1◇カッパのシャンプーハット
ずっと、不思議に思っていたことがある。
人は、どうして簡単に信じてしまうのだろう。
信じて、裏切られて、傷ついても、また信じてしまう……。
あの日、雨の中出会った黒ネコは、差し出したあたしの手に警戒し、逃げて行った。
君を掬いたかっただけなのに。
どうして疑ったのだろう。
あたしを信じられなかったから……?
傷ついた心が、そうしてしまったの……?
そっか。
君はかしこいね。
ちゃんと学習しているんだ。
二度と、自分が傷つかないために……。
あたしも、学習しなきゃね……。
君を見習わなきゃね……。
でも、できるかなぁ?
あたし、バカなんだよね……。
◇
「いっ……たぁ!」
学園前駅商店街の一角にあるドラッグストア『かめかめ薬局』。店頭に設置している置物の前で、あたしは脳天を摩りながら立ち上がった。
「奇麗に拭いてあげてんのに、ヒドくなーい? もう拭いてあげないよ? わんこにおしっこ引っかけられても知らないからね?」
1メートルほどのカッパの人形『かっぱちゃん』を見下ろし、あたしは大きめの声で悪態をつく。
ゆーて、お掃除もバイトの大事なお仕事。雑にごしごしとお皿を拭いてやる。あたしの脳天を刺しやがった、皿の周りの……なんか分からんげじげじ。拭きながら、ふと思った。そういえば、これって何なの? ここまでが皿なの? それともサウナハットなの?
「その前に、なんでカッパなわけ?」
話しかけても、かっぱちゃんはつぶらなお目々で見つめ返してくるだけ。ちょこんと首を傾げているので『うふっ、内緒』もしくは、『えー、分かんなーい』、それか、『そんなことも分かんないの? バカなの?』と言ってるようにも見える。
「くそぉ、フリーターなめんなよ?」
いや、かっぱちゃんも誰も言ってない。あたしの心の中のネガティブさんがコンチワすると、すぐ戦いたくなるだけ。通りすがりの子供たちの手垢が、皿の次に多い嘴をきゅきゅきゅと拭き、「ほら、美人さんになったよーぉ?」と褒めてやった。
「おはようございます」
かっぱちゃんとの朝の挨拶を終えると、日本語の朝の挨拶が飛んできた。雑巾片手に振り返る。ロングヘアを片っぽで束ねた黒縁メガネのお姉さんが会釈してきた。
「やがみん先生、はざいまーす。これから出勤……にしては遅いッスよね?」
「いやいや、1時間目の真っ最中なんだけどさ、ガーゼの在庫がないのに発注するの忘れちゃってたから。大きめのやつが欲しいんだけど、ある?」
「あー、おっきめですね。オッケーでーす。持ってくるんで、レジんとこで待っててください」
この黒縁メガネのお姉さん。本名は八神先生。『星花女子学園』というお嬢様校の養護教諭さん。おバカ校出身のあたしは教師ってもんが敵にしか見えないけど、このやがみんという先生は、結構フランクで話しやすい。
たまにこうして、保健室に足りない物を買いに来てくれる。ついでにちゃっかり、自分のおやつも買って帰る。今だってお菓子コーナーで、2つでお買い得のチョコを迷わずレジに持ってきている。自由だ。意外と自由だ。
「それ、めっちゃうまうまですよー? エアインチョコって、口ん中で溶かして食べる派ッスか? それとも噛む派?」
「おっ? いい質問だねぇ、水都ちゃん。あたしはね、板チョコは口の中で溶かす派。でも、エアインチョコは食感を楽しむ派」
「マジスか! 気が合うー! あたしもッスよ」
「ふふん、分かってるねぇ。……おっと、もうちょっと語りたいとこなんだが、1時間目終わる前に戻らないとだ。ガーゼとチョコ、会計別でお願いね。それと、領収書も」
「了解ッス」
テキパキと会計し、「あざしたー!」とやがみん先生を見送る。勉強が嫌いでギリギリ卒業したあたしだけど、先生がみんなあんな感じのフランクな大人ばっかだったら、あたしもワンチャン成績よかったかも。
「……いや、それはない。うん。絶対ないね」
計算はレジがしてくれるし、漢字はスマホが変換してくれる。今のところ、おバカでも困ったことは何もない。卒業はしたんだし、後悔もしてない。
そうそう。お勉強なんかできなくても、こうして真面目にフリーターできてるんだから。頭だけよくても人間として詰んでるやつよか、よっぽどマシだかんね。
うん。あたしは真面目に働いてる。夢のためにせっせとお金を稼いでいる。明るい茶髪でも、メイクバッチリでも、ネイルこてこてでも。そこら辺の同じような服ばっか着てるおばちゃんズに何と言われようが、あたしは真面目ちゃんだ。
「ん……? 雨降りそう?」
せっかく本日のお買い得品洗剤を外に並べたのに。濡れたら大変大変。真面目ちゃんなあたしは、いそいそ外に出る。
急に真っ暗になってきた空を見上げた。最近はゲリラ豪雨とかいうやつが流行りらしい。ちょっと待って。ゲリラ反対。反対運動はお空には届かず、控えめな高さのかわいい私のお鼻にぽつんと水滴が落ちてきた。
「やばっ、急がなきゃじゃん」
ふんぬっ! と段ボールごと持ち上げる。おのれ、洗剤。お主、なかなかやるな。重たいではないか。ここはひとつ、出した時のように分割して運ぼう。そうしよう。
諦め、4つほど抱えた。それでもか弱き乙女には重たい。『詰め替え用2リットル入り』と書いてある。おいおい、8キロかい。そりゃ重たいわけだぜベイビー。いや、8キロのベイビーは、なかなかにいないだろ。じゃあデブ猫ちゃんくらい? うーん、デブ度によるか。
「おや?」
若干ハァハァしながらセカンドマッチに戻ると、カッパちゃんを撫でついてる男が目に入った。お皿の部分が気に入ったんですかい? そりゃそうでしょうねぇ。あたしがピッカピカに磨き上げたんですからねぇ。気が済むまでナデナデしてあげてくださいな。
……が、ちょっと様子がおかしい。撫でてるのかと思いきや、寄っかかってる? 肩が上下してるようにも見える。あたしよかハァハァしてる?
