閑話—やまびこは、誰のもの
29階層は、これまでの圧迫感が嘘のように穏やかだった。
視界の先には岩肌が連なり、削られたような稜線が幾重にも重なる。足場は悪いが、風は乾き、どこか現実の山岳地帯に迷い込んだような錯覚すら覚える。
魔物の気配はある。
だが、散発的で、襲撃の密度も低い。
「……なんか、急に遠足みたいになったね」
ユキが軽く伸びをしながら言う。杖を肩に担ぎ、岩をひょいと乗り越えるその動きには、戦闘の緊張はほとんど残っていない。
「油断しすぎ」
マキは淡々と返すが、その声音もどこか柔らかい。
「でも、確かに……静かすぎる」
エメダは少し遅れて、足元を確かめながらついてくる。剣は腰に収めたままだ。抜く必要がない状況が、逆に不思議に思えるほどだった。
しばらく無言で進んだあと——
ユキがふと立ち止まる。
「ねえ」
「なに?」
マキが振り返る。
ユキはにやりと笑った。
「やまびこ、できそうじゃない?」
一瞬の沈黙。
マキが目を細める。
「……ここで?」
「ここで」
ユキは両手を広げ、岩山に囲まれた空間を指し示す。
「ほら、音反響しそうだし。ちょっとくらい、いいでしょ?」
エメダがわずかに戸惑う。
「えっと……」
マキは小さく息を吐き、肩をすくめた。
「……一回だけね」
「よしきた!」
ユキは一歩前に出ると、大きく息を吸い込んだ。
「おーーーーい!!」
声が山肌にぶつかり、遅れて返ってくる。
——おーーーい……おーーい……
ユキの顔がぱっと明るくなる。
「ほら! やっぱり!」
「……ほんとだ」
マキも少しだけ感心したように呟く。
ユキはすぐに調子に乗る。
「マキー!」
——マキー……キー……
「ユキー!」
——ユキー……キー……
マキもつられて応じると、反響が重なり、少し歪んだ音になって返ってくる。
ユキが笑い出す。
「なにこれ、ちょっと面白い」
「子どもみたいだよ」
「こういうのは子どもでいいの」
エメダは少し離れた位置で、その様子を見ている。
「……やってみる?」
マキがふと声をかける。
エメダは驚いたように目を瞬かせた。
「え、私ですか」
「うん」
少し迷い、視線を下げ——やがて小さく息を吸う。
「……あ、あの……」
声が小さい。
当然、ほとんど返ってこない。
ユキがすかさず言う。
「もっと大きく! 思い切り!」
エメダは一瞬だけ躊躇し、それから意を決したように顔を上げた。
「お……おーい!」
——おーい……おーい……
少し遅れて、確かに返ってくる。
その瞬間、エメダの表情がわずかに緩んだ。
「……返ってきました」
「でしょ?」
ユキが満足げに頷く。
「これ、やり始めると止まらないやつなんだよね」
「ほどほどにね」
マキが釘を刺す。
——が。
その“ほどほど”は、思ったよりも長くは続かなかった。
「もっと長く伸ばしてみようよ」
「じゃあ次、同時に言う?」
「いいね、せーの——」
「「おーーーーい!!」」
——おーーーい……おーーーい……
声は重なり、何重にも反響し、山全体が揺れるような錯覚を生む。
その音は——思った以上に、遠くまで届いていた。
*
最初に気づいたのは、エメダだった。
「……あの」
「ん?」
ユキがまだ笑いながら振り返る。
エメダは、岩陰の向こうを指差している。
「……集まってきています」
「なにが?」
マキが視線を向ける。
次の瞬間——
岩の影、稜線の向こう、足場の隙間。
そこかしこに、“動く影”が見えた。
「……あ」
ユキの笑みが固まる。
「これ、もしかして」
マキが静かに言う。
「呼んだね」
「呼んだね!?」
ユキが一歩後ずさる。
低い唸り声が、あちこちから重なり始める。
一体、二体ではない。
数が多い。
しかも——距離が近い。
「ちょっと待って、こんなにいた!?」
「音で寄ってきたんだと思う!」
マキが即座に判断する。
「やまびこどころじゃないね!」
「全然笑えないんだけど!」
エメダはすでに剣に手をかけている。
「……どうしますか」
マキは一瞬だけ周囲を見渡し、地形を読む。
逃げ道、遮蔽物、敵の配置。
「囲まれる前に動くよ」
短く、明確な指示。
ユキが苦笑する。
「……これ、完全に自業自得だよね」
「うん」
マキはあっさり肯定した。
「反省はあとで」
そして、小さく付け加える。
「生きて帰れたらね」
ユキが息を吐く。
「はいはい、やりますか!」
エメダが一歩前に出る。
その動きは、先ほどまでの遠慮がちなものとは違っていた。
