第5話『この席、空いてますか?』
朝の通勤ラッシュ。
ぎゅうぎゅう詰めの車内で、なぜかいつもひと席だけ、ぽつんと空いている場所がある。
車両の端。窓際の一角。
目の前に立ってる人がいても、誰も座ろうとしない。
それに気づいたのは、たまたまそこに座ってしまった日だった。
その日、俺は寝坊しかけて焦っていて、周囲を見る余裕もなかった。
混雑の中、目の前の空席を見つけて反射的に腰を下ろした。
少ししてから気づいた。
周りの視線が、なんとなく――冷たい。
べつにマナー違反をしたつもりはない。
でも、なぜかその席に座っているときだけ、誰とも目が合わなかった。
次の日から、あの席のことが妙に気になるようになった。
たまに座ってみる。何も起こらない。
でも、なんとなく――寒い。
風が吹いているわけでもないのに、背中にすぅっと冷たいものが流れる感じ。
ある朝、ぼそっと声が聞こえた。
「……この席、空いてますか?」
誰もいないはずの隣から。
振り返っても、そこには何もいなかった。
でも、なぜか俺は答えていた。
「……どうぞ」
それ以来、その席はもう“俺だけの場所”じゃなくなった気がした。
日を追うごとに、“隣の気配”は濃くなった。
誰かが隣に座っているような重み。
新聞をめくる音、軽く咳き込む気配。
イヤホンを外すと、かすかに何かの音楽が聞こえるような気がした。
でもそこには、誰もいない。
思い出したのは、小さい頃のこと。
祖母にこう言われたことがある。
「電車では、“誰かの席”には座っちゃダメよ。
ちゃんと、『失礼します』って言ってから座りなさい」
あの頃は、意味が分からなかった。
でも今なら、少しだけ分かる気がする。
今朝も、例の席に座った。
自然に、小声で「失礼します」とつぶやく。
隣の“誰か”は、何も言わない。
ただ、すこしだけ座り心地が柔らかかった。
ふと視線を落とすと、隣の座席に何かが置いてあった。
折りたたまれた、小さなハンカチ。
見覚えがあった。
たしか、昔――通学中に落として、見つからなかったやつ。
指でそっと広げると、端のほうに小さく、刺繍の文字が入っていた。
――それは、俺の名前だった。
その日、電車を降りるとき、俺は自然に振り返って一礼した。
そこにはやっぱり誰もいない。
でも、風の抜ける音が、少しだけ優しかった気がした。




