歴史に残らなかった朝
数百年後。
帝国歴史博物館の一角に、二枚の肖像画が並んで飾られていた。一枚は、銀に近い灰色の髪をした、切れ長の瞳を持つ皇帝。顎を軽く上げ、見る者を見下ろすような、硬質な威厳を纏った構図だった。もう一枚は、その傍らに控える、屈強な体躯の騎士。左眉から頬にかけて残る古い傷跡が、画家の手によって、丁寧に描き込まれていた。
「これがオルグレン三世……通称、改革帝、だってさ」
見学に訪れていた学生の一人が、解説板を読み上げた。
「恐怖政治で名高かった若き日から一転、後半生では数々の善政を敷き、密告制度の廃止や身分を問わない登用制度を確立した、って書いてある。在位中に起きた反乱を鎮圧して以降は、大規模な戦乱も一度もなかったらしいよ」
「へえ。この隣の人は?」
「ケイン・レーヴェンハルト。皇帝の剣、と呼ばれた側近だってさ。生涯、皇帝に最も近い場所で仕え続けた人物、とだけ書いてある」
友人が、解説板にさらに顔を近づけた。
「随分あっさりした説明だね。もっと何か、逸話とかなかったのかな」
「さあ。ただ、こっちの但し書きには――『陛下は生涯、玉座の間の外で、誰も自らの内側へ入れることはなかった』って書いてあるよ」
「へえ。てことは、結構、他人嫌いだったんだね、この皇帝」
学生たちは、そう笑い合いながら、次の展示室へと歩き去っていった。歴史書は、そう記していた。多くを語らず、多くを残さず、ただ結果だけが、淡々と刻まれている。
だが、その"内側"に、当然のように入り込んでいた男がいたことを、歴史書は語らない。
*
遠い昔の、ある朝。
宮殿の一室に、柔らかな朝の光が差し込んでいた。窓の外では、庭の木々が、穏やかな風に揺れている。玉座の間の張り詰めた空気とは、まるで別世界のような静けさだった。
「オルグレン、朝です」
ケインの声が、静かに耳元で響いた。俺は、ケインの腕の中で、目を閉じたまま動かずにいた。
「あと少し」
「執務が控えております。今日は、南部からの使者との謁見もあるはずです」
「知っている」
ケインが、身を起こそうとする気配がした。俺は、とっさにその手を掴んだ。
「離してください」
「嫌だ」
俺は、その手を離さなかった。
「……オルグレンは、本当に、お変わりになりませんね」
呆れたような、それでいて、どこか嬉しそうな声だった。
「変わったところもある」
俺は、目を開けた。窓から差し込む朝の光の中で、ケインの顔が、すぐそばにあった。かつて処刑台で見た、警戒と諦めの入り混じった顔とは、もう似ても似つかなかった。
「お前を、名前で呼べるようになった」
「……それは、確かに」
ケインは、小さく笑った。以前は、ほとんど見せることのなかった、屈託のない笑みだった。
「オルグレン」
「何だ」
「今日も、良い一日にしましょう」
その一言に、俺は小さく頷いた。玉座の重みも、この国の未来も、まだ何も見えない部分は多い。原作という名の地図は、とうに役目を終えている。これから先の道は、誰にも予測できない、まっさらな未来だった。それでも、隣にこの男がいる限り、恐れることはない気がした。
歴史書には、決して残らない朝だった。誰にも知られることのない、ただ二人だけの、穏やかな時間。数百年後、この瞬間を知る者は、誰もいないだろう。肖像画の中の硬い表情だけが、後世に語り継がれていく。
それでいい、と俺は思う。玉座の外側で、誰にも見せない顔を、この男にだけは、これからもずっと、見せ続けていくのだろう。歴史に名を刻まれなくても構わない。この朝が、確かにここにあったということだけで、十分だった。
窓の外では、鳥のさえずりが、いつまでも続いていた。




