2◆小さなプラネタリウム
雨の音は、余計なノイズを消し去ってくれるから好きだ。
だけど、雨が私を嫌っている……。
冷たい水滴が肩を叩く。私はドラッグストアの前で、胸を押し潰されるような苦しみに耐えていた。
荒い息を吐き出すたび、肺の奥が痛む。生まれつきの軟弱な身体が、学校と病院の往復ですらも真っ直ぐ行かせてくれない。
「あのぅ……大丈夫ッスか?」
頭上から聞こえた声に、私はかろうじて顔を上げた。 長い前髪の隙間から見えたのは、派手な茶髪にバッチリメイクを施した、いかにも軽やかで『生きやすそうな』お姉さんだった。
彼女は最初、私を誰かと見間違えたのか大声を上げて驚いていたけれど、私の着ている星花女子学園の制服に気づくと、一転してうろたえ始めた。
「ちょちょちょちょちょっ! 大丈夫っ? じゃないよね? 大丈夫じゃないよね?」
私の両肩に触れた彼女の手は、驚くほど温かかった。 けれど、私はその温もりに恐怖を覚えた。踏み込まれたくない。これ以上、自分の弱さに他人を巻き込みたくない……。
幸い、発作は落ち着いてきた。大丈夫。回復さえすれば、いつもの笑顔で切り抜けられる……。
「本当に……大丈夫ですんで……。ありがとうございます」
大丈夫。私は大丈夫だ。そうやって自分にも言い聞かせ、逃げるようにその場を離れた。けれど、あの派手なお姉さんは、雨の中を走って追いかけてきた。パンプスが脱げそうになりながらも、息を切らして私に一本のビニール傘を差し出してきた。
「怪しいおばちゃんじゃないからね? 返さなくていいから。汚くもないから。風邪でもひいたら大変でしょうが」
一方的に言いたいことだけ言って、彼女は傘を開いた。受け入れるのも苦手だけど、断るのも苦手だ。私が礼を言って受け取ると、彼女は満足げに微笑んだ。
私が濡れるのを心配してくれたくせに、彼女はどんどん濡れていった。どうして自分の分を持ってこなかったのだろう。他人の私なんかに傘を押しつけておきながら、自分が濡れることは想定していなかったのだろうか……。
持ち手には少しだけ、彼女の手の温もりが残っていた。そういえば、彼女の手はとても温かかった。冷え症で羽織り物が手放せない私とは大違いだ。
きっと、生きやすいんだろうな……と小さいため息が出た。羨んだって仕方ない。雨脚が強まってきた。空はすっかり黒い雲に覆われていた。
「……え」
雨を弾く透明なドームの内側を見て、私は思わず足を止めた。
傘のビニール部分には、小さな星や線が丁寧に描かれていた。 ピンク、青、シルバー、ゴールド。愛らしいタッチで描かれたそれは、北斗七星やカシオペヤ座、オリオン座などの星座の形を成していた。
ひとつ、触れてみた。つるつるとした手触り。どうやらこれは、マニキュアで作られているようだ。
重く垂れこめる灰色の雨雲を見上げるようにして傘を透かしてみると、まるで雨空の中に自分だけの小さなプラネタリウムが広がっているようだった。水滴がビニールを叩くたび、描かれた星たちが光を反射してキラキラと揺れる。
「……すごいな。手作りかな……」
感心したようなつぶやきが、自然と口から漏れた。あんなに騒がしくて派手な人だったのに、この傘の内側には、こんなにも繊細で温かい世界を作り上げられるなんて……。
不器用な優しさがそのまま形になったような星座たちを見つめていると、少しだけ胸の痛みが和らぐような気がした。
肺が人より少しデリケートで、幼い頃から入退院を繰り返してきた私には、あんな風に誰かのために走ることなどできない。体育の時間も激しい運動はできないし、季節の変わり目やこんな天候の悪い日には、必ず体調を崩す。心配するより、されるほうが多いのが事実だ。
大きくなったら、こんな虚弱体質ともさよならできるだろうと期待していた。けれど、星花女子学園の高等部に入学してからも、その体質が変わることはなかった。
背が高く、短いボブヘアのせいか、クラスや部活では周囲から『王子様』なんて持て囃されることもある。けれどその実態は、ガラス細工のように脆く、いつ壊れるとも限らない欠陥品だ……。
だから私は、誰にも心を開かないと決めている。
……心配されたくないのだ。
向けられる同情の眼差しや、気を遣わせているという罪悪感。それが何より私を苦しめる。私が弱さを晒せば晒すほど、周りの人は傷つき、疲弊していくから……。
幼い頃、私の病室の傍らで疲れ切った顔をしていた両親の姿を、今でも鮮明に覚えている。私にばかり気を遣うから、妹はきっと私を疎ましく思っていたのだろう。
だから、私は『普通』を演じなければならない。体調が悪くても笑顔で隠し、平気なフリをして、誰の助けも借りずに生きる。
