだ。
「どちらのお国かしら!」
「どうしてこんなところへ?」
道をゆく人々が騒ぎはじめる。そのくらい、この街では異彩を放つ代物であった。
サシャは動けなかった。
この馬車は見覚えがある。
だって、何度も乗ったのだ。同じものではなくとも、同じ紋章の付いた馬車に。
「王様や王子様が乗ってらっしゃるのかしら!?」
聞こえてきた野次馬の言葉に、はっとして、サシャはもう一度心臓を掴まれたような心持ちを感じた。
直感でわかったのだ。
……やってきたのは、シャイだ。
ぼんやりと道に佇んでいたサシャは、どうやらうまく見付けられてしまったらしい。少し行き過ぎた程度で馬車は急停車した。
ばっと扉が開いて、こんな豪華な馬車に乗る人物には似つかわしくないほど勢いよく出てきたのは、やはりシャイ……ではなく、ロイヒテン様だった。
「サシャ!」
呼ばれてもサシャはぽうっとしていた。まさかこんなところで、こんなふうに再会するなど思わなかったのだ。
ロイヒテン様。今までお城で見たのと同じ。王子の姿をしている。正装で、髪を持ち上げて。
しかし服はクリスマスパーティーのときと同じくらい豪華な、盛装といえるものだった。
ロイヒテン様はやはり王子らしくもなく走り寄ってきて、勢いよくサシャを抱きしめた。
こうまでされては、ぼうっとしているどころではなかった。
しかし信じられない。再会できたことも、こんな形になったことも。
「いきなり居なくなって悪かった」
抱きしめる力強い腕。
彼の香り。
優し気な声。
すべてから彼がシャイであることをやっと理解して、その次には再会できた事実が胸をいっぱいに満たしてサシャの目から一気に涙を零させた。シャイにきつくしがみつく。
「なにがあったのよ!私、わたし……」
「悪かった」
回りではどよめきが起こっていた。
馬車から飛び出してきた、明らかに王子である男性が、そのへんを歩いていたごく普通のワンピースを着た女の子を熱く抱擁しているのだから。
でもそんなことはどうでも良かった。
「サシャ、聞いてくれ」
サシャをそっと引き剥がして、シャイは言った。一気に溢れた涙で視界はぼやけていたけれど、サシャはその顔を見つめただけで理解した。
このひとは今、『シャイ』ではない。
『ロイヒテン様』だ。
「俺は、サシャの前では『シャイ』でいたかった。だからこそ、この国に帰ってきてからサシャに『シャイ』として告白した」
涙が止まらないまま、サシャは彼を見つめるしかない。そんなサシャに言い聞かせるようにロイヒテン様は続けていく。
「でもこのままじゃ駄目なんだ。きみをもう『かりそめのお姫様』にしておきたくない。サシャのことを護るためにはきちんとしないといけないんだ」
うしろから、いつのまにか近付いていたおつきの男性がいた。何度もミルヒシュトラーセの行き来に付き添ってくれたひとだ。
彼がシャイになにかを渡した。
大きな花束。真っ赤な薔薇だ。何本あるかもわからない。百本近くあるかもしれない。
シャイがそれを受け取り、そっと身を屈めた。サシャの前に跪く。
薔薇の花束を差し出され、言われた。
「だから今度は、ロイヒテンとして告白する。サシャ、きみを愛している。きみは、『シャイ』じゃない俺のことも愛してくれるかい」
今度は違う意味でサシャの頬に涙が伝った。
花束を受け取る。ずっしりと重かった。まるで彼からの愛情の深さを示しているような重み。
手に抱いて、やわらかく抱きしめて、サシャはそっと目を閉じた。目に溜まっていた涙が勢いよく頬へ流れる。
「ロイヒテン様」
目を開けて、サシャは笑った。
「言うじゃない。薔薇はどんな名前でもそのうつくしい香りに違いはないと」
いつかと同じ、泣き笑いではあっただろうが、本心からのほんとうの笑みで笑う。
