第1章 きちんと、仕事をするということ
立原美玖は、毎朝、同じ時間に席につく。
業務開始より、ずっと早い時間だ。
派遣社員としては、少し――いや、かなり早い。
でも、それには理由があった。
パソコンを起動し、静かに立ち上がる画面を見つめながら、美玖は深く息を整える。
メールを確認する。
前日の退社後に届いたものがないか。
誰かの困りごとを見逃していないか。
今日やるべきことを、頭の中で一つずつ並べる。
それは、評価されたくてしていることではなかった。
褒められたいわけでも、目立ちたいわけでもない。
ただ――
仕事を始める前に、心の準備が必要だった。
美玖にとって、それは欠かせない時間だった。
少しでもざわついていると、整わない。
人の気配や声が多いと、考えが散ってしまう。
だから、誰もいない時間帯がよかった。
静かなオフィス。
キーボードを打つ音も、電話の音もない。
その空気の中で、ようやく自分の呼吸が落ち着く。
――大丈夫。
――今日も、ちゃんとやれる。
そうやって、自分に言い聞かせてから、美玖は仕事を始める。
それは、生きるための準備に近かった。
過去に勤めていた職場では、席を立つ回数や、トイレに行く時間を数える人がいた。
誰と、どれくらい話したか。
何分、席を外したか。
そんなことまで、チェックされていた。
直接何かを言われるわけではない。
でも、視線や、空気で伝わってくる。
「見ているよ」
「気をつけて」
その感覚が、心の奥に残ったまま、美玖は次の職場へ、また次の職場へと移ってきた。
だから、どこに行っても、いつも少し緊張していた。
誰かに監視されているような気がして、無意識のうちに、動きを抑えていた。
そんな状態で、業務上の嫌がらせまで重なると――
必死になるしか、なかった。
それでも、美玖は仕事をやめなかった。
頼まれた資料は、丁寧に作る。
提出期限より、少し早めに仕上げる。
完成したデータは、提出用フォルダーに入れたあと、自分だけがわかる場所に、そっとコピーを残す。
「念のため」
それ以上でも、それ以下でもない。
何かあったときに、自分が困らないように。
誰かを疑うためでも、誰かを責めるためでもなかった。
ただ、自分を守るためだった。
その日も、美玖は、プロジェクト用の資料をまとめていた。
新店舗出店に向けた準備資料。
数字を整え、表記を揃え、誰が見てもわかる形にする。
「立原さん、この資料、助かります」
桂田が、そう声をかけてきた。
「あ、ありがとうございます」
美玖は、少しだけ笑って答える。
その笑顔は、慣れたものだった。
胸の奥が少し疲れていても、緊張していても、笑顔だけは崩さない。
それが、派遣として働く中で、自然と身についた振る舞いだった。
資料を提出し、コピーを保存し、業務日誌に簡単なメモを残す。
――今日も、ちゃんとやった。
そう思いながら、美玖はパソコンを閉じた。
その時はまだ、この「当たり前」が、揺らぐことになるとは、知らなかった。
ただ、静かに、いつもどおりの一日を終えただけだった。