それが私なりの、周りに対する唯一の『誠意』だ……
「早乙女」
呼ばれて顔を上げる。小さなプラネタリウムを眺めながら歩いているうち、いつの間にか昇降口まで来ていた。
片側で結んだロングヘアに、黒縁メガネ。片手にビニール袋をぶら下げた声の主、養護教諭の八神先生が「おかえり」と言いながら、靴を下駄箱へ入れた。私は「ただいま戻りました」と小さく会釈する。
水滴を落としてから傘を畳んだ。八神先生に見られただろうか。私には似合わない、この可愛らしい傘を……。
八神先生はフランクでサバサバした、話しやすいと評判の先生だ。そして、さすが観察眼が鋭い。生徒の異変や嘘をすぐ見抜いてしまう。今だって特に何もツッコんではこないものの、私の手にぶらさがっているビニール傘を、黙ってじっと見ている。
「少し濡れちゃったみたいだな。あたしもギリギリ降られたよ。タオル、貸してあげるから保健室おいで」
何かいつもと違うと思っていたけれど、そういえば先生は白衣を着ていない。黒いカーディガンの肩を払い、「冷たー」と水滴を落としている。
今朝、保健室へ行った時は白衣だった。最近は貧血もあり、連日のようにベッドを借りる私に「一度、ちゃんとクリニックへ行っておいで」と送り出したのは八神先生だった。
「あ……ありがとうございます。先生はどちらへ?」
「ちょっと買い物にね。ガーゼを切らしてしまったから。……で、クリニックは空いてたのか? ずいぶん早かったけど」
上履きに履き替える私の顔色を、八神先生がじっと見つめている。
……もちろん、病院なんて行くつもりはなかった。 病院に行けば、また検査だ入院だと騒がれ、学校を休むことになる。そうなればクラスメイトに余計な心配をかけるし、自分自身が『普通じゃない』ことを突きつけられて耐えられなくなる……。
だから私は、病院に行くフリをして街を彷徨っていた。だが、運悪く激しい貧血と呼吸困難に見舞われ、あのドラッグストアの前で動けなくなってしまったのだ。
なんて言い訳しよう……。俯くと、先生はいきなり私の片腕をべしっと叩いてきた。
「そんな顔するなぁ。あたしは心配するのがお仕事なんだよ。できれば心配させないでほしいが、それを『迷惑かけてる』とは思ってほしくない。だから、体調の悪い時は素直に頼りなさい?」
「……はい。でも……」
「……まぁいい。身体が冷えないうちに乾かしにおいで」
先生は責めなかった。目を合わせると、にんまり笑ってくれた。私の心情を察してくれたのか、呆れてしまったのか。どちらにしても気まずい。それでも、それを口にせず、いつもと変わらない態度で接してくれるから、また保健室を頼ってしまう。
先に行ってるよ、と先生は静かな廊下に消えて行った。湿気できゅっきゅっと鳴る可愛らしい足音が遠ざかる。やがて雨音だけになった昇降口で、私は小さなプラネタリウムをクラス別の傘立てに差した。
「みな……と……」
手放してから気付いた。傘の持ち手に『minato』とペイントされていた。最後の『o』が、丸っこいハート型にアレンジされている。これもマニキュアで書いたのだろう。彼女の名前なのだろうか。
「みなとさん、か……」
断るのが苦手な私は、正直ああいうタイプは苦手だ。きっと悪い人じゃない。お世話好きなのも伝わってくる。だけど、嫌な言い方をするならば強引なのだ。
だけど、返さなくていいと言われて、はいそうですかともらうわけにもいかない……。
あの明るくて騒がしい派手な店員の彼女に、もう一度会って傘を戻さなければ……。
神様はきっと、ああいうキラキラした人には優しいのだろう。私のような、日陰の人間にはいつもそっぽを向いているけれど、たまには雨の日でも少しだけ幸せになれるようにと、彼女の温かさを分けてくれたのかもしれない。
「……ダメだなぁ」
また悲観的になってしまった。体調の優れない時は、余計にすさんでしまう。そして、それがまた更なる体調悪化を呼んでしまうというのに……。
保健室を目指す私の足音も、湿気できゅっきゅっと鳴りだした。弟が履いていたサンダルの音を思い出す。また胸が苦しくなってきた。
いけないいけない。私はネガティブな思いを追い出そうと首を振る。今度はふらついてきた。
「はぁ……」
面倒くさい体質だ。いいことだけを、楽しいことだけを考えよう……。
灰色の空の下で開いた、あの小さなプラネタリウム……。近いうちに、あのドラッグストアへ行こう。傘を返すという口実があれば、私はまたあの眩しいほどの温もりに触れることができるかもしれない……。