「あのぅ……大丈夫ッスか?」
脳天で水滴が跳ねた。雨が強くなってきた。あたしは2歩下がり、ひさしに入った。うちの店はひさしが浅い。カッパちゃんもお兄さんも濡れていく。もう一度「あのぅ?」と声をかけた。
「……だい……じょうぶ、です……」
雨音にかき消されそうなか細い声。お兄さんが少しだけ顔を上げた。長い前髪でよく見えないが、あたしの中の警告灯がぴかんと光った。反射的に「うげっ!」と大声を上げてしまった。
なぜなら……。
「どどどどどっ、どうしてここにいんの? お金ならもうないって言ったでしょー!」
数ヶ月前に別れたヒモ男だった! あたしは後ずさろうとしてゴーン! と後頭部をガラスに打ち付けてしまった。痛い。更におバカになってしまったらどうしてくれるんじゃい。
そんなことより……!
「ね、ねぇ……大丈夫なの? 二日酔い? それとも、またそうやって、あたしの気を引いてお金をたかろうと……」
「……違います……」
「……へ?」
声が……違う?
こんな声だっけ? もうちょっとこう、女心をくすぐる、バリトンボイスで……。
それ以上顔を上げてくれないので、あたしがしゃがんで覗き込んでみた。
「……あ」
違いました。間違えました。全然違う人でした。
しかも、お兄さんでもありませんでした。言い訳をさせてもらうとですね。トラウマがゆえに、防御反応というやつがですね、あたしに『逃げろー!』と指令を出してきたわけですよ。
カッパちゃんに隠れて見えなかったけど、しっかり制服着てるじゃないですか。星花女子の制服じゃないですか。
女の子じゃないですかー!
「ちょちょちょちょちょっ! 大丈夫っ? じゃないよね? 大丈夫じゃないよね? うわぁ、ついさっきまで、やがみんここにいたんだけどなぁ……。君、名前は? 高等部? あぁ、それよか入って入って! ここにいたら濡れちゃう!」
「いえ……すぐに治まりますから……」
「いやいやいやいや、治まるとかおけまるとかそゆことじゃなくてだね? いいからいいから、とりあえず入ろ? 押し売りしたりしないから、とりあえず店ん中入ろ?」
あたしは少女の両肩を掴んだ。骨っぽい。明らか貧弱体型だ。
触れたことに驚いたのか、少女の肩がビクッと跳ねた。濡れた前髪の隙間から、怯えた瞳があたしを見つめる。
奇麗な子だな……と見惚れてしまった。失礼にも元彼と見違えてしまったが、ショートボブヘアも手伝って、美形の少年にも見える。
これが俗に言う『女子校の王子様キャラ』ってやつかいな……。
「……すみませんでした……」
少女はようやくカッパちゃんから手を放し、姿勢を正した。背が高い。150センチないあたしから見ればほとんどの人が高いのだが、20センチくらいは高い? 添えたままだったあたしの手をそっと放し、「ご迷惑おかけしました」とぺこり頭を下げた。
「いやいや、迷惑なんかじゃ全然ないからさ、ちょっと中で休んでいきなよ? まだ顔色悪いし、学校にも電話してあげるから。クラスは? 名前は?」
「本当に……大丈夫ですんで……。ありがとうございます」
笑った。少女は、にこっと笑った。
でも、その笑顔。あたしには分かる。作った笑顔……。
この子は……どうして寂しい目をしているのだろう……。
「わ、分かったから。じゃあせめて傘借りて? 返さなくていいから、持ってって?」
あたしはレジ奥へダッシュする。ビニールの置き傘を片手に外へ戻ると、もう少女の姿は遠くにあった。
あたしは走る。雨の中、お気に入りのパンプスが脱げそうになりながら。
「こらこらこらこら、待ちなさい! 怪しいおばちゃんじゃないからね? 返さなくていいから。汚くもないから。風邪でもひいたら大変でしょうが」
叫びながら追いかけてくるビニ傘妖怪に、少女は驚き振り返った。ワンタッチ、ぼふっと傘を開く。「はい!」と手渡すと、素直に「ありがとうございます……」と受け取った。
少女はもう一度会釈をし、角を曲がる。姿が見えなくなると同時に、いつかの黒ネコを思い出した。
有り難迷惑なのは承知の上。それでも、放っておけないのがあたしの性格なんだからしょうがない……。
……毎日見かけていたあの黒ネコ。ずっと近所をうろうろしていたのに、あの雨の日、あたしが手を差し出してから、二度と目の前に現れることはなかった……。
距離感だの、パーソナルスペースだの、あたしにはそういうものが欠落してるんだ。きっと。踏み込んでほしくない領域が、あたしには分からない……。
と、柄にもなく反省している最中、派手にくしゃみが出た。
「やっばっ! ずぶ濡れじゃん!」
ほったらかしの店に急いで戻り、ブローが台無しになった髪をタオルでわしゃわしゃする。メイクも剥げ剥げ。お母さんの口癖が、脳内で谺する。
『人にお節介やく前に、自分のことちゃんとしなさい!』
またやっちまったなぁ……と、ため息をついた。