命令を待つのではなく、戦闘に備える“前線の剣士”として。
やまびこは、もう返ってこない。
代わりに返ってきたのは——無数の足音と、敵意だった。
荒い呼吸だけが、山岳地帯に残っていた。
岩肌には焦げ跡と斬撃の痕が刻まれ、つい先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っている。足元には、魔物の残骸がいくつも転がり、ようやく終わった戦いの重さを物語っていた。
「……っはぁ……もう、無理……」
ユキがその場に座り込む。杖を支えにしなければ、立っていられないほど消耗していた。
「自業自得でしょ」
マキは息を整えながらも、容赦なく言い放つ。額の汗を拭いながらも、その目はまだ冷静だった。
「わかってるけどさぁ……あんなに来ると思わないじゃん普通……」
「思わない方が問題」
「ぐうの音も出ない」
エメダは剣を布で拭いながら、小さく息を吐く。
「……でも、全員無事でよかったです」
その言葉に、二人が同時に頷いた。
しばしの沈黙。
風が、岩の間を抜けていく。
ようやく訪れた、穏やかな時間。
——の、はずだった。
「……ねえ」
ユキがぽつりと口を開く。
マキは嫌な予感しかしなかった。
「なに」
「今のさ」
「うん」
「めっちゃ響いてたよね」
「うん」
「さっきより良い場所かもしれない」
「やめて」
即答だった。
ユキはむしろ目を輝かせる。
「いやいや、今度はちゃんと加減するから」
「その“ちゃんと”が信用できない」
「学習したよ? 一応」
「その一応が危ないの」
エメダは二人のやり取りを見ながら、おずおずと口を挟む。
「あの……また、集まってきたら……」
「大丈夫大丈夫」
ユキは軽く手を振る。
「今度は小さめにやるから」
「やらないって選択肢は?」
マキが冷ややかに問う。
ユキは一瞬だけ考える素振りを見せて——
「……ないね」
「断言した」
マキは小さく天を仰ぐ。
「なんでこうなるかな……」
ユキは立ち上がり、さっきより少し控えめに息を吸う。
「じゃあ、軽くね。軽く」
「軽くって言って大きいやつでしょ」
「いやほんとに軽く」
そして——
「おーい」
先ほどよりは確かに小さい。
だが、山は律儀に応じる。
——おーい……おーい……
ユキが満足げに頷く。
「ほら、ちょうどいい感じ」
「……ギリギリだね」
マキも苦笑する。
エメダは周囲を警戒しながら、小さく呟く。
「……今のところは、大丈夫そうです」
その言葉に、ユキが振り返る。
「でしょ? ちゃんと加減すればいけるって」
マキが腕を組む。
「じゃあ、それで終わりね」
「えー、もう一回だけ」
「一回って言って増えるやつ」
「今度は違う単語でいこう」
「聞いてない」
ユキは楽しそうに顔を上げる。
「せーの、でいくよ」
「やらないって」
「エメダも一緒に!」
「え、あの……」
半ば巻き込まれる形で、三人は並ぶ。
ユキが小さくカウントを取る。
「せーの」
「「「おーい」」」
——おーい……おーい……
三つの声が重なり、先ほどよりも広く、深く反響する。
その余韻が、ゆっくりと山に溶けていく。
静寂。
数秒の、完全な静けさ。
ユキが得意げに言う。
「ほら、大丈夫——」
その瞬間。
遠くの岩陰で、何かが動いた。
「……あ」
マキが小さく呟く。
エメダの手が自然と剣に伸びる。
「……またです」
低い唸り声。
今度は、先ほどよりも“数は少ない”。
だが——
「……質、上がってない?」
ユキの声が引きつる。
姿を現したのは、明らかに一段上の個体たちだった。
マキが静かに言う。
「学習してるの、こっちだけじゃないみたいだね」
ユキが乾いた笑いを漏らす。
「……いや、これさ」
「うん」
「もう“やまびこ遊び”じゃなくない?」
「うん」
「“誘敵戦術”だよね」
マキは即答する。
「意図してないだけでね」
エメダが一歩前に出る。
今度は迷いがない。
「……どうしますか」
マキは杖を構える。
「さっきと同じ」
ユキも苦笑しながら構え直す。
「はいはい……ほんと懲りないな、私」
マキが一言。
「知ってる」
そして、小さく付け加える。
「でも、嫌いじゃないよ」
ユキが一瞬だけ目を丸くして——すぐに笑った。
「それ、今言う?」
「今だから」
岩山に、再び魔力が満ちる。
やまびこは、もう遊びでは終わらない。
けれど——
その中心にいる三人は、どこか楽しげだった。