「だから、勿論よ。『シャイ』も『ロイヒテン』も貴方の中にいるひとだもの。愛しているわ」
サシャからの返事は半ば予測されていただろうが、ロイヒテン様は幸せそうに微笑んだ。立ち上がって花束ごとサシャを抱きしめる。二人に挟まれた薔薇から、甘い香りが立ち込めた。
ほんとうは、いつからかどちらでもよくなっていた。
呼ぶ名前が『シャイ』でも『ロイヒテン様』でも。
だってサシャの愛しているひとは、なんと呼ばれていようとその一人なのだから。
三度目の航海は一人旅ではなかった。隣にはロイヒテン様がいる。ずっと一人で見ていた、甲板から見られる海上の光景もとてもうつくしく見えた。
すっかり春になって、海の上でも風はもう冷たくない。
三月も半ばを過ぎたある日。サシャは住み慣れた街を出た。家のこともバー・ヴァルファーのこともすべて整理して。
今度は粗末な馬車ではなく王家の立派な馬車に乗せられて、隣街へ。街を抜けて港へ。そこから更に、船でミルヒシュトラーセ王国まで向かう。
乗せられた船も勿論、今まで航海してきたときよりずっと立派な船だった。馬車だって丸ごと積んでしまえるのだ。それほどしっかりしていておまけに豪華な外装。
そんな船に乗せられて、ロイヒテン様と並んで海を見てサシャは実感する。
ほんとうに自分はお姫様になったのだ。
今ではもう、勿体ないことだとは思わなかった。
思いあがったりはしない。
けれど、自信は持つ。
このひとのお姫様になるのだ。ほんとうの意味で、ロイヒテン様の隣にいるひとになるのだ。
ロイヒテン様はあのあと、街中での大告白のあと、落ち着いてから聞かせてくれた。
ミルヒシュトラーセ王国に戻ることにした。
継承権が低い自分は、ミルヒシュトラーセ王国の王にはなれない。が、第二子以降の王族の通例として、王国の有する領を取り仕切る『領主』になるという道がある。
以前からそのひとつに収まれと言われていて、しかしロイヒテン様は婚約破棄を押し付けてきた国王陛下への不信感から、言葉どおりにはならないと国を飛び出していたのだ。そしてサシャの暮らす街で庶民の振りをしていた。
しかし、サシャとの関係を正すため。
もうひとつ、自分の身の振り方にけじめをつけるため。
国王陛下の辞令を正式に請けて、領主になる道を選ぶことにした。
そのために片付けることがたくさんあったのだと。
サシャにも黙っていなくてはならなくて、結果的に一ヵ月近くも姿を消すことにしてすまなかったと。
そのときもまたサシャは泣いてしまったのだが、すぐに涙は払って言ってのけた。「これだけ待たせたんだから、幸せにしてくれないと許さないわ」と。ロイヒテン様はサシャの大胆な言い方に苦笑して、「仰せのままに」と言ってくれたものだ。
それで今は二人、これからの生活のために海の上。
「寒くないかい」
「むしろ心地良いわ。もうあたたかいもの」
ロイヒテン様が聞いてくれるので、サシャは答えた。彼の顔を見あげて、にこっと笑って。むしろロイヒテン様のほうが困ったような顔をした。
「前に来てくれたときは寒かっただろう。悪かったね、二度も一人で海なんて渡らせて」
「まったく平気だったわ」
ふん、と胸を張ったサシャには苦笑が返される。
「そっか。そう言われると、ちょっと寂しい気もするなぁ」
「我儘ね」
言い合って、くすくすと笑った。
すっかりいつものペースだ。そう、なにも変わっていない。
「……俺のお姫様は本当に強くて勇敢だな」
「光栄よ」
潮風に吹かれながらそっと腕に抱かれる。ほのあたたかい潮風はまるで祝福してくれるかのように穏やかだった。
愛する人が隣にいて、愛する人の国へゆく。
『シャイとサシャ』でも、『ロイヒテンとサーシャ』でも、なにも変わらない。
表す名前が変わっても、姿や格好が変わっても、愛する人はそのままここに居てくれるのだから。
(完)




