遠雷 1
フィーアは白く煙る霧の中に独りで立っていた。
霧のせいで遠くが見えない。
静寂と言うにはあまりにも音のない世界。
私は―—。
白く薄い布をまっている。しかも素足だ。
ここは―—どこ?
周りに人はいない。草木もない。
何もない白の世界。
あてもなく歩いていると、かすかに水の流れる音が聞こえてくる。
足に小石があたる。でも痛くない。
ここは河原?
さっきから水の音はするのに、川は見えない。
霧をかき分けるように進むと、人の声が聞こえてきた。
私の他にも人がいる。良かった。
「皆さんここで何をしているのですか?」
「舟に乗せてもらうんだよ」
「舟に乗ってどこかへ行くのですか?」
「ああ、ほら」
男の指す方には何も見えなかった。
「私も舟に乗るのかしら?」
「あの人に聞いてごらん」
あの人?
ああ、あのマントのフードを目深に被って杖を持っている人ね。
杖の先がランタンのように光っていて、とても綺麗。
魔法使いなのかしら。
人々の額に指をかざしている。そして、何やら指示をしているみたい。
右とか左とか。
待っていると、フィーアの番が来た。
「あの、私はあの舟に乗るのですか?」
「そなたの名は?」
「フィーア・フォン・・・・」
「我が名はカロナバス」
カロナバス?冥府への水先案内人の?
本当にいたのね。
カロナバスが私の額に指をかざした。
「そなたは左だ」
「はい」
右を見ると、アメリーが同じように白く薄い布をまとって立っているではないか。
「アメリー?あなたもここへ」
問いかけても返事はない。
「では、出発する」
カロナバスは舟に乗ると、光る杖を天に掲げた。
「ちょっと、待って。私はまだ乗っていないのにっ」
舟は霧の中を進んで行く。
「待って、待って・・・」
*
「待って・・・」
「フィーア」
「カロナバス様・・・」
朧気に瞼を開くと、明るい陽射しが部屋を満たしていた。
「気がついたか」
聞き覚えのある声。けれど、ここはどこ?
フィーアの伸ばした手は、エルンストに握られていた。
「エルンスト・・・様」
「気がついたのだな、良かった」
フィーアはゆっくりと体を起こそうとしたけれど、「うっ」頭を激しい痛みが襲った。
「痛むのか、無理をするな。寝ていろ」
「平気・・・で・・・す」
力なく答えるフィーアをエルンストは強引に寝かしつけた。
「本当に良かった。このままお前の声が聞けなかったら、俺も生きてはいない」
フィーアの髪に指を絡ませる。
「苦しくはないか?他に痛みは?」
「頭が少し。ですが指のしびれなどはありません」
身分の高い人間を毒殺するのに、薬草が良く使われるが、次いで使われるのが水銀だった。エルンストは水銀中毒の知識があるようだった。
「水銀中毒の特徴的な症状はなさそうだな」
エルンストは胸をなでおろした。
「エルンスト様、ここは?」
「離宮の一室だ。皇妃様のご厚意でここに留まることを許されたのだ」
「そうでしたか。夢を、夢を見ておりました」
「夢?」
「私は、冥府へ行くことを拒まれました」
スッと一筋の涙が頬をすべる。
「何を言っている。お前を冥府などへは行かせん」
「どうしてカロナバス様は、私を舟に乗せて下さらなかったのでしょう」
「フィーア?」
「苦しいのです。奴隷になったわが身を呪うこともありました。でも・・・」
フィーアの瞳からは涙が溢れていた。
「死んでしまえば、この苦しみから解放されます。私たちは結ばれてはいけなかった。べーゼンドルフ家を絶やしてはいけません」
「急にどうしたのだ。誰かに何か言われたのか?」
フィーアは力なく首を振る。
「以前から考えておりました。奴隷である私はあなたの未来を奪ってしまう。きっといつか足手まといになります」
「俺の未来とは何だ。帝国の大臣になることか?後継ぎを作ることか?お前のいない人生に未来などない。お前を失うのであれば、べーゼンドルフ家など捨てられる」
フィーアの心は張り裂けそうだった。けれど、もう決心したのだ。
「どうか私を苦しめないで下さい。私を―—鎖から解放してください」
「鎖からだと!?」
エルンストの切れ長の目が大きく見開かれた。
「それは、俺がお前を無理やり鎖でつないでいると言う意味なのか?」
フィーアの唇は動かない。
「それがお前の本心か?俺を永遠に愛すると言ったのは偽りだったのか?」
「・・・はい」
室内の明るさとはあまりにも対象的な空気が流れていた。
エルンストはそっと立ち上がった。
そして部屋から出て行ったのだった。




